文学作品の価値はどこにあるのか?文学など縁遠い者にとっては答えに窮する質問であり、文学愛好家には嘲笑に値する愚問であろう。しかし、この文学を絵画や音楽などの芸術に置き換えても良いかもしれない。
引き続きトーマス・マン作の「ファウスト博士」を読み返しているが、芸術文化を扱って、興味の湧くもの全てがここに表現されようとしている。端的に言えば、ある視点からの世界観でもあり、時系軸の上で推移する世界の表現である。
視点からの風景が、固定されたある視点や、超越者の視点で包容出来なくなったのが近代であろうが、時系軸の中でそれも現在進行形として過去から未来へと移り行く中でそれは、世界や世界観を描くことすら困難となる。
この作品においても中世中央ドイツからルターの宗教改革を経て、啓蒙主義から現代へと、1884年から1945年のドイツ語圏を舞台として物語は展開する。そしてそこにモデルとして登場したりする不特定多数の芸術家や作者がロスアンジェルスに亡命して祖国ドイツの、第三帝国の滅亡をその視点から眺めている事実や記載は、この書をその構造で以って意味深くしている。
そこで描かれる時代は、音楽芸術の創造活動として描かれるため、創造の背景としての時代が示される。それは、我々が軽々しく思うように、必ずしも 人 間 個 体 の真実が描かれているとは言えないのである。そもそもそうしたものが存在すると信じるのが難しい。
この作品において、限られた者を/からしか理解しない/されない主人公の作曲家が、中世のファウスト伝説に従って、悪魔との間で主客を明晰にする二項対立の止揚を成し遂げて、創造を齎す神経性梅毒によって朽ちていくのであるが、そのクライマックスを過ぎてから最も誰からも理解され易い「白鳥の歌」の情景へと進む。
その部分には、作者が「メーキング・オブ・ファウスト博士」として態々講釈を付けている。これほどまでに、同時進行的にドイツの敗戦や荒廃を改めて語り手を使って読者に報告して、尚且つその時間的推移に注意を促す枠構造を保持しつつ、敢えてこうした禁じ手を使っている事は留意しなければいけない。
その説明の一つは、地上にも天空にも定まらない「響き」と名づけられた、天使を髣髴させる甥が強いアクセントのスイス語を話すのだが、その言葉から作者の故郷の平地ドイツ語へと地理と時制を越えてのシンタックス(統語)に注意が促されている。同時に、この節はフリードリッヒ・リュッケルトの詩「亡き子を偲ぶ詩」へと遡れて、その内容は表現の月並みさと同じほどセマンティック(歴史文化的意味)に働く。
そして皆に惜しまれ苦闘の中に昇天する「エコー」と呼ばれる甥を見ての会話は、プログマティック(用語)的に解析されるべく、多様なコンテクスにおいて各々に意味を持ち得る。船場のこいはんの苦悶の様子を克明に描く東男谷崎潤一郎の「細雪」の即物性と比べるのが面白い。
それだからこそ、こうした情景は、破局を呼び起こすそれ以前の表現主義的なカタルシスから、読者を護るのである。だからと言ってその変調された情景が効果を持たない訳ではない。それは、上の作者が予め弁解をしている情景が殆どアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲の空気感を髣髴させるのを見ても分かる。建築家ヴァルター・グロピウスの妻となったアルマ・マーラーの18歳の娘マノン・グロピウスの死に及んで作曲された「ある天使の思い出に」と題されたノスタルジーと歴史的意味に満ちた音楽は、まさに多様に綴られたこの情景を含むこの文学作品の形式と同じくする。
トーマス・マンの批判の多い音楽的記述やその切り刻み張りつけたような殆どコラージュ風に多種雑多な情報が組み合わされたモンタージュ作法は、ここに至って新たな成果を上げている。それは何よりも、ドイツ語でドイツ帝国の滅亡を描く方法としてこれ以外にはないかのような作法となっている。
終戦を前にした1943年、一人称で繁華街を彷徨して、ザルツブルクの 天 才 の音楽に神降ろしの如く霊感を覚えたフランス文学者などがいたが、この相違はどうであろう?知能の発達の違いなのだろうか?それとも文化の?何れにせよ、文芸とは、上流から流れの岸辺に立って川上からの語り部を待って、それをまた語り継ぐような作業なのであろう。
今日の音楽:
アルバン・ベルク ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」(1935)
アーノルド・シェーンベルク 弦楽三重奏曲 Opus 45 (1946)
参照:
引き出しに閉じる構造 [ 文学・思想 ] / 2007-01-11
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
多感な若い才女を娶ると [ 女 ] / 2005-08-22
引き続きトーマス・マン作の「ファウスト博士」を読み返しているが、芸術文化を扱って、興味の湧くもの全てがここに表現されようとしている。端的に言えば、ある視点からの世界観でもあり、時系軸の上で推移する世界の表現である。
視点からの風景が、固定されたある視点や、超越者の視点で包容出来なくなったのが近代であろうが、時系軸の中でそれも現在進行形として過去から未来へと移り行く中でそれは、世界や世界観を描くことすら困難となる。
この作品においても中世中央ドイツからルターの宗教改革を経て、啓蒙主義から現代へと、1884年から1945年のドイツ語圏を舞台として物語は展開する。そしてそこにモデルとして登場したりする不特定多数の芸術家や作者がロスアンジェルスに亡命して祖国ドイツの、第三帝国の滅亡をその視点から眺めている事実や記載は、この書をその構造で以って意味深くしている。
そこで描かれる時代は、音楽芸術の創造活動として描かれるため、創造の背景としての時代が示される。それは、我々が軽々しく思うように、必ずしも 人 間 個 体 の真実が描かれているとは言えないのである。そもそもそうしたものが存在すると信じるのが難しい。
この作品において、限られた者を/からしか理解しない/されない主人公の作曲家が、中世のファウスト伝説に従って、悪魔との間で主客を明晰にする二項対立の止揚を成し遂げて、創造を齎す神経性梅毒によって朽ちていくのであるが、そのクライマックスを過ぎてから最も誰からも理解され易い「白鳥の歌」の情景へと進む。
その部分には、作者が「メーキング・オブ・ファウスト博士」として態々講釈を付けている。これほどまでに、同時進行的にドイツの敗戦や荒廃を改めて語り手を使って読者に報告して、尚且つその時間的推移に注意を促す枠構造を保持しつつ、敢えてこうした禁じ手を使っている事は留意しなければいけない。
その説明の一つは、地上にも天空にも定まらない「響き」と名づけられた、天使を髣髴させる甥が強いアクセントのスイス語を話すのだが、その言葉から作者の故郷の平地ドイツ語へと地理と時制を越えてのシンタックス(統語)に注意が促されている。同時に、この節はフリードリッヒ・リュッケルトの詩「亡き子を偲ぶ詩」へと遡れて、その内容は表現の月並みさと同じほどセマンティック(歴史文化的意味)に働く。
そして皆に惜しまれ苦闘の中に昇天する「エコー」と呼ばれる甥を見ての会話は、プログマティック(用語)的に解析されるべく、多様なコンテクスにおいて各々に意味を持ち得る。船場のこいはんの苦悶の様子を克明に描く東男谷崎潤一郎の「細雪」の即物性と比べるのが面白い。
それだからこそ、こうした情景は、破局を呼び起こすそれ以前の表現主義的なカタルシスから、読者を護るのである。だからと言ってその変調された情景が効果を持たない訳ではない。それは、上の作者が予め弁解をしている情景が殆どアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲の空気感を髣髴させるのを見ても分かる。建築家ヴァルター・グロピウスの妻となったアルマ・マーラーの18歳の娘マノン・グロピウスの死に及んで作曲された「ある天使の思い出に」と題されたノスタルジーと歴史的意味に満ちた音楽は、まさに多様に綴られたこの情景を含むこの文学作品の形式と同じくする。
トーマス・マンの批判の多い音楽的記述やその切り刻み張りつけたような殆どコラージュ風に多種雑多な情報が組み合わされたモンタージュ作法は、ここに至って新たな成果を上げている。それは何よりも、ドイツ語でドイツ帝国の滅亡を描く方法としてこれ以外にはないかのような作法となっている。
終戦を前にした1943年、一人称で繁華街を彷徨して、ザルツブルクの 天 才 の音楽に神降ろしの如く霊感を覚えたフランス文学者などがいたが、この相違はどうであろう?知能の発達の違いなのだろうか?それとも文化の?何れにせよ、文芸とは、上流から流れの岸辺に立って川上からの語り部を待って、それをまた語り継ぐような作業なのであろう。
今日の音楽:
アルバン・ベルク ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」(1935)
アーノルド・シェーンベルク 弦楽三重奏曲 Opus 45 (1946)
参照:
引き出しに閉じる構造 [ 文学・思想 ] / 2007-01-11
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
多感な若い才女を娶ると [ 女 ] / 2005-08-22