日本からの荷物に九十年代半ばのオーディオ雑誌が入っていた。読んだ覚えもなく、日本に一切入国していないその十年以上の期間なので、購入を依頼しておきながら中身を読んでいない代物である。
何故必要だったかはよく思い出せないが、何か手伝い仕事の内容が掲載されていたような気がするが、十年以上も前のことなので十分に覚えていなく、未だに調べる気もしない。あまり過去の事には拘らない性格だからだろうか。
それを居眠りしながら見ていて、まだあの時代はオーディオなどと呼ばれる趣味が存在したのだなと驚いている。なるほど当時の仕事仲間にハイエンドを目指して居た者がいて、ニシキヘビのような太いスピーカーコードを持ち歩いていて皆の笑いを誘っていた。
そして今一寸思いあたって、土壌とワインなどという趣味もこうした滑稽なオーディオ趣味とそれほど変わらないなと感じたのである。例えば、可聴範囲外の超高音が出ているだとか、和紙が揺れるような低音が出て居るとか、小林秀雄が五味康祐の狂人振りを綴るが如く、リースリングのなんたらとか宣のはそれに良く似ている。
音の解析度とか空間再現度、音量や音質に、全周波数域に素直な特性などと言うのは、リースリングで言えば、酸と糖とアルコールのハーモニーと呼ばれるものに極似している。
そしてそれをつき詰めていくと、分析値などは全く役に立たずに、純粋に感覚を磨いて自己のすべてを注入して判断するしかなくなるのも同じである。だからこそ興味が尽きなく、永遠に楽しめるホビーとなるのである。
それでもオーディオ趣味にはよりオタクで周りから見ていると馬鹿にしか見えない間抜けな感じがあるのは何故だろうか。「スピーカーをマイクロファイバーの眼鏡拭きで磨いて」などと読むとどうしても真似をしてやってしまうのだが、これなどは「新月の夜に樽詰めしたり」するビオディナーミックの感覚でしかない。信じる者は幸せである。
ワインの場合の救いは、その出来上がったものには消費者は手を加えることが殆ど出来ないことで、精々間違いない保存環境を整えてやりデキャンターや温度や飲み頃を計ることことぐらいである。実際の醸造所内の判断は、基本コンセプトに従って間違いのない調整を施すのだが、その収穫された葡萄の素性を隠すことは出来ない。
実は、オーディオの場合も録音の入口まで遡ると、HIFIオーディオにおける「幻想を働かせる余地」は全くなくなってしまう。つまり会場や用具の選択やマイクロフォンのセッティングや調整で既に理想は人為的に定められてしまっている。そして所詮、音波を機械によって変調したものを再び変調してあるだけに過ぎないと実感すると、まどろみの無い所から夢も生まれない。
蛇足ながら、人為的に十分に制御できない雑音や例えばライヴ録音などの環境音をオーディオにて取り出して楽しむ一種の「覗き趣味」が存在するが、これはある意味その環境全体を捉えようとする試みであって、通常のHIFI趣味よりも高尚とする考え方もある。しかし、所詮最初の機械的な音波の変換が介在する限定が存在していて、現実の人間の固体が感じる体験とは異なる擬似空間である事を肝に銘ずる必要がある。謂わばワインスノビズムにおける、「ああ、このワインはあの太陽と風を受けて、何々の樽で熟成された味がする」と宣ような馬鹿らしさがそこに漂う。
そこがワインにおける不思議さと全く異なっている。勿論ワインの醸造におけるコンセプトは人の匠であるが、真のワイン愛好家はそのようなものよりも年度や地所による相違にこそ興味があるのだ。
オーディオにおいても典型的な例として挙げられるのは、加齢による高音の難聴であり、一般生活では気がつかないだけで四十過ぎれば二十歳台とは同じである訳がない。要するに、電気的な変調の過程を通らなくとも、生でそのまま聞く音自体が既に各人各様であって皆が同じように聞きとれることはない事実は、人間の固体差の問題であり、よく言われるオーディオ機器やワインの固体差以上に深刻な問題なのである。だからこそ、人を追い詰める永遠の課題のようなものがそこに止揚される。
其々の趣向があって初めてそこに趣味の世界が生まれるのだが、同時になにも皆がアシミレーションしているゾンビ人間でなくともやはり普遍的な趣向と言うものが存在するからこそ、そこに価値観や市場が生まれてくる。
ただ、繰り返すことになるが、オーディオの場合はかつて使われたハイフィデリティーHIFIの原典が人為的もしくは端から存在しないことから、そこに大量消費の市場が発生してまた消滅していく。ワインの場合は、工業生産物でないので当然の事だが、その原典を人は誰も定める事が出来ない自然の恩恵なのである。葡萄の品種の改良は出来るが、それはあくまでも副次的な技でしかない。醸造は自然の恩恵をある前提の中で如何に利用するかの点で作曲活動など創作活動に近い。しかし、良い職人がなせるのは良い愛好者が自然の恵みを実感出来るワイン作りの匠にほかならない。
参照:
酸フェチにはたまらない1本 (新・緑家のリースリング日記)
カートリッジ騒動 (KOAな生活)
懐かしのオーディオ機器のカタログを発見 (電網郊外散歩道)
何故必要だったかはよく思い出せないが、何か手伝い仕事の内容が掲載されていたような気がするが、十年以上も前のことなので十分に覚えていなく、未だに調べる気もしない。あまり過去の事には拘らない性格だからだろうか。
それを居眠りしながら見ていて、まだあの時代はオーディオなどと呼ばれる趣味が存在したのだなと驚いている。なるほど当時の仕事仲間にハイエンドを目指して居た者がいて、ニシキヘビのような太いスピーカーコードを持ち歩いていて皆の笑いを誘っていた。
そして今一寸思いあたって、土壌とワインなどという趣味もこうした滑稽なオーディオ趣味とそれほど変わらないなと感じたのである。例えば、可聴範囲外の超高音が出ているだとか、和紙が揺れるような低音が出て居るとか、小林秀雄が五味康祐の狂人振りを綴るが如く、リースリングのなんたらとか宣のはそれに良く似ている。
音の解析度とか空間再現度、音量や音質に、全周波数域に素直な特性などと言うのは、リースリングで言えば、酸と糖とアルコールのハーモニーと呼ばれるものに極似している。
そしてそれをつき詰めていくと、分析値などは全く役に立たずに、純粋に感覚を磨いて自己のすべてを注入して判断するしかなくなるのも同じである。だからこそ興味が尽きなく、永遠に楽しめるホビーとなるのである。
それでもオーディオ趣味にはよりオタクで周りから見ていると馬鹿にしか見えない間抜けな感じがあるのは何故だろうか。「スピーカーをマイクロファイバーの眼鏡拭きで磨いて」などと読むとどうしても真似をしてやってしまうのだが、これなどは「新月の夜に樽詰めしたり」するビオディナーミックの感覚でしかない。信じる者は幸せである。
ワインの場合の救いは、その出来上がったものには消費者は手を加えることが殆ど出来ないことで、精々間違いない保存環境を整えてやりデキャンターや温度や飲み頃を計ることことぐらいである。実際の醸造所内の判断は、基本コンセプトに従って間違いのない調整を施すのだが、その収穫された葡萄の素性を隠すことは出来ない。
実は、オーディオの場合も録音の入口まで遡ると、HIFIオーディオにおける「幻想を働かせる余地」は全くなくなってしまう。つまり会場や用具の選択やマイクロフォンのセッティングや調整で既に理想は人為的に定められてしまっている。そして所詮、音波を機械によって変調したものを再び変調してあるだけに過ぎないと実感すると、まどろみの無い所から夢も生まれない。
蛇足ながら、人為的に十分に制御できない雑音や例えばライヴ録音などの環境音をオーディオにて取り出して楽しむ一種の「覗き趣味」が存在するが、これはある意味その環境全体を捉えようとする試みであって、通常のHIFI趣味よりも高尚とする考え方もある。しかし、所詮最初の機械的な音波の変換が介在する限定が存在していて、現実の人間の固体が感じる体験とは異なる擬似空間である事を肝に銘ずる必要がある。謂わばワインスノビズムにおける、「ああ、このワインはあの太陽と風を受けて、何々の樽で熟成された味がする」と宣ような馬鹿らしさがそこに漂う。
そこがワインにおける不思議さと全く異なっている。勿論ワインの醸造におけるコンセプトは人の匠であるが、真のワイン愛好家はそのようなものよりも年度や地所による相違にこそ興味があるのだ。
オーディオにおいても典型的な例として挙げられるのは、加齢による高音の難聴であり、一般生活では気がつかないだけで四十過ぎれば二十歳台とは同じである訳がない。要するに、電気的な変調の過程を通らなくとも、生でそのまま聞く音自体が既に各人各様であって皆が同じように聞きとれることはない事実は、人間の固体差の問題であり、よく言われるオーディオ機器やワインの固体差以上に深刻な問題なのである。だからこそ、人を追い詰める永遠の課題のようなものがそこに止揚される。
其々の趣向があって初めてそこに趣味の世界が生まれるのだが、同時になにも皆がアシミレーションしているゾンビ人間でなくともやはり普遍的な趣向と言うものが存在するからこそ、そこに価値観や市場が生まれてくる。
ただ、繰り返すことになるが、オーディオの場合はかつて使われたハイフィデリティーHIFIの原典が人為的もしくは端から存在しないことから、そこに大量消費の市場が発生してまた消滅していく。ワインの場合は、工業生産物でないので当然の事だが、その原典を人は誰も定める事が出来ない自然の恩恵なのである。葡萄の品種の改良は出来るが、それはあくまでも副次的な技でしかない。醸造は自然の恩恵をある前提の中で如何に利用するかの点で作曲活動など創作活動に近い。しかし、良い職人がなせるのは良い愛好者が自然の恵みを実感出来るワイン作りの匠にほかならない。
参照:
酸フェチにはたまらない1本 (新・緑家のリースリング日記)
カートリッジ騒動 (KOAな生活)
懐かしのオーディオ機器のカタログを発見 (電網郊外散歩道)