流石にこの二日ほどは暑くなった。それでも時折吹く風が涼しい。夜中は窓開け放たれると布団が気持ち良い。前日に走れなかったのでゆっくりと峠を往復してきた。徐々に摂氏22度へと上がって行くとやはりつらく汗だくとなった。車の燃料のボードコムピューターが0から上がらないので焦っていた。前日の晩には3l残っていることになっていたので、それが一挙に気化してしまうことは無いだろうが、少なくとも燃料計測の浮きのところにはなかたっとみられる。そのまま結局スタンドの前を通って自宅まで帰って車庫入れしたが、週明けに本当に動くだろうか?最悪の場合はまた前回のように暑いところをポリタンを持ってスタンド往復だ。水曜日までの我慢だ。木曜日に最後のサマーカットにして、そして涼しくなる。
クリーヴランドからの放送を夜中に録音しておいた。結局途中で目が醒めているのだが、途中から入力を落とすほどには覚醒していない。なので強音では完全にサチって仕舞ったが、とんでもないダイナミックレンジで収録されているようだ。そもそも歌手を高みにおいて、最小音から完全に鳴らせ切れない会場一杯の強音までだから、可成りマイナスに伸びている録音で、そのようなマイクロフォン設置なのだろう。通常にスピーカーで鳴らす限りはそれほど歪感は感じない。こちらの録音上の不備よりもこの管弦楽団の特徴とその会場の問題が良く分かった。それが丁度この楽団の限界にも通じる。音資料にはなりそうだ。
具体的には指揮者のメストが語っていたように、アメリカの楽団の特徴として棒が振り落とされた瞬間に音が出てしまうので、同じ拍で声を出そうとしても息を貯めるまでの一瞬遅れる。だから欧州の座付き楽団は音がなかなか出ないようになっていることで、この「トリスタン」二幕でも高台から歌うシュテムメらの声の指揮は、昨年の「子狐」のルクセムブルク公演の時のように合わせたのだろう。基本は声の方が棒を早めに見て合わせていたと記憶する。あの曲は難しい。
それで、そして夕刻のザルツブルクからの「魔笛」から、決して悪くは無かったラトル指揮のDVD化されているバーデンバーデンでの最初のそれを思い出したのだが、そもそも最後の「パルシファル」でも全く舞台の上を見上げずに振っていた事が話題になったのを思い出した。歌手も直後のインタヴューでなにも指示が無いから勝手にやらして貰っている旨を語って、直ぐにネットではその部分がカットされていた。
あのペトレンコでさえ「ジークフリート」では歌手に対して逐一と指揮していたのは其れこそマーキングしてある要所要所だけで、「三部作」との大違いに驚いたのだが、ラトルは顔さえ殆ど上げなかった。それでも「魔笛」となるとザルツブルクでのヴィーンのなんとなく合わせる妙技とは違うので少なくとも管弦楽団は見事に弾き切っていて、歌手の問題も殆ど無かったと記憶する。そして「パルシファル」でも最終的に破綻は無かった。
次に日本に滞在する機会があったら是非そこの管弦楽を聞いてみたいと思っている。「東京・春の祭典」のヴィデオが出ているようなので少し見てみた。都饗は昔黛の番組に出ていたかどうか知らないが殆ど聴いたことが無い楽団だ。N饗でもどこでも似ていると思うがやはり日本のそれらしい音が響いている。初めは会場や録音の特徴かなと思ったが、やはり独自の響きがある。最近は中声部のヴィオラ陣がとても気になるのだが ― なにもヴィオラ弾きの恋人がいる訳ではない ―、そこの弾き方次第で管弦楽がどのような和声を響かしているかがよく分る。MeTooデュトワとN饗のフランクフルト公演でその辺りが欠落していると指摘した時には、第二ヴァイオリンとヴィオラを同じぐらいにしか捉えていなかったが、今は後者の具体的な問題として認識する。しかしこれはなにも日本の楽士さんをバカにしているのではなく、先日もミュンヘンの座付きの課題であったり、ベルリンのフィルハーモニカーのそこがフィラデルフィアやクリーヴランドに比べるまでも無く、ゲヴァントハウスやコンセルトヘボウと最も異なるところだと考えている。そこにも留意して第七交響曲イ長調も勉強しようと思う。
なんだかんだ文句をつけながら女流指揮者が振った演奏会を最後まで流してしまった。モーツァルトのト短調交響曲はよく弾けていて、シュトッツガルトのSDRでも中々こうは弾けないだろう。なるほど訳の分からない東欧の楽団などを興業させても東京では入らない筈だ。そして日本人の几帳面さがリズムや謡いまわしなどによく表れていて、それが良くも悪くもある特徴となっていて、私はバッハの楽団で世界的な新鈴木メソッドとそれを呼んでいる。やはりこの四半世紀で日本の音楽市場事情は変わっていることは間違いなさそうで、歌曲の会にしてもある種のプログラムでは欧州ではなかなか成立しないような充実があるかもしれない。さて、日本滞在の節は、何処の会場で何を聴こうか。
参照:
最も暑い週末を迎える 2018-08-05 | アウトドーア・環境
情報量の大小を吟味 2018-07-11 | 文化一般
クリーヴランドからの放送を夜中に録音しておいた。結局途中で目が醒めているのだが、途中から入力を落とすほどには覚醒していない。なので強音では完全にサチって仕舞ったが、とんでもないダイナミックレンジで収録されているようだ。そもそも歌手を高みにおいて、最小音から完全に鳴らせ切れない会場一杯の強音までだから、可成りマイナスに伸びている録音で、そのようなマイクロフォン設置なのだろう。通常にスピーカーで鳴らす限りはそれほど歪感は感じない。こちらの録音上の不備よりもこの管弦楽団の特徴とその会場の問題が良く分かった。それが丁度この楽団の限界にも通じる。音資料にはなりそうだ。
具体的には指揮者のメストが語っていたように、アメリカの楽団の特徴として棒が振り落とされた瞬間に音が出てしまうので、同じ拍で声を出そうとしても息を貯めるまでの一瞬遅れる。だから欧州の座付き楽団は音がなかなか出ないようになっていることで、この「トリスタン」二幕でも高台から歌うシュテムメらの声の指揮は、昨年の「子狐」のルクセムブルク公演の時のように合わせたのだろう。基本は声の方が棒を早めに見て合わせていたと記憶する。あの曲は難しい。
それで、そして夕刻のザルツブルクからの「魔笛」から、決して悪くは無かったラトル指揮のDVD化されているバーデンバーデンでの最初のそれを思い出したのだが、そもそも最後の「パルシファル」でも全く舞台の上を見上げずに振っていた事が話題になったのを思い出した。歌手も直後のインタヴューでなにも指示が無いから勝手にやらして貰っている旨を語って、直ぐにネットではその部分がカットされていた。
あのペトレンコでさえ「ジークフリート」では歌手に対して逐一と指揮していたのは其れこそマーキングしてある要所要所だけで、「三部作」との大違いに驚いたのだが、ラトルは顔さえ殆ど上げなかった。それでも「魔笛」となるとザルツブルクでのヴィーンのなんとなく合わせる妙技とは違うので少なくとも管弦楽団は見事に弾き切っていて、歌手の問題も殆ど無かったと記憶する。そして「パルシファル」でも最終的に破綻は無かった。
次に日本に滞在する機会があったら是非そこの管弦楽を聞いてみたいと思っている。「東京・春の祭典」のヴィデオが出ているようなので少し見てみた。都饗は昔黛の番組に出ていたかどうか知らないが殆ど聴いたことが無い楽団だ。N饗でもどこでも似ていると思うがやはり日本のそれらしい音が響いている。初めは会場や録音の特徴かなと思ったが、やはり独自の響きがある。最近は中声部のヴィオラ陣がとても気になるのだが ― なにもヴィオラ弾きの恋人がいる訳ではない ―、そこの弾き方次第で管弦楽がどのような和声を響かしているかがよく分る。MeTooデュトワとN饗のフランクフルト公演でその辺りが欠落していると指摘した時には、第二ヴァイオリンとヴィオラを同じぐらいにしか捉えていなかったが、今は後者の具体的な問題として認識する。しかしこれはなにも日本の楽士さんをバカにしているのではなく、先日もミュンヘンの座付きの課題であったり、ベルリンのフィルハーモニカーのそこがフィラデルフィアやクリーヴランドに比べるまでも無く、ゲヴァントハウスやコンセルトヘボウと最も異なるところだと考えている。そこにも留意して第七交響曲イ長調も勉強しようと思う。
なんだかんだ文句をつけながら女流指揮者が振った演奏会を最後まで流してしまった。モーツァルトのト短調交響曲はよく弾けていて、シュトッツガルトのSDRでも中々こうは弾けないだろう。なるほど訳の分からない東欧の楽団などを興業させても東京では入らない筈だ。そして日本人の几帳面さがリズムや謡いまわしなどによく表れていて、それが良くも悪くもある特徴となっていて、私はバッハの楽団で世界的な新鈴木メソッドとそれを呼んでいる。やはりこの四半世紀で日本の音楽市場事情は変わっていることは間違いなさそうで、歌曲の会にしてもある種のプログラムでは欧州ではなかなか成立しないような充実があるかもしれない。さて、日本滞在の節は、何処の会場で何を聴こうか。
参照:
最も暑い週末を迎える 2018-08-05 | アウトドーア・環境
情報量の大小を吟味 2018-07-11 | 文化一般