Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

エロ化した愛の衝動

2007-01-04 | マスメディア批評
問題のキルヒナーの「ベルリンの街頭」(34M$)よりも遥かに高額でピカソの絵が競り落とされているのを知って、その絵の厚かましいばかりのエロスに、その高額の理由を認めた。

そして何よりも、資本主義のエロスこそが話題である。それを伝えるのは嘗てのハイデルベルクのスター新約聖書学者クラウス・ベルガー博士の12月27日付けのFAZの記事である。そこでは、同紙で既に紹介された社会学者ミヒャエル・ツェラー博士の「シトー会における、自己消費を越えてしまった過剰生産作業が初期資本主義へと繋がった」とする説が検証される。

もちろんこれは有名なマックス・ヴェーバーの「新教カルバン派が資本主義を形成した」とする見解を批判的に扱っている。そうすると、ヴェーバーが再三に渡って繰り返している「宗教的禁欲」が、真っ向から否定されることになる。

シトー会をチャルタ・カリタティスから見て行くと、彼ら白装束の修道者には職人作業が義務付けられていて、ベネディクト会から分裂後、それが核細胞となっている。本来はその労働から、クルニー修道所で成し遂げられたような繁栄は不可能であったのだが、そこには、ただ単に「パラダイスから追いやられたアダムの末裔」としてではなく、世界を救済する道、すなわち「働くものは創造主を褒めたたえる」とする思想的背景があったものとする。

この修道会には二つの精神的支柱があったと云う。

その一つは、人の弱さを解析して行く瞑想と祈りに見られる、奈落や亡霊や自らへの口実や偽りへの厳しい目であった。「信ずるより審査しろ」と、計画はその結果と比べられて詳しく分析されるのであった。現在の能力開発運動の合理主義の様ではあるまいか。

つまり計画段階において鉱石や木材の資源に目を付けて、恵みと称される水力や風力を合理的に使う業を完璧に身に付けてかつ、森や山の資源を最大限に有効利用して行く。こうした資源の恵みを真剣に扱っていくのは深い宗教心でしかない事は理解できる。そしてそこで収穫されたものは、大都市の作業場を手始めに市場を形成して行く。もちろん修道会員や修道女には、特別価格で供給される。

二つ目に、その経済衝動を維持する事となる宗教のエロ化が挙がる。シトー会の「賛歌」へのコメントやマクデブルクのヘルフタの書きものからこれが知れるという。全身全霊による帰依は、宗教をエロ化して行き、現代で云う「愛」に至る。それは、シトー会をベネディクト会に対照させて、そこでは聖アウグスツヌスの神学の本質は経済性へと向かう。

しかし、シトー会の聖ベルナルドが「労働は貧しいものの額に汗するものではない」と云うように、精巧な日時計による時間の配分、下水道やワイン作りの技術、フェルトのスリッパの発明はただの合理的精神の賜物ではなくて、創造物への愛であり、また技術的経験への慈愛であり、そうした営みが「投資、資源、計画、利潤、会計」システムへの、つまり資本主義への源動力となっていったものとされる。

これは、おそらくヴェーバーが知らなかったであろうシトー会に関してではなく、そこでは仕事の虫とされるイエズス会への、またカルヴァン派への「禁欲」の見解を否定するものである。現に妻帯しないことは、「禁欲」でなくまさに「エロス」であるからとする。

その意味は全霊全身への神への愛と考えると直感的に解るであろうが、「コリントの手紙」のパウルスの言葉を根拠とする事が出来る。其処ではそれを、 神 の み に捧げるのは当然なのである。同様に絶食の合間にはベネディクト会においてもヘミナと呼ばれる酒が毎日振る舞われる。しかしカルヴァン派にとっては、断食や禁欲を強調するには、カトリックにおける仕事の精妙さは恐れ多いものとして映ったに違いないとする。

ヴェーバーが云うようなありとあらゆる専門的な知識や技術は、ここでは純粋で 分 散 し な い 愛の賜物であって、そうした熱狂がベネディクト会を越えたシトー会であったとする。またイエズス会へのヴェーバーの見解に戻れば、合理化された「消費の節約」は精神世界での禁欲であるのだが、ただそうしたイエズス会においてのみ俗世への反作用を重視するのがヴェーバーの説である。

つまり世俗を離れた修道会と云う精神世界における禁欲は、二項対立化されて、世俗における消費生活を映し出すことになるのであろう。こうした考え方は、微妙な形でその後のトーマス・マン作品などにも表れており、フランクフルト学派への影響は云うまでもない。

そして現在においても、その脱構造主義のポストモダニズムの見地からの扱うに値しないマックス・ヴァーバー批判などを聞くことがあるが、消費衝動のリビドーをこうした形で示されると、欧州に於ける脱大量消費・脱消費社会への重要な道標となる。

そして何よりも、ここのタイトルのルターの言葉の価値が再確認された事が喜ばしい。ラインガウのエーバーバッハ修道所も嘗てはシトー会が美味いワイン作りに勤しんでいた。

そしてベルガー教授の結論は、「こうした創造主への愛の進化は、キリスト教社会の意匠となっている。しかし、これを以って世俗化を語るつもりはない。十二世紀におけるシトー会の愛の勃興は、予期せぬ愛の創造的衝動への解放として、人類の過激性の発散として理解できる」となっている。



参照:
製品への拘りと愛着 [ 生活 ] / 2006-12-30
近代科学の限界に向合う [ アウトドーア・環境 ] / 2006-05-04
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
コメント (2)
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