(承前)明けぬのは、何か?それは、真剣な問題である。
主人公レーファークーンの家庭は、ザクセンの田舎者かシュマルカーディッシュの家系とされる。それが意味するものは、ルターの旗本と考えても良いかもしれない。その生き方は、ルターの記した1537年の文章が基本となっている。その内容は改めて扱うべきだろう。
さて、主人公の父親は、雪の夜など豚の革張りの聖書に挟まれたダヴィット・フォン・シュウァイニッツの格言を読み、自然科学の「研究」を趣味とする。そして、子供や妻を背に腰掛けて海洋動物などの図鑑の色刷りの絵に没頭しつつ、時折その不思議さを子供たちに説明するのである。
蝶などが保護色でもなく警告色をも強調していないのはなぜか?そして四角い大きな天眼鏡を子供たちに渡して、観察させるのである。そしてその自然の妙に父親は、創造主を感じて、貝殻の不思議から人間の骨格によって守られるものに考えが及ぶ。
そして子供たちに語りかける。「君達の肘とか肋とかを触ってみると、その 中 に 肉とか筋肉とかを支える骨格があるよね。それを君達は抱えているのだね。云うなれば、それが君達を抱き支えているのだ。」
そして「それがだね。この生き物はだ、その頑強さを外へと出して、それを骨格としてではなく住処としている。それは外身であって中身でないのだ。それが彼らの美しさなのだ。」と続ける。
子供たちは、この父親のミスティックなもしくは予感に満ちた半ミスティックな思索と洞察に笑いを堪える。実際に中世の媚薬や麻薬は貝殻に入れられて、舎利に纏わる神器はこうした貝殻で出来ている事を語り、錬金術や魔女の厨房も晩餐をも並列して、恩恵や美、毒や魔術、妖術や神技を二項化していく。
物理数学的なカオス・フラクタルの解析や 発 見 もただの構造化された自らの言葉による表現でしかないと悟っている。不思議な文字を発見して暗号を解読しようとして、土柱を研究して、水滴を弄るアドリアンの父親をみて、子供ながら語り手は、それが解った述懐する。
語り手は更に、「宗教改革と云うものは我々の自由な思索へと、スコラ哲学を橋渡ししたのとぐらい同じぐらいに、教会分裂までへと深く溯り、忌々しい教育への情熱をも橋渡ししたのである」と論ずる。
さて、それではややもするとミスティックな観想とそれを導く観察がなぜにまたこのようにエロスに満ち溢れているのか?
それは、あたかも焼き鳥の足に肉がついて、しゃぶりついてもそこがこそげない苛立ちなのである。幾ら求めても見えない創造主。飽くなき自然科学の探求への欲望。ユング流に云えば、リビドーなるもの全ては肉欲と変わらないのである。(終わり)
主人公レーファークーンの家庭は、ザクセンの田舎者かシュマルカーディッシュの家系とされる。それが意味するものは、ルターの旗本と考えても良いかもしれない。その生き方は、ルターの記した1537年の文章が基本となっている。その内容は改めて扱うべきだろう。
さて、主人公の父親は、雪の夜など豚の革張りの聖書に挟まれたダヴィット・フォン・シュウァイニッツの格言を読み、自然科学の「研究」を趣味とする。そして、子供や妻を背に腰掛けて海洋動物などの図鑑の色刷りの絵に没頭しつつ、時折その不思議さを子供たちに説明するのである。
蝶などが保護色でもなく警告色をも強調していないのはなぜか?そして四角い大きな天眼鏡を子供たちに渡して、観察させるのである。そしてその自然の妙に父親は、創造主を感じて、貝殻の不思議から人間の骨格によって守られるものに考えが及ぶ。
そして子供たちに語りかける。「君達の肘とか肋とかを触ってみると、その 中 に 肉とか筋肉とかを支える骨格があるよね。それを君達は抱えているのだね。云うなれば、それが君達を抱き支えているのだ。」
そして「それがだね。この生き物はだ、その頑強さを外へと出して、それを骨格としてではなく住処としている。それは外身であって中身でないのだ。それが彼らの美しさなのだ。」と続ける。
子供たちは、この父親のミスティックなもしくは予感に満ちた半ミスティックな思索と洞察に笑いを堪える。実際に中世の媚薬や麻薬は貝殻に入れられて、舎利に纏わる神器はこうした貝殻で出来ている事を語り、錬金術や魔女の厨房も晩餐をも並列して、恩恵や美、毒や魔術、妖術や神技を二項化していく。
物理数学的なカオス・フラクタルの解析や 発 見 もただの構造化された自らの言葉による表現でしかないと悟っている。不思議な文字を発見して暗号を解読しようとして、土柱を研究して、水滴を弄るアドリアンの父親をみて、子供ながら語り手は、それが解った述懐する。
語り手は更に、「宗教改革と云うものは我々の自由な思索へと、スコラ哲学を橋渡ししたのとぐらい同じぐらいに、教会分裂までへと深く溯り、忌々しい教育への情熱をも橋渡ししたのである」と論ずる。
さて、それではややもするとミスティックな観想とそれを導く観察がなぜにまたこのようにエロスに満ち溢れているのか?
それは、あたかも焼き鳥の足に肉がついて、しゃぶりついてもそこがこそげない苛立ちなのである。幾ら求めても見えない創造主。飽くなき自然科学の探求への欲望。ユング流に云えば、リビドーなるもの全ては肉欲と変わらないのである。(終わり)