
例えば、高級自動車の評価において、移動時間を縮め経済効率を高めることは重要ではあるが、これは豊かさとは無縁である。確かに、馬車を使っていた時代からすると時間辺りの移動距離は飛躍的に伸びて、遥かに安全快適に旅行出来るようになった。しかし、こうした文明の進化は必ずしも豊かさと認知出来ることだけではないことに多くの人が気付いている。
それは、豊かさ若しくは繁栄と云うのは、一義的に感覚をもって感じる文化に含まれるものであるからだ。自動車においても移動時間と居住快適性の反比例する二つの要素が、その質と量を形成している。
文化を感じるのは、皮膚感覚であり、視覚であり、聴覚であり、味覚であり、臭覚である。それらが脳によって総合されたところに、文化が存在する。
故に、文化的な豊かさの追求には、ラテン語における「フマニタス」が基礎となり、ルネッサンス以降は詩人ペトラルカに代表されるようなそうした思潮において、パイデイアと呼ばれるような教育が重視される事になる。そもそもその語源は、ローマの賢人マルクス・トゥッリウス・キケロの「フマニタス」において、動物とは異なる人間の可能性と限界を意味したと云う。
個人の覚醒と自立を促すフマニスムは、社会政治的にも中世の教会からの自立と為政者からの解放へと連なり、それは啓蒙主義へと引き渡されて、富が追求されるようになる。そこに、消費を基礎とした経済と広義の環境を優先させた文化の葛藤が生じる事になる。
そうしたなかで、我々覚醒した近代人はルネッサンス以前へと逆行することは不可能であり、何人も同じ過ちを繰り返す必要は無い事を学ぶ。感覚を磨いて、自らが置かれている環境に気を巡らせて観察しなければいけない。そこにあるのは、ジェンダーの研究者等が論ずるような全身で感じる文化であるかも知れなく、もしかすると冷静沈着な知的に研ぎ澄まされた文化であるかも知れない。
肉体とその情報処理が全てであることには、少なくとも相違無い。抽象的な処理も具体的な五感の経験を基礎としている。言語はただその一部でしかないと云える。
先日、北ドイツで学校ジャックがあったようで、嘗て学校で発砲大量銃殺事件などが重なったので武器だけでなく、今度は残酷なコンピューターゲームが禁止された。人肌感を失い、人間性を未発達にするゲームソフトやアニメーションは、その無感傷のサディスムとマゾヒスムと云う点で、国際証券市場の投機行為に等しい。
人間の六感の衰退は、人々を市場システムの中で奴隷化して教育する。現在の殆どの社会問題の元凶は、何も百年近く前の社会学者の言葉を紐解くまでもなく、如何に文化的に、そのものを乗り越えて解体して行くかが課題となる近代社会の特質にあるのは云うまでも無い。(終わり)
写真:先の大戦中プロパガンダとして使われた石炭自動車とシュマッハーがルマンで乗ったマクラーレン・メルセデス。
