Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

なにも顧みることなく

2019-12-02 | 文学・思想
マリス・ヤンソンスの訃報が新聞に載っている。文化欄一面の最下段で大きくも小さくもない。一方日本での人気は正直驚くほどで、とても興味深い。どうも2003年以降のバイエルンの放送交響楽団との活動で特別に日本で愛されたようだ。だから私は全く分からない。同時に分からなかったのがその放送交響楽団の日本での人気だったので辻褄が合う。

なるほど新聞にもその指揮の特徴として、その規律と継続性が挙がっている。勿論それは芸術でなくてもスポーツでも同じだが、またヤンソンス氏の人間性と言うか楽天的な感じがとても日本で愛されたのだろうと思う。それらが音楽として表現されていた。

相思相愛な感じがして、心臓さえ悪くなければNHK交響楽団を任せれればよかっただろうと思う。もし世界的に通用するザルツブルクの音楽祭に出るような楽団にするにはこの指揮者しかなかったのだろうと思う。斎藤記念よりもオスロの交響楽団よりも良くなったかもしれない。

ショスタコーヴィッチの交響曲全集は色々な意味でヤンソンス指揮の集大成だと思うが、この十五日に交響曲11番を聴くのでそのお勉強に使おうと思う。じっくりと聴かせて貰おう。因みに11番を担当しているのはフィラデルフィア管弦楽団である。

週明けの朝は零下1.5度まで下がった。しかし朝日が強く射したのでショーツ一つで走れた。短いコースだったが、目が覚めた。月曜日の朝はバタバタするのが嫌で控えることが多いが、朝早く済ませられるとこれはこれでまた活力が生まれて得したような気持になる。特に今回は月初めで特にである。

もう少しすると来年の日程が決定してくる。何かと物入りで、巧く都合したい。年末に決算して仕舞たいものもある。クリスマス前に税金の還付もあるだろうが、出来るだけ早めにして欲しい。やはり先に工面しておかないとやりくりがつかない。

ブルックナー交響曲八番ノヴァーク版に関して探していたバロック期のバラの絵が見つかった。あれは自身の頭脳の中にあった。存在しないバロックの名画だった。そのオリジナルは詩だった。

Angelus Silesius
(eigentlich Johannes Scheffler)
Die Rose ist ohne Warum.
Sie blühet, weil sie blühet.
Sie achtet nicht ihrer selbst,
fragt nicht, ob man sie siehet.

それはアンゲリウス・シレシウスの詩で十七世紀中盤を生きた新教のブレスラウからシュトラスブルクへと医学と行政法を学んだ人で、更にライデンとパドュアで医学と哲学の博士号を習得している。その後、新教をそのドグマ性から反キリストと考え転向したことでルターからはルツィファーと呼ばれ旧教の守護に回った。

上の詩は、「智天使ケルビーム」集に入っているもので、ブルックナーにおける特にノヴァーク教授の視点からそれほど遠くないものであるとの印象はそれ程当て外れではない。作曲家ブルックナーの心的な神秘主義の恍惚などはまさにこうした宗教的な信条として同様である。ブルックナーの交響曲のバロック性でもある。

薔薇に理由はない。
咲く故に咲いている、
自らを気に掛けることも無く、
見られるかどうかなど顧みない。

私がイメージした図柄は真っ黒の背景で、どこからともなく薔薇の花がこちらを向いて咲いている。何色のバラだろうか?赤みのあるバラ色だろうか?

ズビン・メータ指揮のブルックナー交響曲八番は、そのものなにも顧みることなく鳴り響く。そのような音響芸術だと思ったのだった。それは、ブルックナーの神秘主義の核心でもある。



参照:
無情なまでの無常 2019-11-09 | 音
幕が掛かって湯煙 2019-12-01 | 文化一般



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