土曜日のイヴェントの案内が入っている。ベルリナーシュロースでの演奏会の歴史的背景について述べられている。1929年からこの企画が始まったのも、ベルリンでフェスティヴァルをそれもオペラフェスティヴァルを開いて世界中からの観光客を見越したからだとある。今のミュンヘンのそれに似ている。それに対して芸術的な意義が見つからないとして、このホーヘンツォル家のシュロースを歴史的遺産として使おうとして七回のコンサートが付け加わり、徐々にアトラクションとしての価値を増したようだ。
最初はシュターツカペレや市立劇場の座付き楽団がシュロース音楽隊とされていたようだが、1933年からフィルハーモニカーが登場してエーリッヒ・クライバーが、反ナチ政権の為1935年に亡命する迄ニ年間指揮した。その後、バロックからの作曲家末裔であるハンス・フォン・ベンダが場所に相応しいバロック音楽から古典派までの曲でオープンエアを指揮して人気を博したらしい。その理由は60ペニッヒで聞けるという社会的な使命もあったというから、今でいう何とかForAllというのと同じである。その意味からするとヴァルトビューネとも変わらない。その他戦後内部的に指揮指導をしていたレオ・ボルシャートの名前も挙がっている。さて70年ぶりにどれほどのイヴェントになるだろうか。予定通り隣のベルリナードームのあるルストガルテンでパブリックヴューイングもあるという。
プロムスからのチャイコフスキーを聞いた。ザルツブルクで名演を披露したリサ・バティッシュヴィリの音色を堪能したものだ。ロンドンでは、最初の音から弓が上手く走っていなかった。だからどうしても倍音が響かない。そして飛翔する筈のところがもう一つ行かないだけでなく傷もあった。本人の一時間の時差の影響もあるだろうが、ザルツブルクでの映像制作時のような演奏はいつも叶う筈がない。逆に安心したが、二楽章から三楽章などは挽回して、ザルツブルクよりも上手く行っていたところもあった。それでもラトル指揮でのドヴォルザークよりもいいところが出ていた印象だ。
ラトル指揮と言えばザルツブルクでのマーラー第九が話題になっている。評価が分かれているようなので興味を持った。勿論九月の第一週にそのラトル氏と一緒にルツェルンで同曲を聴く予定だからだ。バイエルン放送での評で大体分かった。大まかにいうと、ハイティンク指揮で期待されるような「白鳥の歌」に近いものではなく寧ろ三番などに近い「愛の音楽」が繰り広げられているという事だ。完全に解釈の問題で、その評価で批判もされ大絶賛もされてもいる。
個人的にはルツェルン音楽祭のHPでの紹介の仕方が本当に正しいのか、それともやや一面に偏り過ぎるのかに関しては疑問があった。少なくともアルマ・マーラーの想い出を見る限りそれほど諦念に満ちた曲ではありえないと思った。それを言えばすでに若い頃の曲でも行き過ぎ感はあるので、本当の表現はそうしたステレオタイプの文学的な解釈では導かれないものだと確信する。
なるほどラトルが得意とする交響曲10番のクック版などを前提とすると、今回の演奏実践は正しいように聞こえる。個人的な興味は、ハイティンク指揮の解釈のアンティテーゼである筈がないと期待させるところにある。私たちにとってはレナード・バーンスタインの呪縛から逃げることが先ず何よりもの関心なので、今回のラトル指揮のストップアンドゴーがゴムひもが伸び縮みするような物理現象的なイメージを抱かせるとしたらそれは格別面白いと思う。しかもラトル指揮の場合は入念にそれをリハーサルで仕上げてきている訳だ。そして四楽章の頭の触りを聞く限り、少なくともベルリンのフィルハーモニカーから期待されたような充実した響きでないことも確かだろう。ラトル指揮のコンサートに何を期待するかの違いだけである。本当のファンはこれからも支持するであろう、そしてただのミーハーにとってはペトレンコへと関心が向かってしまって、もはやロンドンのそれに関心を持つことなどは無いであろう。個人的には散々良い面も悪い面も聞き尽してしまったので、ハイティンク指揮の前の無料の「グルッペン」ぐらいへの関心が適当なのだ。そもそも同地のフィルハーモニアとは違い決して悪い管弦楽団ではないが、ロンドンのシムフォニカーやミュンヘンの放送交響楽団に金を掛ける方が間違いだ。米国の超一流に金をつぎ込んだ方が遥かに価値がある。
参照:
手塩にかけるイヴェント 2018-08-23 | 料理
尻を捲くり立ち留まる 2005-10-29 | 歴史・時事
グァルネリ・デルジェスの音 2018-08-20 | 女
最初はシュターツカペレや市立劇場の座付き楽団がシュロース音楽隊とされていたようだが、1933年からフィルハーモニカーが登場してエーリッヒ・クライバーが、反ナチ政権の為1935年に亡命する迄ニ年間指揮した。その後、バロックからの作曲家末裔であるハンス・フォン・ベンダが場所に相応しいバロック音楽から古典派までの曲でオープンエアを指揮して人気を博したらしい。その理由は60ペニッヒで聞けるという社会的な使命もあったというから、今でいう何とかForAllというのと同じである。その意味からするとヴァルトビューネとも変わらない。その他戦後内部的に指揮指導をしていたレオ・ボルシャートの名前も挙がっている。さて70年ぶりにどれほどのイヴェントになるだろうか。予定通り隣のベルリナードームのあるルストガルテンでパブリックヴューイングもあるという。
プロムスからのチャイコフスキーを聞いた。ザルツブルクで名演を披露したリサ・バティッシュヴィリの音色を堪能したものだ。ロンドンでは、最初の音から弓が上手く走っていなかった。だからどうしても倍音が響かない。そして飛翔する筈のところがもう一つ行かないだけでなく傷もあった。本人の一時間の時差の影響もあるだろうが、ザルツブルクでの映像制作時のような演奏はいつも叶う筈がない。逆に安心したが、二楽章から三楽章などは挽回して、ザルツブルクよりも上手く行っていたところもあった。それでもラトル指揮でのドヴォルザークよりもいいところが出ていた印象だ。
ラトル指揮と言えばザルツブルクでのマーラー第九が話題になっている。評価が分かれているようなので興味を持った。勿論九月の第一週にそのラトル氏と一緒にルツェルンで同曲を聴く予定だからだ。バイエルン放送での評で大体分かった。大まかにいうと、ハイティンク指揮で期待されるような「白鳥の歌」に近いものではなく寧ろ三番などに近い「愛の音楽」が繰り広げられているという事だ。完全に解釈の問題で、その評価で批判もされ大絶賛もされてもいる。
個人的にはルツェルン音楽祭のHPでの紹介の仕方が本当に正しいのか、それともやや一面に偏り過ぎるのかに関しては疑問があった。少なくともアルマ・マーラーの想い出を見る限りそれほど諦念に満ちた曲ではありえないと思った。それを言えばすでに若い頃の曲でも行き過ぎ感はあるので、本当の表現はそうしたステレオタイプの文学的な解釈では導かれないものだと確信する。
なるほどラトルが得意とする交響曲10番のクック版などを前提とすると、今回の演奏実践は正しいように聞こえる。個人的な興味は、ハイティンク指揮の解釈のアンティテーゼである筈がないと期待させるところにある。私たちにとってはレナード・バーンスタインの呪縛から逃げることが先ず何よりもの関心なので、今回のラトル指揮のストップアンドゴーがゴムひもが伸び縮みするような物理現象的なイメージを抱かせるとしたらそれは格別面白いと思う。しかもラトル指揮の場合は入念にそれをリハーサルで仕上げてきている訳だ。そして四楽章の頭の触りを聞く限り、少なくともベルリンのフィルハーモニカーから期待されたような充実した響きでないことも確かだろう。ラトル指揮のコンサートに何を期待するかの違いだけである。本当のファンはこれからも支持するであろう、そしてただのミーハーにとってはペトレンコへと関心が向かってしまって、もはやロンドンのそれに関心を持つことなどは無いであろう。個人的には散々良い面も悪い面も聞き尽してしまったので、ハイティンク指揮の前の無料の「グルッペン」ぐらいへの関心が適当なのだ。そもそも同地のフィルハーモニアとは違い決して悪い管弦楽団ではないが、ロンドンのシムフォニカーやミュンヘンの放送交響楽団に金を掛ける方が間違いだ。米国の超一流に金をつぎ込んだ方が遥かに価値がある。
参照:
手塩にかけるイヴェント 2018-08-23 | 料理
尻を捲くり立ち留まる 2005-10-29 | 歴史・時事
グァルネリ・デルジェスの音 2018-08-20 | 女