Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

大切なものを納める所、蔵

2019-12-12 | 雑感
ショスタコーヴィッチ作曲交響曲11番のお勉強である。今回初めて総譜をざっと見た。今までムラヴィンスキーなどで聴いていた印象とそれほど変わらなかった。単純明快な曲の構成とその作りにある。しかし、ヤンソンス指揮のフィラデルフィア管弦楽団の録音で聴くと色々と見えてくることが逆にあった。

単純なものをそのままに指揮するコンセプトなのだろうが、それ以上に疑問が膨らんだ。指揮自体はロシアンリズムを通す反面、リズムの不明快さを目指しているようで、それが楽譜から何かを浮かび上がらせない。その他ダイナミックスもいい加減な付け方をしていて、手元にあるロシアの楽譜が無視されているところも少なくない。

恐らくヤンソンス氏の解釈はあの当時のソ連でのショスターコヴィッチ解釈を体現しているものなのだろう。しかしまだ存命中の作曲家の曲でそこまでの演奏解釈の定着がなされていたのだろうか。いい加減に感じられたり、指揮が充分に出来ていなかったところも意図したものとすると、恐らくそれが正しいのだろう。兎に角、目指されているところは表面上の明快さであって、よくもこんな対旋律をつけるなと思うところもそのように演奏されている。殆どジョン・ウィリアムズ作曲のサウンドトラックかと思えるような楽想もそのように演奏されている。

なにもユロスキー指揮実践を待つことも無く、なぜここで敢えて行間を備えたようなその筆運びを無視して知らぬ顔で音楽が進むのか?よく理解できない所ばかりだ。全集版のCDの余白にはワルツやトロットなどが収められていて、正しく指揮、制作の意図なのだろう。要するに飽く迄も皮肉に屈託なく明るくというような一寸矛盾するような感覚しか浮かばなく、とても意図的だ。まるで総譜がなんら実りの無い引っ掛け問題のような表層を呈している。

雨の合間に走りに出かけた。短いルートを駆けた。坂の上りでショーツのボンボンポッスェを触った。車の鍵が上手く収まっていなかった。それでも構わず走って下りてきた。車に近づき下腹をまさぐると、鍵が無い。「落とした!」とうろたえた。そして腰を触って、また周りに落ちていないことを確認した。急いで今のルートを同じ方面から辿る。枯れ葉が邪魔して大変な捜索になる時期だが、誰もその後トレースしていないので見つかると思った。一度ボルダーリングの所で落として、自宅から戻ってくるとそのまま見つかった経験があるからだ。あの時は車を停めていた場所だった。

ゆっくりと目を見張って歩いて行った。登りには見つからなかった。あとは降りの林道だと思った。上部を重点的に探した。降りてから二度目の捜索まで時間が掛かるからである。しかし今回は走り乍鍵を確かめたので間違いなくそのルート内に見付かる筈だ。林道は小走りに下りてきたが最後の合流点まで見つからなかった。車に近づいた、周りを見た。それでも見つからない。二度目にルートを辿る前に、股座をまさぐった。堅いものがあった。鍵だった。

また新たに学んだ。大事なものを入れるところは蔵である。又蔵である。丁度下着のシューツにも穴が開いて最後の心算でもう一度だけ履いていたのだ。探索でルートを辿った時に良くも落とさなかった。シューツの穴は今回の騒動とは関係が無かったが、穴が開いた衣服は切るべきではない。戻ってきて早速穴を割き開いた。



参照:
釣べ落としの秋の競争曲 2016-10-02 | 暦
宣伝へのアルゴリズム処理 2019-12-08 | 雑感

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