寒くなった。車内温度を19度に設定しているのでヒーターが効くが、雷雨が予想されて、生冷たい風が吹くと肌寒い。久しぶりの厚めのTシャツを取り出した。一月以上薄いTシャツなどしか着れなかったからだ。ジーンズに履き替えて、猿股を洗濯とする。湿気が50%ほどあるので快適ではなく、夏の疲れが出て来る。ここ暫く居眠りがちな時間が少なくなかった。洗濯ものが乾きにくいかもしれないが、まだ気温が摂氏20度を超えるので大丈夫だろう。
歯医者に出かける前に身体状況もメモしておこう。気候の影響もあるかもしれないが、左上歯茎の炎症が収まってくると、右の鼻の奥もより大人しくなった気がする。要するに殆ど分らないぐらいになっているのだが、時々違和感もある。歯茎から炎症が無くなると鼻も完治するのかもしれない。全身に与える影響も少なからずあると思うので期待したい。
その他では、右足の親指の付け根が痛くて歩けないぐらいになったが、駄目かと思って走ってみると治った。そして椅子に座っていると同じように痛くなった。左手の指先が痺れるのも机の高さまで左手を上げて体を捩じっていると痺れる。どうも座業の弊害のようでもある。
ルツェルンの準備の為に先ずは古いべルリナーフィルハーモニカーの録音を聞く。SPのCD化されたもので、DGの古い録音が集められたものだ。1927年から1943年前の録音が並べられている。私達にとっては実際に体験したことの無いサウンドで、当時一体どのように鳴っていたのかの貴重な資料となっている。一緒に収められているクライバーのシュターツカペレなどの豊穣のサウンドと比べると如何にも骨皮のような印象を得るが、その傾向は今でも座付き楽団と交響楽団と差異であり、しばらく聞きこむと如何にシュターツカペレとはいいながらリズムを刻むとジンタになってしまうのだ。これは致し方ない。現在もその傾向は全く変わらない。
ニキシュ指揮の録音は有名だがあまり分らなかった。想定以上に良かったのは1924年録音のブルーノ・ヴァルター指揮の「フィンガルの洞窟」で、録音の制約に拘わらず明確なアーティキュレーションでダイナミックスも正確に付けている。その読みの明確さが意外にキリル・ペトレンコにも共通する。勿論バッハにも影響されている古典的なメンデルスゾーンであるから低声部の発音も歯切れが良い。クナッパーツブッシュ指揮の「ヴァルキューレの騎行」が1928年録音である。やはりこの人の指揮は劇場向きな印象で、それほど上手く行っていない。
さてフルトヴェングラー指揮は1935年録音で「魔弾の射手」序曲で流石に低声部から中声部へとコントロールしている。そして1942年録音のフォン・カラヤン指揮「ツィゴイナー男爵」と比較できるようになっている。驚くのは客演でも完全にカラヤン節が聴かれ、問題の低音のにじみを上手く使っている。そして気が付くのはまさしくそうしたサウンドこそは座付き管弦楽団の妙を機能化したものだという事だ。まだ完全に完成していないからそれが分かったのだ。名録音と誉れ高いフィルハーモニアでの一連の録音では全く消されてしまっている過去の軌跡ではなかろうか。
勿論私たちが今キリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーのサウンドとして期待しているのは、交響楽団としての立派な響きであり、メローな座付きサウンドではない。引き続きフルトヴェングラーのSP録音から運命交響曲を聴いていきたい。七番交響曲の響きがどのようなものであるべきかの示唆がそこにあるかもしれない。兎に角、フルトヴェングラーのそれは拍の頭のアインザッツから次への落とし方が本懐であって、そうした音の密度の縦波が和音のグラデーションとして鳴ることをして和声の機能としていたので、カラヤンのようなずらしは無かった。ペトレンコが振るとその精度が三倍にも四倍にもなる為に演奏精度もそれ以上に高くなる。一度の本番では中々到達不可能な領域である。
今時大管弦楽団のベートーヴェンが本質的な関心を持って演奏されるとは思わなかった。少なくとも戦前の新生交響楽団の名声を取り戻すだけの成果は期待はしたい。それ程バーデンバーデンでのラトル指揮のそれは無意味な演奏行為だった。フランツ・シュミット4番交響曲の晩は大分掃けたがそれでもまだ余っている。四月とは比較にならないほどの名演が体験出来るのに惜しい。
参照:
歴史的年度になりそうだ 2018-08-10 | 暦
冷や汗を掻いて避暑 2018-08-07 | 生活
歯医者に出かける前に身体状況もメモしておこう。気候の影響もあるかもしれないが、左上歯茎の炎症が収まってくると、右の鼻の奥もより大人しくなった気がする。要するに殆ど分らないぐらいになっているのだが、時々違和感もある。歯茎から炎症が無くなると鼻も完治するのかもしれない。全身に与える影響も少なからずあると思うので期待したい。
その他では、右足の親指の付け根が痛くて歩けないぐらいになったが、駄目かと思って走ってみると治った。そして椅子に座っていると同じように痛くなった。左手の指先が痺れるのも机の高さまで左手を上げて体を捩じっていると痺れる。どうも座業の弊害のようでもある。
ルツェルンの準備の為に先ずは古いべルリナーフィルハーモニカーの録音を聞く。SPのCD化されたもので、DGの古い録音が集められたものだ。1927年から1943年前の録音が並べられている。私達にとっては実際に体験したことの無いサウンドで、当時一体どのように鳴っていたのかの貴重な資料となっている。一緒に収められているクライバーのシュターツカペレなどの豊穣のサウンドと比べると如何にも骨皮のような印象を得るが、その傾向は今でも座付き楽団と交響楽団と差異であり、しばらく聞きこむと如何にシュターツカペレとはいいながらリズムを刻むとジンタになってしまうのだ。これは致し方ない。現在もその傾向は全く変わらない。
ニキシュ指揮の録音は有名だがあまり分らなかった。想定以上に良かったのは1924年録音のブルーノ・ヴァルター指揮の「フィンガルの洞窟」で、録音の制約に拘わらず明確なアーティキュレーションでダイナミックスも正確に付けている。その読みの明確さが意外にキリル・ペトレンコにも共通する。勿論バッハにも影響されている古典的なメンデルスゾーンであるから低声部の発音も歯切れが良い。クナッパーツブッシュ指揮の「ヴァルキューレの騎行」が1928年録音である。やはりこの人の指揮は劇場向きな印象で、それほど上手く行っていない。
さてフルトヴェングラー指揮は1935年録音で「魔弾の射手」序曲で流石に低声部から中声部へとコントロールしている。そして1942年録音のフォン・カラヤン指揮「ツィゴイナー男爵」と比較できるようになっている。驚くのは客演でも完全にカラヤン節が聴かれ、問題の低音のにじみを上手く使っている。そして気が付くのはまさしくそうしたサウンドこそは座付き管弦楽団の妙を機能化したものだという事だ。まだ完全に完成していないからそれが分かったのだ。名録音と誉れ高いフィルハーモニアでの一連の録音では全く消されてしまっている過去の軌跡ではなかろうか。
勿論私たちが今キリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーのサウンドとして期待しているのは、交響楽団としての立派な響きであり、メローな座付きサウンドではない。引き続きフルトヴェングラーのSP録音から運命交響曲を聴いていきたい。七番交響曲の響きがどのようなものであるべきかの示唆がそこにあるかもしれない。兎に角、フルトヴェングラーのそれは拍の頭のアインザッツから次への落とし方が本懐であって、そうした音の密度の縦波が和音のグラデーションとして鳴ることをして和声の機能としていたので、カラヤンのようなずらしは無かった。ペトレンコが振るとその精度が三倍にも四倍にもなる為に演奏精度もそれ以上に高くなる。一度の本番では中々到達不可能な領域である。
今時大管弦楽団のベートーヴェンが本質的な関心を持って演奏されるとは思わなかった。少なくとも戦前の新生交響楽団の名声を取り戻すだけの成果は期待はしたい。それ程バーデンバーデンでのラトル指揮のそれは無意味な演奏行為だった。フランツ・シュミット4番交響曲の晩は大分掃けたがそれでもまだ余っている。四月とは比較にならないほどの名演が体験出来るのに惜しい。
参照:
歴史的年度になりそうだ 2018-08-10 | 暦
冷や汗を掻いて避暑 2018-08-07 | 生活