Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

天下の副総理の含蓄

2020-02-11 | 文化一般
古新聞を整理した。ベートーヴェンに関するエッセイシリーズで、元独国会議長、副総理のショイブレ博士の短文が載っている。とても素晴らしい文章だった。流石に伊達にバーデンバーデン祝祭劇場の友の会の会長ではない。

引用始め:

2001年9月11日のテロの数日後ベルリンのフィルハーモニーで娘と一緒に居た。ベートーヴェンの四番ト長調が伝説的なアルフレード・ブレンデルに演奏された。会場の雰囲気は特別だった:圧し静まった緊張感 - そして最初の拍がピアノ、そして管弦楽が入る。この時あのニューヨークの悲劇を想い描かなかった者は居なかったと思う。

ベートーヴェンは歴代を通じて最も偉大な作曲家とされているのは何も特別独創的なものではない。彼の作品は世紀を超えて、今もって世界中で最もよく演奏されている。なぜにそうなのかがこの演奏会ではっきりした。偉大な音楽が、ここで今意識を超えさせる、ユニヴァ―サルで、慰めである事が、何よりも浮かび上がった。人々がお互いに結び付くのを、この日にフィルハーモニーに居合わした人が各々感じただろう。

「本物の芸術は枯渇することなく、永遠にエネルギーを芸術家に与える」とアルフレード・ブレンデルがピアニストのキャリアを終えるときに語った。それは聴者にも当てはまると思う。自身の考えとは違ったとしても、いつも新たに聴くことになるのです。つまり音楽はその瞬間に生まれる。音楽をする者と聴者の間のコミュニケーションがあって初めて生まれる。デジタルの時代には何一つ付け加えることなくそこに生まれる。

ベートーヴェンの音楽は今日とても流布している。「喜びの歌」は1985年にヨーロッパの歌となっている。世界中で第九で新年が迎えられている。ベートーヴェンは、祝日に、国葬に響く。それは国会だけでなく、七十年前にはボンの教育大学の議事堂ホールのこけら落としが、「定礎式」序曲で始まり、そして第五交響曲の終楽章で式典が締められた。それどころかヴォヤージュで金のレコードとしてベートーヴェンの作品が収められて旅行中である。

ベートーヴェンの作品の多くが如何に革命的であるかを私たちは殆ど意識していない。1807年に第四協奏曲がヴィーンで初演された節、聴衆は聴くに堪えないものを聴いた。ソロで始まるピアノ協奏曲なんて後にも先にもなかったのだ。ベートーヴェンは規則と規定を打ち破った、自身の理念を実現するためにである。彼は音楽的な新規軸だった。そしてその後、彼は生存中に成功と人気を享受した。新機軸に幾らか理解されるものがあった。

ベートーヴェンの音楽が今日今でもその大きな人気と感動を保っているのは、その質にのみ依存するのではない。それは今日について語っている。演奏会に於いて百年もそして更に古い作品が大きな成果を享受しているのは、彼の時代には到底考えられなかったことだ。何故昨日、一昨日のクラシック音楽に圧倒されているのか自身問うてみる。どうして私自身難しいと認める現代の音楽ではないのか。屹度それは芸術において打ち破るべき規則が無いからではないか、それを踏み超えるべき一般的な権威というものが無いからではないか、屹度感情を伝えるという事では、全ての芸術において嘗ての大芸術家が完璧に表現しているかに見えるからではないか。

ベートーヴェン自身は違うように考えただろう。彼の芸術は彼にとっては絶えず更なる天与に近づくものでしかなかった。彼自身は満足をしなかった。しかし同時に自尊心をしっかり持っていた。1806年にパトロンのリヒノヴスキーに侯爵に書いている:「あなたは、偶々そのように生まれたあなたであります。しかし私は私を通しての私であります。侯爵は山ほどいます。べート―ヴェンはただ一人です。」。彼の態度は正しかったのです。

引用終わり。

ヘルムート・コール元首相の番頭で、銃弾に下半身まひを負いながら、スキャンダルから最終的にはメルケル首相を補佐する形となる保守政治家であるが、立派な文章だと思う。



参照:
Musik, die trösten kann, Wolfgang Schäuble, FAZ vom 29.01.2020
お前はアホかの今は昔 2019-08-25 | マスメディア批評
とても攻撃的な話題 2008-12-19 | 雑感
コメント
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