Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

でも、それ折らないでよ

2007-01-26 | 文学・思想
のキルヒナーの名画の一件での議論がある。戦後の美術館側の問題とそれらを正して来なかった研究の不備である。これは、戦勝品の取り返しにおいても、そもそも十分に調査検討しておかなければいけなかった。フランクフルトで表現主義の言葉も無い頃に存在したルートヴィッヒ・ロジー・フィッシャー・ユダヤ人夫婦のギャラリーの存在などを無視してきたことが誤りの様である。

ようやく冷え込んで、山は雪になっている。ダヴォースも恒例の国際フォールムの時期となった。そこで、昨年末に購入したトーマス・マン作「魔の山」の雪の章などを開いて見る。

この部分が、この大部の中でも特別な章になっていることには異論は無い。ある意味、サナトリウムと言う閉じられた社会が描かれている全体を、これまた典型的なドイツロマン派の「さすらい人」の世界の目を通して反照しているのである。

その目は、明らかにロマン派と象徴・表現主義へのパロディーとなっていて、尚且つ主人公が語り手であるような三人称の新即物的な書法によって、主人公の思考をそのまま書き綴っている。俗に二人称で独り言すると言われるように、主人公が第三者の目で自己を語る客観性が存在している。

それが即物的になるのは、誰一人居ないたった一人の雪山であるからだ。こうした情景は、シューベルトの歌曲などでお馴染みであるが、その視点が記憶の底へと立ち入ってみたりと、明晰とせず曖昧にヘルダーリンのような思考へと彷徨して行く。

更に、しばしば取り上げられる「折れ易く脆いクレヨン」からの男性生殖器への観念連合は、両性愛への正体を示して、世界を表出させる。そしてそれを借りた学童期の級友の少年とサナトリウムでのロシア系人妻の各々に、「でも、それ折らないでよ」と語らせる:

<Aber mach ihn nicht entzwei: Il est à visser, tu sais>

そのエロスの衝動が、山中の雪に逆さに突き刺したスキーストックで空けた穴に潜む緑掛かった青色であり、それが彼や彼女たちの目の色を思い起こさせる時、そうした象徴は耽美を凌駕して、増幅された衝動となる。

そうした読者のリビドーを煽り恍惚へと誘う書法が、音楽作品のように美しく調えられて、この作家の持ち味となっている。そうなると、ありとあらゆる言葉は、記号論的な飛翔を一気に遂げる。

実際この章は、雪山を彷徨い、南国の楽園へとまどろみ、悪夢にうなされて覚醒する事で、悪魔との対話でもあるかのような、二律背反するロマン的な青年の迷いから主人公は解放されて、確信に目覚めるのである。そして全身に血潮を漲らせ、力を爆発させて、山を谷へと下りて行く。それはまるで政敵の指揮者フルトヴェングラーの晩年のソナタ形式解釈のスタイルに近い。

ユダヤ系のスター文学評論家マルセ・ライヒ・ライニツキは、村上春樹をポルノとして寵愛しているが、この章も氏にすると老人の血圧を一気に上げるエンターテイメントに違いない。これを教養小説などと呼ぶのは誰だ。

それにしても、これだけ明快に新即物主義を越える境地を描いて、ロマン主義的な幻想をパロディー化しているにも係わらず、ナチズムへの流れに、特にその美学的な傾向に世界は呑み込まれてしまったのは興味深い。それを物語るのが同作家の「ファウスト博士」である事は自明である。


今日の音楽:アレクサンダー・ツェムリンスキー 弦楽四重奏曲
コメント (2)
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