森の中の気温はそこそこだった。陽射しもあったので汗を掻いた。再び夏日和というが、一番都合がいいのは、猿股Tシャツで風も入れながら室内で仕事をして、夕方は遅くならないうちにバルコンでアペリティーフに続いて食事という感じだろうか。山道を走ると深い溝が出来ていた。豪雨が降ったようだが、直線距離で数キロの我が家ではなかった雨量のようだ。足の置き場に困って走り難かった。
帰りに開いているだろう洗濯屋に寄った。しばらく休んでいたので、前の奥さんは16枚ものシャツを渡していた。「出来るだけ早くないと着るものに困る」と希望日について答えていたので、「それはそうだろう」と思わず口が出た。人によって数は異なるだろうが、二週間ほどでの数としても多く、そもそもそれだけの数を持っているのが凄いと思った。色とりどりで、暑い季節にしても毎日着替えているのだと分かった。この夏休みの時期でも外回りかよほど暑い職場で働いていたのだろう。奥さんの雰囲気からすれば45歳過ぎの人だと思う。
ロイヤル・アルバートホールからの放送を聞いた。エストニアの祝祭管弦楽団公演だった。先日まで地元でやって来た仕上がりのお披露目らしい。寄せ集めで若い人も入っているというが、核になる奏者はブレーメンやそこらからの助っ人のようで腕のある奏者も入っているようだ。だからあれっと思うような巧さもあるが、やはりテュッティーで鳴り切らない。最近は未知の東京の管弦楽団の評判をそこに重ねてしまうのだが、その絶賛を差し引いてこの程度は可能か可能でないかと想像してみる。
先日YouTubeでの都饗での感想は、マーラーの交響曲になるとモーツァルトでは感じなかったやはり全体の鳴りが問題になってくる。一番致命的なのは管弦楽全体が大きな息を付けないことで、これは指揮者の技量にもよるかもしれないが、常任でないギルバートほどの経験があればそれを直すにはどれぐらいのどのような関係でないと駄目かが分っている筈だ。管弦楽団の実力という事になるのだろう。恐らく具体的には和音を下から積み重ねるところでのバスラインがしっかり刻んでいるかどうかで、そこに管楽器や中声部がどのように絡んでくるかでサウンドが出来るのだろうか。
そうしたサウンド以前に一体として全奏が上手く鳴らないとグスタフ・マーラーの交響曲などは幾ら演奏しても無駄である。その意味から上の祝祭管弦楽団がテュッティーで鳴り切らないのは当然で、それを補うようにしてピアニッシモの最弱音で聴衆を魅了するような戦略だった ― 皆一様に日本で指揮するとお勉強するらしい。それは大当たりして、ピアノのアンコールを含めて三曲もアンコール弾かれる大成功のコンサートとなっていた。
そもそもルツェルンなどのその水準は期待出来ないので、恐らく商業的には既に出来上がっていると認識しても間違いない。それを軸にして如何に世界の注目を集めて、地元経済に貢献する音楽祭の核になる準備は出来上がっているのだろう。アルヴォ・ペルトの曲はあれで致し方が無いが世界中に支持者もあるので、音楽祭の顔なのだろう。グリークやシベリウスなどの親近性を売りにしたいようだった。要するに民族主義的なアピールも基本方針のようだ。しかしそれはここでは売り要素になるが、指揮者本人には世界市場では邪魔になるに違いない。要するにイヴァン・フィッシャー程度のキャリアならそれでよいのだが、民族性が強く出るようになるとその上には行けない。
ハイティンク指揮のコンサートのティケットがまだまだ動いていない。なるほど安い席は20席以上が残り三席だけになったが、全体の動き方は気が付くほどではない。如何にガッティ指揮では売れていなかったか。そもそもグスタフ・マーラーの交響曲をコンセルトへボー管弦楽団が演奏するとなるとスイスでは飛ぶように売れるのだが、如何にMeToo指揮者への期待が薄かったかを如実に表している。そして突然の交代で御大が出て来て、恐らくこの管弦楽団では最も期待されるプログラムとなったのだが、気が付いていない人の方が多いのかも知れない。なるほど我々のように首切り発表からその後の進展を楽しみにしているような人間は特殊だろう。二週間先のワン、ペトレンコの方は掃けるだろうが、三週間先のこちらは難しいかもしれない。折角だったら満席になって欲しいと思う。
座ったことは無いが、舞台後ろの席は結構高い位置にあるのにも拘らず価格が上位なので、音響的にはましなのだろう。それでもコンセルトヘボーやベルリンのフィルハーモニーのように壁がなかったりではないので、何処までの臨場感があるものだろうか。音響と言えばエルブフィルハーモニーの音響の批判を読んだ。一杯になっても響き過ぎて、演奏者も落ち着いて聞けないようだから、やはり放送で気が付いた音響上の欠陥が存在する。何処でもやるように建築資材が落ち着く二三年してから修正しないと駄目のようだ。修正の休みまで経済プランには組み込まれている筈だが。
参照:
濃くなる縦波の密度 2018-08-14 | 音
これからの大きな期待 2018-06-20 | マスメディア批評
帰りに開いているだろう洗濯屋に寄った。しばらく休んでいたので、前の奥さんは16枚ものシャツを渡していた。「出来るだけ早くないと着るものに困る」と希望日について答えていたので、「それはそうだろう」と思わず口が出た。人によって数は異なるだろうが、二週間ほどでの数としても多く、そもそもそれだけの数を持っているのが凄いと思った。色とりどりで、暑い季節にしても毎日着替えているのだと分かった。この夏休みの時期でも外回りかよほど暑い職場で働いていたのだろう。奥さんの雰囲気からすれば45歳過ぎの人だと思う。
ロイヤル・アルバートホールからの放送を聞いた。エストニアの祝祭管弦楽団公演だった。先日まで地元でやって来た仕上がりのお披露目らしい。寄せ集めで若い人も入っているというが、核になる奏者はブレーメンやそこらからの助っ人のようで腕のある奏者も入っているようだ。だからあれっと思うような巧さもあるが、やはりテュッティーで鳴り切らない。最近は未知の東京の管弦楽団の評判をそこに重ねてしまうのだが、その絶賛を差し引いてこの程度は可能か可能でないかと想像してみる。
先日YouTubeでの都饗での感想は、マーラーの交響曲になるとモーツァルトでは感じなかったやはり全体の鳴りが問題になってくる。一番致命的なのは管弦楽全体が大きな息を付けないことで、これは指揮者の技量にもよるかもしれないが、常任でないギルバートほどの経験があればそれを直すにはどれぐらいのどのような関係でないと駄目かが分っている筈だ。管弦楽団の実力という事になるのだろう。恐らく具体的には和音を下から積み重ねるところでのバスラインがしっかり刻んでいるかどうかで、そこに管楽器や中声部がどのように絡んでくるかでサウンドが出来るのだろうか。
そうしたサウンド以前に一体として全奏が上手く鳴らないとグスタフ・マーラーの交響曲などは幾ら演奏しても無駄である。その意味から上の祝祭管弦楽団がテュッティーで鳴り切らないのは当然で、それを補うようにしてピアニッシモの最弱音で聴衆を魅了するような戦略だった ― 皆一様に日本で指揮するとお勉強するらしい。それは大当たりして、ピアノのアンコールを含めて三曲もアンコール弾かれる大成功のコンサートとなっていた。
そもそもルツェルンなどのその水準は期待出来ないので、恐らく商業的には既に出来上がっていると認識しても間違いない。それを軸にして如何に世界の注目を集めて、地元経済に貢献する音楽祭の核になる準備は出来上がっているのだろう。アルヴォ・ペルトの曲はあれで致し方が無いが世界中に支持者もあるので、音楽祭の顔なのだろう。グリークやシベリウスなどの親近性を売りにしたいようだった。要するに民族主義的なアピールも基本方針のようだ。しかしそれはここでは売り要素になるが、指揮者本人には世界市場では邪魔になるに違いない。要するにイヴァン・フィッシャー程度のキャリアならそれでよいのだが、民族性が強く出るようになるとその上には行けない。
ハイティンク指揮のコンサートのティケットがまだまだ動いていない。なるほど安い席は20席以上が残り三席だけになったが、全体の動き方は気が付くほどではない。如何にガッティ指揮では売れていなかったか。そもそもグスタフ・マーラーの交響曲をコンセルトへボー管弦楽団が演奏するとなるとスイスでは飛ぶように売れるのだが、如何にMeToo指揮者への期待が薄かったかを如実に表している。そして突然の交代で御大が出て来て、恐らくこの管弦楽団では最も期待されるプログラムとなったのだが、気が付いていない人の方が多いのかも知れない。なるほど我々のように首切り発表からその後の進展を楽しみにしているような人間は特殊だろう。二週間先のワン、ペトレンコの方は掃けるだろうが、三週間先のこちらは難しいかもしれない。折角だったら満席になって欲しいと思う。
座ったことは無いが、舞台後ろの席は結構高い位置にあるのにも拘らず価格が上位なので、音響的にはましなのだろう。それでもコンセルトヘボーやベルリンのフィルハーモニーのように壁がなかったりではないので、何処までの臨場感があるものだろうか。音響と言えばエルブフィルハーモニーの音響の批判を読んだ。一杯になっても響き過ぎて、演奏者も落ち着いて聞けないようだから、やはり放送で気が付いた音響上の欠陥が存在する。何処でもやるように建築資材が落ち着く二三年してから修正しないと駄目のようだ。修正の休みまで経済プランには組み込まれている筈だが。
参照:
濃くなる縦波の密度 2018-08-14 | 音
これからの大きな期待 2018-06-20 | マスメディア批評