Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

意味を持つ裸で無い音

2020-02-22 | 
フランクフルトからマイン河を遡ると次の大きな都市はハーナウである。そこで二桁の人が射殺された事件が水曜日の夜遅く起きた。水曜日中には気が付かなかったが、木曜日には大きなニュースとなっていた。気のふれた陰謀論者がネットで宣言してアラブ系の同じ街に住む住人を射殺して回ったようだ。被害者数も多く、母親を道連れに自殺した犯人が特定の人種を狙ったことから世界的な問題ともなった。それでも敏速にベルリナーフィルハーモニカーがフランクフルトのアルテオパーでコンサート最初に黙想の時間を取ったのは想定外だった。

ペトレンコとベルリナーフィルハーモニカーそしてアルテオパーの共同の声明として、人種的差別や余所者排除への反対を声明して、「我々のやり方でそれを表現する」で比較的長い拍手が起こり、一同が起立した。国歌斉唱ではなく今はカウンターとしての意思表明である。

最初のストラヴィンスキーの三楽章の交響曲も良かった。何が違うかというと例えば弦の主題の意味づけが遥かに進んでいて、それが管楽器などに移される。ハムブルクで聴いた耳からするとこの作曲家特有のクールな音取り乍その特徴は矢張り色合いとなる。エルフィーの音響ではこの音色がなぜ得られないか?理由は音のミックスが上手になされないということだ。音はバラバラに聴こえるだけでは音楽にはならない。そこで顕著だったのが第二ヴァイオリンが反行するところが力んで演奏しないでも綺麗に嵌っていた。木管楽器との混ざりあいは当然のことながら、弦楽陣だけでも例えばヴィオラの音色などが過不足なく出る。

アルテオパーの批判点は、隣に座った在フランクフルトの二つの管弦楽団演奏会に通う人に言わせると独特の反射が嫌なのだとある。それに関してはどこからどのように跳ね返り感があるかは席によって異なる。平土間も上左右から戻ってくるようなものがあり、天井桟敷においてもそれが若干混ざって焦点が定まらない傾向は確認していた。前回匍匐前進で今回初めて座った席である正面バルコンの最前列から数列後ろでも若干感じた暈け感は今回は無かった。敢えて言えば音が丸くなる傾向はあるのだが、例えばギターの音も良く聴こえ若干隠れ気味に座っていても位置も綺麗に特定される。今回の一列目正面はプロアルテなどの定期の金を出し続ける人の指定席なので通常は入手出来ない。その点ではベルリンのフィルハーモニーの前過ぎない席ともよく似ている。因みに隣人はシェーンベルクは良かったがチァイコフスキーは前過ぎてばらばらの印象しか得られなかった語っていた。

二楽章の木管の絡みも素晴らしく音色豊かにミックスされて、更に膨らみがある。それは金管にも言えて、如何にそれによって音楽が可能となるか。三楽章でもそれは顕著で、この晩は一楽章から二楽章へとサウンドチェックで練習させていた成果がよく表れていた。フルートの二人がラフマニノフで賞賛されていたのも当然だろう。要するに音楽の表情がそれまではまだ十分ではなかった。

二曲目のベルント・アロイス・ツィマーマン「アラゴアーナ」においては、シャープなリズムの序曲からそこで響く音楽自体がそもそもエルフィーのような無味乾燥な空間が予期されていたものではなく、寧ろバレーの為の劇場でもあのような音色がリズムとして響きが作曲家にあった筈だ。ケルンの放送局の実験音楽などでの歴史はまだ戦後の事である。実際に初演を指揮しているのがあのギュンター・ヴァントであるからその状況は自ずと知れよう。既に言及した様撥弦楽器でもハープやまたチェムバロやチェレスタなどその音色とそのミックスこそが命で一つ一つの楽器が明白に聴こえることがこの音楽の為の音響空間では絶対ないのである。明らかにエルフィーなどの音響設定はどんなにフラットな音響特性を持っていたとしても勘違いでしかない。

音のミキシングとはどういうものかと言えばサクソフォンでも下から上まで同じように明白に聴こえる事ではなくて、楽譜にあるように必要な音だけが丁度雲の合間に見える富士山の様に刻々と頭を表し、それ以外では音色として不思議な音を醸し出すべきものなのである。一曲目のストラヴィンスキーではないが、この会場ではしっかりと中音域も出てくると同時にコントラバスがハッキリと響き、特にこの曲においては音色のベースを支えている。ベースが確りしているということは上で金管が強奏していても決して突出して聴こえない。当然ながら総奏での迫力が全く異なる。それどころかこの曲のフィナーレに於けるトラムペットの響きは充実した音楽的な艶を放っていた。裸で放たれる音には音楽的な意味合いなどは全くないのである。芸術音楽を安物オーディオファンの様に誤解してはいけない。

何だかんだと、結局エルフィー批判のようなことを書き連ねているが、そのような批判めいたようなことなどはいい演奏を聴いているとどちらでもよくなってくる。寧ろその楽曲にある色合いや主題の表情から、当時における社会批判的なものを敏感に読み取り、音楽表現としていく作業が最も肝心なのである。(続く



参照:
ケルンへ避難の準備 2020-02-21 | 生活
こんなことあるのか! 2020-02-20 | 音


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