Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

昨今の音楽劇場の傾向

2019-12-04 | 文化一般
フランクフルトの新制作「ペネロープ」の新聞評を読む。他の批評とは異なってその演出を絶賛してある。視点の違いは細やかな芝居への配慮かも知れない。ここの所オペラ劇場と音楽劇場の差異を示すのは、本格的な芝居を試みる演出なのかもしれない。半世紀も遡ればヴィーラント・ヴァークナーの様な抽象的な舞台から音楽を聴かせるとか、また四半世紀も遡ればコンヴィチニーなどの読み替えがそれとされていたが、最近の傾向は芝居という事になるだろうか。

その意味からはピーター・セラーズ演出などがザルツブルクでも一度は成功しても後が続かないのは要するに時代遅れという事でしかないのかもしれない。音楽劇場の音楽自体もより細やかな心情や心理描写、心理的風景の描写をその総譜から引き出す方向へと一気に進んでいるという事なのだろう。

「ペネロープ」の一幕をお勉強した。想像していたよりもいい。なぜこの1913年に初演されて百年近く隣国のドイツで上演されず、今世紀に入って独初演されて、今回フランクフルト初演となったかである、その理由をそこに見る。歌に合わせて被らないような薄い管弦楽が付けられるところから数段に亘ってフォルテシモが付けられるところまで、実はダイナミックスもかなり大きい。要するに従来の音楽劇場が丁度昔の磁気録音やSP録音と同じくそれなりにダイナミックスを縮めてしか演奏出来なかったことにも相当する。

もう一つ景から景への移り変わりが勿論音楽的な変換なのだが、可成りカメラの切り替えのようにコントラストとテムポを以て変わって行く。演出上のポイントでもあるのだろうが、当然劇場指揮者の腕の見せ所だ。

それだけでなく音程間を重視した動機とそのリズムからのアティキュレーションは音楽的に優れた人が指揮しないとお話しにならないだろう。DLした楽譜はその写譜がよいのかとてもニュアンスが豊かだ。これならば今回のヨハンナ・マルヴィッツのようにネーティヴのフランコーネでなくとも間違えることは無いだろう。

Gabriel Fauré: PÉNÉLOPE, Oper Frankfurt



そして幾つものカ所で場合によれば指揮者の力量が問われることになるだろう。大変評判が良いだけに自らの耳で確認してこの女流指揮者が将来どの辺りのキャリアを築くか判定を下せると思う。前回は「メリーウィドー」指揮では出来なかったものだ。最低直にバイロイトの二代目音楽監督は間違いないが、総監督になれるかどうかも判断できるのではないかと思う。そう言えば元祖ティーレマンの契約延長はまだ発表されていない。とても心配である。

復活祭の新制作「フィデリオ」について調べていた。新たに興味を持ったのはマルリス・ペーターセンの歌う「レオノーレ」の録音が発売されたことで、その演奏は2017年にバーデンバーデンでコンサート形式で演奏されて話題となった。そして二月にミュンヘンでペトレンコが初めて指揮した時の公演の為のお勉強素材にしていたことだ。アルモニアミュンディとは違う経由で公開されていたものだった。そして調べてみるとその時点ではペーターセンが歌うことは発表されていなかった。しかし2018年11月に完全予想していた。

そして自身の書いたものを調べると2019年2月には今年ミュンへンでペトレンコ指揮以外で再演されることも予想していた。特にキリル・ペトレンコ指揮の公演関連は全てその前から準備の期間があって、唐突に何かという事はあまりない。その法則をみて2021年復活祭の聞こえ漏れた上演プログラム関連を逆算して観察しているのだが、現在のところあまりその兆候が無い。

2020年オープニングツアーのプログラムも発表されて、その後の日程の予測にもなる。そこで気が付かなかったのは、ベルリンではペトレンコの3Fプロジェクトの一つFriedenの「ミサソレムニス」がティーレマン指揮で演奏されるとある。なるほど今シーズンには復活祭でエクスクルシーヴで演奏される意味が分かった。同様に第九も日本でだけデュダメル指揮で演奏される。ペトレンコ体制ではその辺りの指揮者が当て馬にされるいつものプログラミングである。



参照:
生誕250周年への準備 2018-11-28 | 暦
「キリルと高度に一致」 2019-02-05 | 文化一般
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