Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

エンゲルが降りてきた

2021-11-01 | 
SNSの面白さは、それも匿名のものは、本音を聞けることだと思う。自分自身でも名前を出しては書けないことが多い。何語で書いても矢張り具合が悪いことがある。同時に匿名であっても例えば利害関係などがあるとどうして忖度はあるだろう。仲の悪い奴ならいいことは書きたくないとか、良い人なら悪いことは書きたくないとか。でも批評となると、そうした私情は抑えるのが当然だ。

フランクフルトのオペラ劇場での新制作「マスケラーデ」のティトス・エンゲル指揮に関しては、新聞評が出て批判点を示して欲しいなと思うぐらいで、大満足だった。正直二週間前の「サロメ」では既に言及したように、ゲスト指揮者による再演での練習量の少なさとが同地の座付き楽団の実力からすれば仕方がないと考えた。それゆえに新制作でしか判断できないところがあった。

それでもあそこまで上手に振れるとは思っていなかった。以前はどちらかというと歌いこみの抒情性とかの魅力が際立っていたのだが、ロッシーニ風の早口やパルランド、とても早いそして鋭いエッジの効いた表現からそのテムポ変化と運びの見事さは期待していなかった技量だった。勿論対位法的な扱いも見事で、座付き楽団の演奏も今まで聴いたことがない程の動機付けが出来ていて緊張感ありながら軽妙さと弾ける豊かな音響効果が素晴らしかった。比較しては申し訳ないが、ミュンヘンの新音楽監督では振れないものを聴かせた。

演出の関係で背後の書き割りのグラスが鏡になって前から観れる場面が後半多くあった。後ろからしか観たことがなかったので、思いがけず表情豊かな指揮だった。同時に「サロメ」での一瞬にしての表情の変化でアンサムブルも締まってきたような断層の瞬間は全くなかったのだが、その時の往年のクナッパーツブッシュのような指揮が、今回は一瞬にして振り込むと物凄いパワーを示した。それも現在の指揮者の多くが、例えばラトルやメストなどのチャカチャカするものでなくて、肘を折っていたのが伸びるとゆったりとフォルテが連なって流れ炸裂する。

頭はフルトヴェングラーの様になってきているのだが、ドイツ系としてはそれほど大柄でもないのだがその手足はやはり長く、これは全く違うと思った。要するに折り曲げての細やかで繊細な歌い口から朗々とした爆発のダイナミックスレンジが甚だしい。今まで聴いた指揮者の中でも圧巻ではないかと思う。練習無しで細やかさには欠けていた古臭い音楽のクナッパーツブッシュの指揮ぐらいしか思い浮かばない。

ミュンヘンのヴラディーミル・ユロウスキーはそのデモーニッシュとされる音楽から往年の大指揮者オットー・クレムペラーと比較されるが、こちらはハンス・クナッパーツブッシュだ。故郷のチューリッヒで振ることもあるだろう。夏のティロルでの「ローエングリン」指揮にもそのダイナミックスに言及されている。

隣のおばさんが常連なのでフランクフルトの新音楽監督や楽団の弱さなどについてお話ししていたのだが、今回の指揮で劇場のキャリアーなどには係わらなくても、大変大きな話題になるいい指揮を今後もして呉れることは確信した。古楽から新作初演、大オペラまで同じように音楽劇場の指揮もするので、矢張り次は大管弦楽団で大きな演奏会に出て欲しい。ベルリナーフィルハーモニカーを振る方向に動いているか?

座席の話もおばさんとしていたのだが、何年も待って彼女は安い特等席を確保したという。「前の人が死なないと駄目ね」ということで笑っていたのだが、少なくとも今回は私の奥には誰もいなかったので乗り出しもまた前列もあきあきで全く問題はなかった。字幕等はトビアス・クラツァーの演出のコンセプトにもなっていたので、全く問題なかった。千秋楽の特等席に行かないでももう満足したぐらいなのだが、それはそれで観どころ聴きどころがある。例えば千秋楽も動機づけを保たせながら、よりよい上演が出来るかどうかなど、ある意味エンゲルが今後どのような指揮者になるかを予想させるに十分な観察が出来る筈だ。

キリル・ペトレンコにできない新訳ドイツ語の「イントネーション」の指揮はエンゲルの想定内の能力だったのだが、一方は天才でそもそも比較対象にはならない。そういう世界で、キャリアの世界に足を突っ込まずに素晴らしい芸術活動を続けていると、とんでもない立場の指揮者になるのではなかろうか。(続く



参照;
「聖書」ではないお話し 2021-10-09 | 音
すかさず手が伸びる 2021-10-28 | 文化一般
コメント
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