土曜日のシュルターホーフからの中継は価値があった。当日は恒例の連邦政府解放の日で、首相府の主メルケル首相はなんとアゼルバイジャン出張だった。シュタインマイヤーは知らないが、悪天候に拘わらず何人かのVIPは雨合羽を羽織って最前列に陣取っていたようだ。顔が認識できたのは、シュレーダ―政権時の国会議長ヴォルフガンク・ティレ―ゼ博士だった。東独SPDの代表だった人である。大統領候補になったかどうかは知らないが有名政治家の一人だった。とても盛んに大拍手でご機嫌そうだった。
Strauss: Tod und Verklärung / Petrenko · Berliner Philharmoniker
野外であるから聴衆の反応も分かり難かったが、最初は雨降りで雨中に座らされて腹立たしかったと思う。少なくとも300ユーロを寄付している人があのざまはあまり見たくなかった。しかし後半になって雨も上がり、雨合羽を脱ぎ捨ててからは何とかチャリティコンサートの趣となって来ていたようだ。少なくともニュースでも扱われるようなイヴェントであるから、意地でもという気持ちもあったろう。個人的にはベルリンに住んでいたらあそこに座っていたかと思うと一寸複雑な気持ちだ。何かお土産でも貰えたのだろうか?
だから七番交響曲後の歓声は可成り意味があると思う。そして前夜の喝采以上にかなり熱かったのではなかろうか。スクエアーの中での演奏なので、音響的にも細かな表現は期待出来なかった、その反面とても直截な表現がベートーヴェンでは楽しめた。なるほど細やかなダイナミックスは使えないので、その方での表現の妙は無いかわり、まるで所謂1930年代のノイエザッハリッヒカイトの戦前のベーム指揮のようなゴリゴリ感が迫力になっていた。それでも楽団は、細やかな表現・表情の定着から、過度な緊張を強いられたであろう前日よりもアーティキュレーションが明晰になっていて、とてもよい機会になったのではなかろうか。日曜日のザルツブルクはとても期待される。残念ながら生放送が無いので一週間先に確かめることになり、ルツェルン訪問前には聞けないのが残念だ。来年からは同じプログラムでもフィラデルフィアの欧州イスラエル公演のように立て続けにライヴで流して欲しい。するとペトレンコとフィルハーモニカーの意志がとてもよく見えてくると思う。
余談であるが、芸術的にナシオナルソツィアリズムと相似するような響きがそこで聞かれても、現在のネオナチズムの修正主義の響きとはなりようが無いことから、こうしたものを安心して聞けるのである。それ以上にこうしたザッハリッヒカイトが示す職人的な技の精査こそが、ペトレンコのフィルハーモニカーをもう一つ音楽的に上の次元へと導く原動力であることを実感させてくれる。マイヤーがパユの腕を掴んで、恐らく「あれぐらいでいいかな?」とか声を掛けているのを観ても、楽員の職人魂のようなものが表に出て来ることで全ては好循環へと向かう大きな期待を抱かせた。
バーダー氏のインタヴューにあったように「嘗ての歌手も皆ペトレンコ指揮を絶賛していて、あれだけの高い要求をされながら、誰も自分自身を曲げたとは思っていない不思議」の本質は、基本的にはこうした己の技を磨くことで得られる音楽家の職業的技能やその信条の共通基盤と、ペトレンコの目指すストイックなまでの精査の芸術が相似しているからに違いない。
まさしく近代芸術においては、バッハラー支配人が語るように、オペラ座に集う聴衆も少なくともその晩だけでもそうした絶え間ない営みが希求される芸術に触れることで得られる啓蒙思想的な「今日よりも明日への向上」を体験するという事になるである。それは、いくら幾らの儲けを出して、その金を芸術家の元に落とすことで豊かさを希求しようと考える「更なる大きな市場」のエンターティメントとは、やはり相容れないものであるのが理解可能ではなかろうか。
具体的にこの日の中継映像を観ていると、前日から当日に掛けての課題が一つづつ解決されている様子が、楽員の表情や楽員間の「業務連絡」、指揮者の「良し」サインなどに悉く表れていて、その多くはリハーサルで言及されたことかもしれないが、想像するにこれだけの楽団であるから自浄作業というか修正が楽器陣毎になされているのではなかろうか。主に楽器間のアンサムブルやバランスであろうが、一々指摘されるまでも無く修正されない限りはこの程度の楽団は成り立たないと思う。これをして「猛獣使い」とか何とかいうような馬鹿は流石にいないだろう。
参照:
「あのようになりたい」 2018-08-26 | 音
ベルリナーシュロース話題 2018-08-24 | 歴史・時事
Strauss: Tod und Verklärung / Petrenko · Berliner Philharmoniker
野外であるから聴衆の反応も分かり難かったが、最初は雨降りで雨中に座らされて腹立たしかったと思う。少なくとも300ユーロを寄付している人があのざまはあまり見たくなかった。しかし後半になって雨も上がり、雨合羽を脱ぎ捨ててからは何とかチャリティコンサートの趣となって来ていたようだ。少なくともニュースでも扱われるようなイヴェントであるから、意地でもという気持ちもあったろう。個人的にはベルリンに住んでいたらあそこに座っていたかと思うと一寸複雑な気持ちだ。何かお土産でも貰えたのだろうか?
だから七番交響曲後の歓声は可成り意味があると思う。そして前夜の喝采以上にかなり熱かったのではなかろうか。スクエアーの中での演奏なので、音響的にも細かな表現は期待出来なかった、その反面とても直截な表現がベートーヴェンでは楽しめた。なるほど細やかなダイナミックスは使えないので、その方での表現の妙は無いかわり、まるで所謂1930年代のノイエザッハリッヒカイトの戦前のベーム指揮のようなゴリゴリ感が迫力になっていた。それでも楽団は、細やかな表現・表情の定着から、過度な緊張を強いられたであろう前日よりもアーティキュレーションが明晰になっていて、とてもよい機会になったのではなかろうか。日曜日のザルツブルクはとても期待される。残念ながら生放送が無いので一週間先に確かめることになり、ルツェルン訪問前には聞けないのが残念だ。来年からは同じプログラムでもフィラデルフィアの欧州イスラエル公演のように立て続けにライヴで流して欲しい。するとペトレンコとフィルハーモニカーの意志がとてもよく見えてくると思う。
余談であるが、芸術的にナシオナルソツィアリズムと相似するような響きがそこで聞かれても、現在のネオナチズムの修正主義の響きとはなりようが無いことから、こうしたものを安心して聞けるのである。それ以上にこうしたザッハリッヒカイトが示す職人的な技の精査こそが、ペトレンコのフィルハーモニカーをもう一つ音楽的に上の次元へと導く原動力であることを実感させてくれる。マイヤーがパユの腕を掴んで、恐らく「あれぐらいでいいかな?」とか声を掛けているのを観ても、楽員の職人魂のようなものが表に出て来ることで全ては好循環へと向かう大きな期待を抱かせた。
バーダー氏のインタヴューにあったように「嘗ての歌手も皆ペトレンコ指揮を絶賛していて、あれだけの高い要求をされながら、誰も自分自身を曲げたとは思っていない不思議」の本質は、基本的にはこうした己の技を磨くことで得られる音楽家の職業的技能やその信条の共通基盤と、ペトレンコの目指すストイックなまでの精査の芸術が相似しているからに違いない。
まさしく近代芸術においては、バッハラー支配人が語るように、オペラ座に集う聴衆も少なくともその晩だけでもそうした絶え間ない営みが希求される芸術に触れることで得られる啓蒙思想的な「今日よりも明日への向上」を体験するという事になるである。それは、いくら幾らの儲けを出して、その金を芸術家の元に落とすことで豊かさを希求しようと考える「更なる大きな市場」のエンターティメントとは、やはり相容れないものであるのが理解可能ではなかろうか。
具体的にこの日の中継映像を観ていると、前日から当日に掛けての課題が一つづつ解決されている様子が、楽員の表情や楽員間の「業務連絡」、指揮者の「良し」サインなどに悉く表れていて、その多くはリハーサルで言及されたことかもしれないが、想像するにこれだけの楽団であるから自浄作業というか修正が楽器陣毎になされているのではなかろうか。主に楽器間のアンサムブルやバランスであろうが、一々指摘されるまでも無く修正されない限りはこの程度の楽団は成り立たないと思う。これをして「猛獣使い」とか何とかいうような馬鹿は流石にいないだろう。
参照:
「あのようになりたい」 2018-08-26 | 音
ベルリナーシュロース話題 2018-08-24 | 歴史・時事