Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

即物的世俗と主観的宗教

2007-01-18 | 文学・思想
ヒットラーを笑いとしたユダヤ系ドイツ人監督ダニ・レヴィの新作映画「我が総統」が話題となっている。権力者を笑いものにするのは最も手っ取り早いルサンチマンであり、文化圏を問わずに行われている。

ヒットラーについては現在進行形で制作されたチァップリンの映画「独裁者」が有名である。しかしこれは、レッドパージで制作者に疑惑が掛かろうが、所謂典型的なハリウッド映画なのである。

それは何よりも、国民の総統であるドイツ国民の視点が欠けているからでもある。民主主義的な選挙を経て躍進した国家社会主義労働党を支持したのはドイツ国民なのである。それはこの名作映画やハリウッド映画を過小評価することではない。ただそれは、その終景に良く表れているようなユダヤ人の視点からの制作となっている。

その欧州のユダヤ人の視点を単純化する事は出来ない。しかし、それを上手く描いているのはユダヤ人妻を持つトーマス・マン作「魔の山」である。その重要なキャラクターであるイエズス会の過激派レオ・ナフタは、「オペレーション・スピリツアリス」と名づけられた第六章の一節で紹介される。

そこでは、父をユダヤ人の肉捌き人として、社会主義者に出合う興味深い人物像として描かれる。ユダヤ教の世俗的即物性と社会主義を、カトリックへの改宗の親和力とする一方、プロテスタントの沈思の傾向と宗教的主観性との距離感が示される。

この作品では、改宗したユダヤ人イエズズ革命家は、ヒューマニスト、サッテムブリーニに当てる人物として創造されている。そしてここで描かれる第一次世界大戦前夜と、また大分後になって第二次世界大戦を終えた時点での創作「ファウスト博士」の場合とを比較する事は大変興味深い。

最近では、毛沢東を茶化したモダーン芸術が中華人の制作として良く目に付く。しかし、これらも自らを独裁の被害者としての視点で、ただニタニタと笑い飛ばしているような程度のものが多い。
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