ルツェルンからティケットが届いた。今回は希望通り届くことは分かっていたが、席などに興味があった。先頭を切って発注したからだ。前回もそうだったが今回はネットに情報が乗るかどうかで発注した。結果は殆ど同じだったが、今年は第九の方が若干横にずれたが今回は真ん中で、翌日もその隣だったのでこのクラスでは一番いい席だと確認した。つまり一度は今年と同じ席に座る。これ以上上のクラス席に座るかどうかだけで先ずは当分はこのままでもいいかと思う。前列に出れば視界的には更に良くなるが音響的には殆ど変わらない。下に行って真ん中最前列はスポンサー以外は中々入らないだろう。コンセルトヘボー演奏会の方も今年のゲヴァントハウスと同じような席で、こちらは合唱が入るだけどうなるか?あとは前日のロート指揮の晩にどこを買うかだけだが、割引券も付いているので問題はない。
その前に六月のワインフェスト期間中に避難の旅に出る。先ず一週目はミュンヘンからヴュルツブルクに立ち寄ることにした。丁度モーツァルトフェストが開かれているからで、以前はクーベリックやコリン・デーヴィス指揮でBR交響楽団が演奏していたと思うが今はより近いオーヴァーフランケンからバムベルカーがそこに入っている。更に来年は指揮者がゲーベルなのでWDRが入っている。丁度出かける日はゲーベル指揮演奏会とレートナイトがあってヴュルツブルク郊外区に宿をとった。全三泊の一泊だが、ミュンヘン近郊からアウグスブルク経由で、ウルムから北上ヴュルツブルクへと抜ける。アウトバーンからから降りて宿にチェックインして、旧市街に往復して翌朝はそこからロマンティック街道沿いのアウトバーンで帰宅する予定。走行距離でヴュルツブルク片道ぐらいが長くなるだけで、それほど大きな遠回りとはならない。
ヴュルツブルクはザルツブルクと同じ設計者の街で同じように大司教区なのだが、モーツァルトの生家が無い、そこで出来たような音楽祭でBRで毎年中継されている。以前ほどの盛り上がりはないようだが、一度は行ってみたいと思っていた。特にあそこのレジデンスでの音楽会はその音響にも興味ある。とは言ってもいつものように安い席しか買わないので控えの部屋から聴かして貰うだけである。バムベルガーの演奏にシカゴ交響楽団の様な金は出せない。ヴュルツブルクからの郵送料込みで38ユーロの二回のコンサート、宿泊代67ユーロ。
BR交響楽団のヤンソンス追悼の定期を生放送で聴いた。流石に格上の指揮者ヴェルサーメストの演奏は素晴らしかった。特にアブハムセンの新曲など明らかにルツェルンで聴いたラトルなどよりも立派な演奏で、同席していた作曲家も満足したのではないか?なぜあのラトルが最近はぞんざいな指揮ばかりをするようになったかは分からないが、年代的に近いメスト指揮の方が現時点では大分いい。今年のコンセルトヘボーでのクリスマスコンサートはメストが第九を指揮するので夏のペトレンコ指揮のそれと比較されることになるだろう。
後半のヤンソンスを偲んで家庭交響曲から替えられた「死と浄化」で、この放送交響楽団が一流なのかもしれないが、超一流との差が誰の耳にも明白となっていた。先ほど日本のSNSで話題となっていた「超一流を聴け」はまさにここに当てはまり、日本の交響楽団程度との比較でのお話しではない。ここ二年ほどでペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏でこの曲を生で聴いて、ネゼセガン指揮フィラデルフィア管弦楽団の驚くべき「ドンファン」と比較するまでも無く、超一流のアンサムブルによってこそ初めて音楽芸術が始まるのが分かるのである。残念ながらラトル指揮では一流との差は無くなって仕舞っていたが、ペトレンコ指揮で為されるところは合奏芸術である。作曲家の知能とその美意識を考えれば(ティーレマンなどが指揮して)安物になるものは全く間違いであるというのがメストのインタヴューでの意見だ。
どのようなスポーツなどでも超一流のその動きの一つ一つやその調整力に技があり、少しでも腕に覚えがあればどうしてあんなことが出来るのだろうという事ばかりである。同じように芸術の技も同じで、「やっていることは皆同じ」などと嘯いている楽師さんがいると、一体この人達には向上心も無く、日々の営みしか無いのだろうと思う。そうした技術的な希求の気持ちの無いところに芸術などは存在しない。技術の出来不出来や何流とかの問題ではない、心掛けなのである。
参照:
許容範囲だろうか 2018-12-13 | 文化一般
どれほど重いかその両腕 2019-12-06 | 雑感
その前に六月のワインフェスト期間中に避難の旅に出る。先ず一週目はミュンヘンからヴュルツブルクに立ち寄ることにした。丁度モーツァルトフェストが開かれているからで、以前はクーベリックやコリン・デーヴィス指揮でBR交響楽団が演奏していたと思うが今はより近いオーヴァーフランケンからバムベルカーがそこに入っている。更に来年は指揮者がゲーベルなのでWDRが入っている。丁度出かける日はゲーベル指揮演奏会とレートナイトがあってヴュルツブルク郊外区に宿をとった。全三泊の一泊だが、ミュンヘン近郊からアウグスブルク経由で、ウルムから北上ヴュルツブルクへと抜ける。アウトバーンからから降りて宿にチェックインして、旧市街に往復して翌朝はそこからロマンティック街道沿いのアウトバーンで帰宅する予定。走行距離でヴュルツブルク片道ぐらいが長くなるだけで、それほど大きな遠回りとはならない。
ヴュルツブルクはザルツブルクと同じ設計者の街で同じように大司教区なのだが、モーツァルトの生家が無い、そこで出来たような音楽祭でBRで毎年中継されている。以前ほどの盛り上がりはないようだが、一度は行ってみたいと思っていた。特にあそこのレジデンスでの音楽会はその音響にも興味ある。とは言ってもいつものように安い席しか買わないので控えの部屋から聴かして貰うだけである。バムベルガーの演奏にシカゴ交響楽団の様な金は出せない。ヴュルツブルクからの郵送料込みで38ユーロの二回のコンサート、宿泊代67ユーロ。
BR交響楽団のヤンソンス追悼の定期を生放送で聴いた。流石に格上の指揮者ヴェルサーメストの演奏は素晴らしかった。特にアブハムセンの新曲など明らかにルツェルンで聴いたラトルなどよりも立派な演奏で、同席していた作曲家も満足したのではないか?なぜあのラトルが最近はぞんざいな指揮ばかりをするようになったかは分からないが、年代的に近いメスト指揮の方が現時点では大分いい。今年のコンセルトヘボーでのクリスマスコンサートはメストが第九を指揮するので夏のペトレンコ指揮のそれと比較されることになるだろう。
後半のヤンソンスを偲んで家庭交響曲から替えられた「死と浄化」で、この放送交響楽団が一流なのかもしれないが、超一流との差が誰の耳にも明白となっていた。先ほど日本のSNSで話題となっていた「超一流を聴け」はまさにここに当てはまり、日本の交響楽団程度との比較でのお話しではない。ここ二年ほどでペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏でこの曲を生で聴いて、ネゼセガン指揮フィラデルフィア管弦楽団の驚くべき「ドンファン」と比較するまでも無く、超一流のアンサムブルによってこそ初めて音楽芸術が始まるのが分かるのである。残念ながらラトル指揮では一流との差は無くなって仕舞っていたが、ペトレンコ指揮で為されるところは合奏芸術である。作曲家の知能とその美意識を考えれば(ティーレマンなどが指揮して)安物になるものは全く間違いであるというのがメストのインタヴューでの意見だ。
どのようなスポーツなどでも超一流のその動きの一つ一つやその調整力に技があり、少しでも腕に覚えがあればどうしてあんなことが出来るのだろうという事ばかりである。同じように芸術の技も同じで、「やっていることは皆同じ」などと嘯いている楽師さんがいると、一体この人達には向上心も無く、日々の営みしか無いのだろうと思う。そうした技術的な希求の気持ちの無いところに芸術などは存在しない。技術の出来不出来や何流とかの問題ではない、心掛けなのである。
参照:
許容範囲だろうか 2018-12-13 | 文化一般
どれほど重いかその両腕 2019-12-06 | 雑感