スタンドに燃料を入れに行く。予めネットで最寄りの安い価格を調べる。私が最近出掛けるチーパーワンは決まった時間帯に安売りする。その前の他所のスタンドの価格を見ておくと所定の時間帯になった時の推定価格が予想可能である。148から始まったが、他所が144ほどを付けている。上手く行けばその価格以下、少なくともその価格までは先ず間違いない。その時間帯が近づくと期待通り145まで下がった。そこからSHELLの自動車クラブ割引で更に1セント下がる。つまり144で購入となるので、急いでいることでもあり欲張らずに出掛ける。先ずはガス欠で動くかどうかドキドキした。幸い何事も無くスタンドに辿り着いて、給油口の横に停めた。再度価格を確認する。これで手をを打つしかないと思って、給油ノズルを取ろうとすると、更に2セント下がって、143になっていた。これで思い残すことは無い。結局142で20リットル給油した。どれだけ得したことだろうか。前日からこれを楽しみにガス欠の危険を冒して引っ張っていたのだ。メータの不調は変わらず、残り0が出続けていた。もしガス欠となると救援を呼ぶか、暑い中をガソリンが入ったポリタンを持って数キロ行軍であった。冷や汗を掻いたのだった。
ザルツブルク音楽祭のコンサート中継録画を観た。失望させ呉れ続けているアンドリウス・ネルソンス指揮のヴィーナーフィルハーモニカーの演奏で、マーラーの交響曲二番が演奏された。手元が空いていたので、もしやと思って録画していた。そのまさかで、この管弦楽団がこれほどまともに演奏するのを初めて聴いた。この楽団の演奏はオペラ、演奏会双方とも覚えきれないほど聴いている。カラヤン指揮とバーンスタイン指揮は生で体験していないが、ベーム博士指揮の時以上にまともに演奏するのを観聴きしたためしがない。それがこのマティネーの演奏会だった。
同じ場所で同じように「復活交響曲」体験したのはマゼール指揮のゲネプロであった。違いは明らかでその指揮の精度でしかない。マゼールも指揮台を降りて拍の振り方を研究していたが、その程度の精度では全くないようだ。なるほどミュンヘンの座付き楽団が感激して乞うて迎えたがった筈だ。キリル・ペトレンコの原則主義とは大分違って、この指揮者はありの侭を上手く受け入れて、客演でもとんでもない成果を披露する。楽譜の読みも、腰を曲げて頁を捲りながら凝視するかのように結構見ているとは思うのだが、ペトレンコの様には拘らない。これは利点でもあり欠点でもあるのだろうが、少なくともこの楽団を指揮することに関しては今までこれほどの成果を出す人を知らない。ベーム博士のように叱る必要も権威も必要ないのだ。技術と信頼関係だけだろうか。
しかしそれが音楽的な表現として効果があったかどうかは、会場の冷静な反応で測るしかないが、フィルハーモニカーは手応えがあったと思う。サロネン指揮も悪くは無かったようで、放送があればぜひ聞いてみたくなったが、その技術程度からしても音楽性からしてもそれほど期待しない。どんなに指揮者が良くとも11月定期のペトレンコ指揮にも全く期待できないようなドサ周り管弦楽団だけに驚いた。ヴィデオは永久保存ものだ。時間を見て細かな問題点を洗いたい。
取り分け見事だったのは、ヴァルツャーにおけるフィルハーモニカーの香り立つ響きで、これに類するのはメータ―指揮のDecca制作録音しか知らない。ここだけでも指揮者冥利に尽きるだろう。ゲヴァントハウスを振ろうが、ボストンだろうが、ベルリンだろうが、これは得られない。もう一つは終楽章のダイナミックスの付け方で、この指揮者の総譜の読みの確かさと、適格な音化の腕前にほかならない。とても楽団の合奏を活かしながら、その楽団の音響を脳裏に描けるのはこの指揮者の最大の強みだろう。それ故にミュンヘンには興味が無かったとしても致し方が無い。
ここからは妄想となるが、恐らくこの人以上にこの名門楽団を指揮出来る者は存在しないと思われるが、本人は若い男のように色々な楽団を試しながらの伴侶探しのような趣がある。サロネン指揮の演奏会が新鮮で評判としても、それとヴィーナーフィルハーモニカーための指揮とは全く違う。ロスフィルならばそれでもよいのかもしれないが、その方ではソニーグループがジョルダンを売り出そうとしている。国立劇場とフィルハーモニカーは直接関係が無いが、あれだけ立派な指揮をされるとジョルダンはコンサート指揮など恥ずかしくて逃げるに違いない。
どう考えてもゲヴァントハウスとよりはこちらの方が遥かに可能性が高く、相性が間違いないとしたら、ゲヴァントハウスは二年で辞めるのではなかろうか。ジョルダンが劇場でも成功する可能性はかなり低く、こちらも名物の支配人諸共の下ろし運動が起こるかもしれない。但し不可思議なのはザルツブルクの会場がそれほど湧いていなくて、披露したものは通向きなのかもしれぬ。まだ若いのだから、劇場で苦労するのも良いかもしれない。
参照:
見所をストリーミング 2018-07-09 | 音
「死ななきゃ治らない」 2018-07-08 | 歴史・時事
ザルツブルク音楽祭のコンサート中継録画を観た。失望させ呉れ続けているアンドリウス・ネルソンス指揮のヴィーナーフィルハーモニカーの演奏で、マーラーの交響曲二番が演奏された。手元が空いていたので、もしやと思って録画していた。そのまさかで、この管弦楽団がこれほどまともに演奏するのを初めて聴いた。この楽団の演奏はオペラ、演奏会双方とも覚えきれないほど聴いている。カラヤン指揮とバーンスタイン指揮は生で体験していないが、ベーム博士指揮の時以上にまともに演奏するのを観聴きしたためしがない。それがこのマティネーの演奏会だった。
同じ場所で同じように「復活交響曲」体験したのはマゼール指揮のゲネプロであった。違いは明らかでその指揮の精度でしかない。マゼールも指揮台を降りて拍の振り方を研究していたが、その程度の精度では全くないようだ。なるほどミュンヘンの座付き楽団が感激して乞うて迎えたがった筈だ。キリル・ペトレンコの原則主義とは大分違って、この指揮者はありの侭を上手く受け入れて、客演でもとんでもない成果を披露する。楽譜の読みも、腰を曲げて頁を捲りながら凝視するかのように結構見ているとは思うのだが、ペトレンコの様には拘らない。これは利点でもあり欠点でもあるのだろうが、少なくともこの楽団を指揮することに関しては今までこれほどの成果を出す人を知らない。ベーム博士のように叱る必要も権威も必要ないのだ。技術と信頼関係だけだろうか。
しかしそれが音楽的な表現として効果があったかどうかは、会場の冷静な反応で測るしかないが、フィルハーモニカーは手応えがあったと思う。サロネン指揮も悪くは無かったようで、放送があればぜひ聞いてみたくなったが、その技術程度からしても音楽性からしてもそれほど期待しない。どんなに指揮者が良くとも11月定期のペトレンコ指揮にも全く期待できないようなドサ周り管弦楽団だけに驚いた。ヴィデオは永久保存ものだ。時間を見て細かな問題点を洗いたい。
取り分け見事だったのは、ヴァルツャーにおけるフィルハーモニカーの香り立つ響きで、これに類するのはメータ―指揮のDecca制作録音しか知らない。ここだけでも指揮者冥利に尽きるだろう。ゲヴァントハウスを振ろうが、ボストンだろうが、ベルリンだろうが、これは得られない。もう一つは終楽章のダイナミックスの付け方で、この指揮者の総譜の読みの確かさと、適格な音化の腕前にほかならない。とても楽団の合奏を活かしながら、その楽団の音響を脳裏に描けるのはこの指揮者の最大の強みだろう。それ故にミュンヘンには興味が無かったとしても致し方が無い。
ここからは妄想となるが、恐らくこの人以上にこの名門楽団を指揮出来る者は存在しないと思われるが、本人は若い男のように色々な楽団を試しながらの伴侶探しのような趣がある。サロネン指揮の演奏会が新鮮で評判としても、それとヴィーナーフィルハーモニカーための指揮とは全く違う。ロスフィルならばそれでもよいのかもしれないが、その方ではソニーグループがジョルダンを売り出そうとしている。国立劇場とフィルハーモニカーは直接関係が無いが、あれだけ立派な指揮をされるとジョルダンはコンサート指揮など恥ずかしくて逃げるに違いない。
どう考えてもゲヴァントハウスとよりはこちらの方が遥かに可能性が高く、相性が間違いないとしたら、ゲヴァントハウスは二年で辞めるのではなかろうか。ジョルダンが劇場でも成功する可能性はかなり低く、こちらも名物の支配人諸共の下ろし運動が起こるかもしれない。但し不可思議なのはザルツブルクの会場がそれほど湧いていなくて、披露したものは通向きなのかもしれぬ。まだ若いのだから、劇場で苦労するのも良いかもしれない。
参照:
見所をストリーミング 2018-07-09 | 音
「死ななきゃ治らない」 2018-07-08 | 歴史・時事