Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

「あのようになりたい」

2018-08-26 | 
今晩の中継が始まる前に昨晩の感想を書き留める。録音はしたのだが久しぶりに「ドンファン」で音飛びが大分あり使い物にならないが、生放送でじっくり聞いた。オンデマンドのMP3を聞くぐらいならば、再放送とデジタルコンサートで再びこの曲を録音・録画するしかない。しかし演奏は、とても落ち着いていて恐らく今まで演奏された中で最もゆったりしていたのではなかろうか。典型的なペトレンコの指揮で、アーティキュレーションの精密さ以外のなにものでもない。管弦楽団は、弦楽陣は先ず誉めておきたい。特にヴィオラはいい仕事をしていた。その調子で、他の声部と精妙に合わせられるようになれば管弦楽団がもう一つ上のクラスに上がれる。流石に樫本のリードとまたソロも立派だった。しかし予想通り管楽陣はまだまだである。特に木管は、パウのフルートが抜け出て仕舞って、その横のマイヤーのオーボエはみすぼらしく貧相でしかなかった。ブールグ、ゴリツキの弟子か知らないが適格には吹いていたが、あれではドイツ一番の管弦楽団のオーボエストの音として恥ずかしい。それでもバーデンバーデンでは気にならなかった。特に「ドンファン」のようなソリスト的な音楽が要求されると致命傷だ。クラリネットは誰が吹いていたか分らないがそれほど目だたなかった。バーデンバーデンでのフックスは目立っていた。

クラリネッティストと言えば休憩時のインタヴューのアレクサンダー・バーダーのインタヴューがとりわけ面白かった。彼はコーミッシェオパーに在籍していたので誰よりも長くペトレンコを知っている訳だが、先頃のバービカンの演奏会を訪問してその後に食事でもとなっても、ペトレンコは「パルシファルの準備がある」とあれだけのコンサートの後でもまだ準備に怠らない姿勢を語る。インタヴューアが楽士さんの話しとして、「ラトルは、最初はリンカーンを乗るような塩梅だったけど、結局はポルシャにした」と例え話をしたのに対し、恐らくラトルサイドからそうだと納得する。そしてそれならばペトレンコはなにに乗るか?との質問に答えて、ミュンヘンでの五年間の成果を聴いて、その例えからすると船舶の操舵ではないか、つまりポルシェのようなキレキレの遊びの無いハンドル操作ではなくて、時間差がある乗り物となる。それは座付き楽団のその反応時間にもよるとは思うが、寧ろ本質はその後に続き、ペトレンコは殆どどの楽器の間をも自分の中に持っていて、それは月日の信頼関係というようなもので結ばれていると感じるという。そして、それは直ぐに叶うものではなく、数年の月日が掛かるが「私たちもあのようになりたい、それが彼を選んだ理由だ」と語った。

まさしくその通りで、二曲目の「死と変容」は名演だったのだが、上の意味からするとまだまだ可能性があって、あれだけの後年の歌劇作曲家としての音楽的なイメージをそこから引き出す演奏は作曲家本人指揮でも出来なかったと思う。そうした音楽性をフィルハーモニカーは其れこそバーデンバーデンで身に着けて行くことになる。もしかすると間の取り方ももう一つ身に着けるかもしれない。中々我慢出来ずにの感じもあったが、あれこそが座付きの劇場感覚だ。ペトレンコ指揮でのオペラ上演は楽団にとって毎年の音楽セミナーのような時期になると思う。

ベートーヴェンに関しては、休憩時に二楽章アレグレット主題のフルトヴェングラー、カラヤン、アバドの比較がされたが、恐らく中庸というテムポは予想通りで、丁度その比較で言えば如何に最初の拍のテヌートからそれに続く音符一つ一つのニュアンス付けが明らかになる。そして長いクレッシェンドの中でふつふつと情感が熟成されるのは、その適格なリズム運びの棒によるペトレンコの魔法でしかない。敢えて、繰り返し聴く前に音響状況は悪かろうベルリナーシュロースのシュルターホーフからの中継映像を楽しみにしたいと思う。16時のコンサートは、予報ではよりによって丁度その時間帯に短時間まとまった雨となりそうなのでお天気の神に祈りたい。

同時にミュンヘンの方も負けずとインタヴュートークヴィデオをアップした。この内容がなかなか興味深い。指揮者の職業柄スポーティーである必要として、私生活ではどうしているかの質問に、イザール河沿いをサイクリングというのは初めて聞いた。「オテロ」や「サロメ」への更なる見解や演出への夢とか、歌手への視線やら、楽譜の勉強法や新制作準備への手順やら盛沢山で、詳しく纏める価値があるかとも思う。いずれにしても、ペトレンコの芸術の神髄に触れたいと思うならば、音を聞いて「あれっ」と思ったところを、最終的には楽譜に当たるしかないのではなかろうか。楽団との関係と同じように、バッハラーの話しではないがオペラ劇場での虚心坦懐な質の高い聴衆のそれとの対話でしかないのだ。



参照:
期待しないドキドキ感 2018-08-25 | マスメディア批評
ベルリナーシュロース話題 2018-08-24 | 歴史・時事
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