TV生中継などを見ていてそこに劇やアリストテレスの詩学を見るとするのは、「薔薇の名前」の作者ウムベルト・エーコの無名ラジオプロデューサー時代の論文である。この論文が有名なのは、「開かれた芸術」が描かれているからである。
ネットで見つけた、割愛引用掲載されている箇所は、TVの生中継と映像について扱っている。それによると全ては「詩学」としてもしくは古典的ドラマとして理解されるので、観衆は何かを期待することになる。
つまり、シェークスピアが書こうが中学生が書こうが、そのシナリオ(シンタックス)は等しく、起こりうる情況が深みを帯びて、多彩となるだけでなんら変わらないと言うのである。その虚構の世界(セマンティック)では、ただ多彩な意味付けが可能で、寓意が存在したり、あるものが象徴されたり、精神分析的に拡大されるだけなのである。つまりそこに、実存の形を、変わらぬ運命と罪の意識の掟を、世界を取巻く情感をその底層に見出す(プラグマティック)のである。
それとは別に、そこで何が起こるか判らない偶然性は、こうした構築された形式を 補 う ものとして、ここでは位置付けられている。謂わば、構造化された世界認識の方法を、その「開かれた形式」でもって世界の外側から明らかにする。
同時に論文はサミュエル・ベケットなどの芝居を挙げているが、それらの議論はなにも記号論的な複雑な考察を必要とはしない。例えば、ここでその時の流れもしくは(言語の)運動性を考えると、東洋的な「零」もしくは「瞬間」が、我々が解析する「連続する時」を補うことになる。奇しくも「瞬間(記録)」は、メディア関係の従事者たち、もしくはTVに登場するコメディアンたちによって現在最も好んで使われ演じられる用語である。
つまりそうして切り取られる一瞬の残像が、時を刻む世界を映し出す構造となっているのである。これは、北斎の富士山を背景に波が崩れ落ちようとする有名な浮世絵『神奈川沖波裏』にも表れている。それは驚くべき事に、時制どころか、ユークリッド空間すら満足していない。それらの西洋への影響をジャポニスムと呼ぶが、特に印象主義という芸術カテゴリーにおいて、その時の流れが大変 構 造 的 に反照されることになる。
なにもいまさら教科書的なカテゴリーへの観想を述べる必要はないが、最近ダルムシュタットでボイスの芸術を如何に保存するかの議論があったと垣間見た。これなどは、まさに開かれた形態であるパフォーマンスを如何にアーカイヴの引き出しにレッテルを貼り付けて整理してしまいこむかの作業である。
あらゆる事象をその空気をもしくは観念連合的に、あるいは自然科学的に把握すると言うのは、あくまでもそれに意味を与え、見えぬ構造を与えると言うことであり、これもなにも構造主義者の言語学上の複雑な論議を待つまでも無い。当然の事、文化的に変調されたその構造と領域自体が、ここでは偏差している。
それは文学芸術部門においても、前世紀だけでも数多くの 補 足 す る 芸術作品が存在して、それらは言語が意味をなさない、視界が惚ける、音が響かないなどで、1962年のこの論文で示唆されているように、故に今でも教科書的に反面教師的な美意識をもって理解されることが多い。
カオスにしろランダムにせよ、無秩序もしくは枠の無い構造を 認 識 する事は、元来非常に困難で、それらの領域を馴染みある構造の外に追いやるかもしくは考えうる限りに枠構造を構築的に拡大して行くかして、綺麗に引き出しにしまいこむ方法しかないのである。さもなければ、把握出来ないと言う現象は、外界への条件反射が備わっている生物に大変な不安感を与えるからである。
生まれながらの破壊主義的非構造主義者にして、物心ついてからの自称構造主義者は、このように考えるのである。
今日の録音:
ドビュシー 三つの交響的スケッチ「海」 ロンバール指揮ストラスブール饗
参照:
漲るリビドー感覚 [ 数学・自然科学 ] / 2007-01-02
帰郷のエピローグ [ 暦 ] / 2006-12-10
ネットで見つけた、割愛引用掲載されている箇所は、TVの生中継と映像について扱っている。それによると全ては「詩学」としてもしくは古典的ドラマとして理解されるので、観衆は何かを期待することになる。
つまり、シェークスピアが書こうが中学生が書こうが、そのシナリオ(シンタックス)は等しく、起こりうる情況が深みを帯びて、多彩となるだけでなんら変わらないと言うのである。その虚構の世界(セマンティック)では、ただ多彩な意味付けが可能で、寓意が存在したり、あるものが象徴されたり、精神分析的に拡大されるだけなのである。つまりそこに、実存の形を、変わらぬ運命と罪の意識の掟を、世界を取巻く情感をその底層に見出す(プラグマティック)のである。
それとは別に、そこで何が起こるか判らない偶然性は、こうした構築された形式を 補 う ものとして、ここでは位置付けられている。謂わば、構造化された世界認識の方法を、その「開かれた形式」でもって世界の外側から明らかにする。
同時に論文はサミュエル・ベケットなどの芝居を挙げているが、それらの議論はなにも記号論的な複雑な考察を必要とはしない。例えば、ここでその時の流れもしくは(言語の)運動性を考えると、東洋的な「零」もしくは「瞬間」が、我々が解析する「連続する時」を補うことになる。奇しくも「瞬間(記録)」は、メディア関係の従事者たち、もしくはTVに登場するコメディアンたちによって現在最も好んで使われ演じられる用語である。
つまりそうして切り取られる一瞬の残像が、時を刻む世界を映し出す構造となっているのである。これは、北斎の富士山を背景に波が崩れ落ちようとする有名な浮世絵『神奈川沖波裏』にも表れている。それは驚くべき事に、時制どころか、ユークリッド空間すら満足していない。それらの西洋への影響をジャポニスムと呼ぶが、特に印象主義という芸術カテゴリーにおいて、その時の流れが大変 構 造 的 に反照されることになる。
なにもいまさら教科書的なカテゴリーへの観想を述べる必要はないが、最近ダルムシュタットでボイスの芸術を如何に保存するかの議論があったと垣間見た。これなどは、まさに開かれた形態であるパフォーマンスを如何にアーカイヴの引き出しにレッテルを貼り付けて整理してしまいこむかの作業である。
あらゆる事象をその空気をもしくは観念連合的に、あるいは自然科学的に把握すると言うのは、あくまでもそれに意味を与え、見えぬ構造を与えると言うことであり、これもなにも構造主義者の言語学上の複雑な論議を待つまでも無い。当然の事、文化的に変調されたその構造と領域自体が、ここでは偏差している。
それは文学芸術部門においても、前世紀だけでも数多くの 補 足 す る 芸術作品が存在して、それらは言語が意味をなさない、視界が惚ける、音が響かないなどで、1962年のこの論文で示唆されているように、故に今でも教科書的に反面教師的な美意識をもって理解されることが多い。
カオスにしろランダムにせよ、無秩序もしくは枠の無い構造を 認 識 する事は、元来非常に困難で、それらの領域を馴染みある構造の外に追いやるかもしくは考えうる限りに枠構造を構築的に拡大して行くかして、綺麗に引き出しにしまいこむ方法しかないのである。さもなければ、把握出来ないと言う現象は、外界への条件反射が備わっている生物に大変な不安感を与えるからである。
生まれながらの破壊主義的非構造主義者にして、物心ついてからの自称構造主義者は、このように考えるのである。
今日の録音:
ドビュシー 三つの交響的スケッチ「海」 ロンバール指揮ストラスブール饗
参照:
漲るリビドー感覚 [ 数学・自然科学 ] / 2007-01-02
帰郷のエピローグ [ 暦 ] / 2006-12-10