Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

交響曲をぶっ潰せ!

2019-12-18 | 
アルテオパーでショスタコーヴィッチの交響曲11番を聴いた。今迄生で経験した「レディーマクベス」や交響曲4番、8番などに比較して最も意味深かった。理由は幾つかあるのだが、何よりもショスタコーヴィッチの交響曲の存在価値を初めて確認出来たからである。それはユロスキー指揮の演奏解釈ゆえにである。

具体的には、一楽章のマーラーのパロディ風の軍隊ラッパよりも弦の動機をしっかりと正確に描くことで、三連譜の運命の動機的なものと対旋律のフルートで歌われる革命歌から低音弦での歌へと運ばれる楽想が、なぜかムラヴィンスキー指揮の演奏では殆ど無視に近いことに気がつく。今回は、ここで立体的に動機を組み合わせて描き出すことで交響曲としてのその品位が全く変わってしまった。第二楽章アレグロの歌のアーティキュレーションの付け方も明白で的確だった。その動機がしっかり定着していると、クライマックスでのサウンドトラック風音響が全く安物にならない。そこだけでもとても感心した。要するに楽譜をしっかり音化すれば、若い時から頂点にいた五十歳になった作曲家の11番目の交響曲はそんなに酷くはならないという事実だ。如何に皆が楽譜からいい加減な音を出しているか!勿論低音の動機もそこで活きてくて、交響曲としての立体感をとても与える。そこからアダージョへそしてクライマックスへと向かって、そして再びアダージョで歌の変奏となる。一面、とても交響楽的な構成を呈する一方、構造を壊して行く訳だが、それがこの政治的な雪解け時代の1958年当時の西欧的な非構造に連なる。その通り対外政治的にはハンガリー動乱の時の作曲である。

当夜のプログラムにはこの曲と西欧との繋がりが指揮者のシェルヘンを通じて革命歌の翻訳までされたとあり、また当時の状況をゾロモン・ヴォルコフの著に求めている。その内容に関しては今更触れることは無いと思うが、但し一つだけ重要な記載があった。それはショスタコーヴィッチの言葉でなくても誰の言葉であってもその意味合いは変わらない。つまり、若くして認められた天才的な作曲家にとっては交響曲を書くことが仕事であり、唯一の命綱という事であって、なぜ十五曲も交響曲を書いたかの答えは明白だ。そしてその枠組みの中で一体何をしたか?先ずは交響楽的な作曲であり、同時に後世の人がみてもその作曲意思を理解できる作風という意思だろう。

そして最も旋律がなじみ深いアダージョへと、ショスタコーヴィッチピチカートというか馴染みのそれが導入する。要するに旋律から歯が抜けたような表現で、そこがユロスキーの演奏解釈で取り分け素晴らしかった。クールにやや即物的に歌い切るアダージョ旋律へとの恐らく核心的な箇所であった。一番それに近い作曲は、丁度ハンガリーのスターリニズム化でスイスへと逃げたサンドール・ヴェレシュの曲を挙げておけばよいかと思う。そして最後のヴィオラ陣の力のある見事な歌 ― ヴィオラ陣のみが立って喝采を受けた。

そしてトンデモ主題の最終楽章で崩壊、そしてアダージョ回帰してからのクライマックスでの鐘の響き ― 丁度舞台下手奥のその鐘の上に耳があったので特に印象に残ったが、正しくそれは大きな落ちだった。ユロスキーは、ヴィーンやドルトムントでの様にヤンソンス逝去の事どころか一言も舞台で演説しなかった。香港にも言及したというが、それは差し当たってハンガリー動乱へと遡るだろう。しかしショスタコーヴィッチの音楽はどこまで行っても純音楽的に形を整えて、そしてほぼポストモダーン風にぶっ潰すという交響曲である。なぜそのような作風になったかはその状況から余りにも納得しやすい。ヴォルコフ著「ショスタコーヴィッチの証言」で述べられていることは、交響曲をプログラム音楽として理解しようとしない限り、その伝聞は全く音楽の理解の邪魔をしない。それどころか周辺状況の重要な資料となっているかもしれない。要するに、「交響曲をぶっ潰す」を理解するかどうかでその創作への評価が変わるだろう。それならばあの中間世代の指揮者陣が曖昧な表現をした背景はどこにあるのか?

初めてのユロスキーの指揮であるが、決して一流ではないロンドンのフィルハーモニーを上手に指揮していた。否、長い関係の中でそれ以上に技術的な精査も求めずにチームワークをモットーとして音楽表現をしてきたのだろう。楽員も老朽化していて、後継者が若返りを図るのだろう。

一曲目のイタリア人女流ピアニストのラナは放送では聴いていたが、到底ルツェルンで聴いたユジャ・ワンとは比較にならない。技術的にはどこまでキャリアを伸ばせるか微妙なところでもある。そもそも管弦楽団も練習出来ていなかった様でベルリナーフィルハーモニカーを出すまでも無く二流の演奏だった。

ユロスキーの指揮も、キリル・ペトレンコとは比較にならないが、身体をねじったりして上手くテムピの変化を作って決して悪くはなかった。そして何よりも音楽表現が明晰で、なるほど拍手喝采の最後には総譜を持ち挙げるぐらいに楽曲をよく勉強して、表現する実力は間違いない。その口ほどには実践していることが確認できた。ミュンヘンの監督として大きな飛躍が期待される。間違いなくもう一つ上の管弦楽団を振るようになるだろう。将来はシカゴぐらいでも振って欲しいと思った。



参照:
ヴィール背中肉ステーキ 2019-12-16 | 料理
パロディーで落とさない 2019-12-14 | 雑感
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年末年始のリストアップ

2019-12-18 | 
金曜日に「眠りの森の美女」だ。つまり火曜日には一通り目を通しておかないと始まらない。試料を準備している。当日のプログラムによると一幕はフィナーレまで、二幕は14番からフィナーレまで、三幕は22番から23番、25番を抜かしてフィナーレまでとなっている。編はユロスキーとなっていて、それは当然だろう。ヴィデオでの解説ではそれが作曲家の書いた全曲だという。組曲とは異なることは分かるが、幾つかのナムバーが抜けているのはなぜか?

また金曜日も特安席で舞台の横である。上手く指揮が見えるかどうかで舞台は一部しか見えない。写真撮影は目立たないので充分出来そうだが、指揮の正雪さんと顔が合いそうだ。フランクフルトでは完全に目が合ったので、同じ服装ではまた目に付く。いずれミュンヘンでという事にはなるのだが、そこまではまだ早い。まだ彼の言うチームには入っていない。残券は大分あるので後半移ることは可能だが、さあどうだろう。

服装はそのままで行こう。天気は少し悪くなりそうで、駐車場から少し歩かなければいけないので、コートは要るかもしれない。もう一日忘年会に出かければ、それで洗濯屋行きで、今年は納めとなるか。

同時に年始の予定を見るととても混んでいて、お勉強だけでも大変だ。先ずは、シカゴ交響楽団演奏ヒンデミット交響曲「画家マティス」、新世界交響曲、アムランのピアノでスクリヤビンロ短調作品28、プロコフィエフ「サーカスマン」作品17、ファインベク三番ソナタ、シューベルト変ロ長調D960、そしてワンのピアノ伴奏のショパンのチェロソナタト短調作品65、序章とポロネーズハ長調作品3、フランクチェロソナタイ長調、更にヘルヴェッヘ記念演奏会バッハカンタータは会のオリエンテーリングに参加で良いだろうか。一週間中に四回のコンサートは限界である。年末年始に準備しておかないと何が何だか分からなくなる。

肉屋にクリスマス、年末年始の注文をしておいた。昨年の注文票のバックアップデータを開けて書き換えるだけだ。肉屋は第二週から始まるので二週間ほどしか休まない。だからその期間に食せるものだけを注文する。昨年の印象からすると、最後に片づけるのが結構大変だったので、少し量を減らした。運動量もそれほどではないのでそれで充分である。そもそも飲んで喰っての精神的な余裕もあまりない。

一番の相違は以前ほど何が無くて困るとかいう恐怖心が無くなった。徐々にシムプルライフが身に付いてきたようで、無駄に暴飲暴食をすることも無くなった。精々、今週末辺りから年始にかけての開けるワインのリストアップをするぐらいである。それも蔵に量だけはあるが、急いでこれを開けなければというものは少なくなった。

ヴィールの肉に合せたロベルト・ヴァイル醸造所のテュルムベルク2015年はまだまだ若かったが若干微妙な熟成期だった。酸が弱った分新鮮味が落ちる一方、まだそれほど綺麗には瓶熟成とはなっていなかった。フローラルな感じは二年ほど経つと出てくるとは思うが、同時に熟成香も出てくるかもしれない。グローセスゲフヴェックスではないので木樽の使用率も限られていて、安い分、飲みどころの選択は通向きだ。ご進物には使い難い。勿論全然悪くはなく食事を楽しむには最高だったが、リースリング熟成の奥は深い。



参照:
酔狂の二本のリースリング 2016-10-05 | ワイン
破瓜する死の恐怖の興奮 2013-02-06 | 文化一般
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