(承前)トビアス・クラッツァーの新制作「マスケラーデ」をどう観るか?一度だけではなかなかとらえられない情報量なので、二回目の観劇を楽しみにしている。しかし主たる批評も出ていて、更に劇場の出来のいいトレイラーも出来上がっているので、早めに紹介しておこう。
»MASKERADE« Carl Nielsen
批評で一番良かったのは、矢張り高級紙フランクフルターアルゲマイネ紙で、またプログラムのインタヴューで本人が賢く語っているというものが的を得ている。
つまり、このもともとの1724年の原作での啓蒙主義やその社会への目線以上に、舞台劇としてはジェネレーションギャップとして扱うことが普遍的であり、近くでは68年世代として扱えるというものだ。実際にそのような舞台となっているが、作曲の20世紀初めにおいても同様な意識でもっと原作が扱われたというのも分かりやすい。
そこに新聞で書かれるように、老若男女が仮装で以て入れ替わるという構造が活きてくる。勿論その表現効果は現在においても話題のジェンダーであったりそしてジェネレーションとなり当世の関心事であると同時に普遍性を帯びる。その普遍性は音楽劇場での舞台として、見かけや社会的な概念よりも、ヴィデオで主人公の歌手が語るように「ありの侭の私」にスポットがあたり、観衆もそれに覚醒して家路ということでしかない。
実は、一連のミュンヘンのセレブニコフ演出「鼻」においても主題は最終的に社会の中での自我の喪失へと向かうのであるが、なぜか観衆は同じような何かをそこに見出すのではなかろうか?まさにこちら側が同じようなことに敏感になっていて、それはマーラーの交響曲9番においてもそうであり、ロマン派からヒンデミートの表現、それらに全て危うい実存が描かれているのを今更ながらそこに見出すという心理構造がある。恐らくコロナ禍におけるそれは社会心理となっている。
トレイラーでも、プログラムでと同じようにこれまた指揮者のエンゲルがとても上手に音楽的な構造を語っている。つまり我々世界中の人々が音楽においても長短調のトニカ構造に馴染みがある中で、そこから想定を外すような形で音楽が進む。それだけでなく音楽的に18世紀舞踊音楽の影響を、後期のヴェルディスタイルのデュエットなどを正しく表現すると同時にリズム的な推進力を重視して、今日的な言葉への新訳と詩的な韻が繋がることを中心にあるとしている。音楽的にはということである。よって、デンマーク語のそれが十分に表現されなければ音楽的に間違いではないかと危惧されたのだ。
新聞は、エンゲルの指揮は、ブルレスクな遊びと気持ちのこもる響きのバランスを確実にそして明晰に嗅ぎ取っていた。そしてニールセンの管弦楽における鋼のような直線性の意思を以て、調性とそこからの構文的なカデンツァからの逸脱が幾つかの場違いのようなレトリックとなっているのを決して否定的におかしくは響かさなかった。特に一幕の愉楽が続く場面のディアローグにぴったりと合わせてきていたと、この劇の流れを同時に示している。
これは同時にこの作品への評価であると共に、この制作の価値ともなる。しかし、それだけでは終わらない。それは、少なくとも現時点ではどのような音楽劇場作品であってもまた演奏会であってもコロナ禍以前の様なエンターテインメントの要素どころかそのもの自体が成り立たなくなっているからだろう。だからどうしてもそうした芸術的な催し物の意味や価値を誰もが無意識のうちに吟味してしまうという状況が今日起きていて、コンサート会場や音楽劇場がそうした市場部分を埋められずに満席にならないという状況の原因にもなっている。(続く)
Teaser: »Maskerade« von Carl Nielsen
参照:
Nun sind alle, alle gleich?, JAN BRACHMANN, FAZ vom 3.11.2021
長短調システムの精妙さ 2021-10-30 | 音
輝く時へと譲るべき大人 2019-07-28 | 文学・思想
»MASKERADE« Carl Nielsen
批評で一番良かったのは、矢張り高級紙フランクフルターアルゲマイネ紙で、またプログラムのインタヴューで本人が賢く語っているというものが的を得ている。
つまり、このもともとの1724年の原作での啓蒙主義やその社会への目線以上に、舞台劇としてはジェネレーションギャップとして扱うことが普遍的であり、近くでは68年世代として扱えるというものだ。実際にそのような舞台となっているが、作曲の20世紀初めにおいても同様な意識でもっと原作が扱われたというのも分かりやすい。
そこに新聞で書かれるように、老若男女が仮装で以て入れ替わるという構造が活きてくる。勿論その表現効果は現在においても話題のジェンダーであったりそしてジェネレーションとなり当世の関心事であると同時に普遍性を帯びる。その普遍性は音楽劇場での舞台として、見かけや社会的な概念よりも、ヴィデオで主人公の歌手が語るように「ありの侭の私」にスポットがあたり、観衆もそれに覚醒して家路ということでしかない。
実は、一連のミュンヘンのセレブニコフ演出「鼻」においても主題は最終的に社会の中での自我の喪失へと向かうのであるが、なぜか観衆は同じような何かをそこに見出すのではなかろうか?まさにこちら側が同じようなことに敏感になっていて、それはマーラーの交響曲9番においてもそうであり、ロマン派からヒンデミートの表現、それらに全て危うい実存が描かれているのを今更ながらそこに見出すという心理構造がある。恐らくコロナ禍におけるそれは社会心理となっている。
トレイラーでも、プログラムでと同じようにこれまた指揮者のエンゲルがとても上手に音楽的な構造を語っている。つまり我々世界中の人々が音楽においても長短調のトニカ構造に馴染みがある中で、そこから想定を外すような形で音楽が進む。それだけでなく音楽的に18世紀舞踊音楽の影響を、後期のヴェルディスタイルのデュエットなどを正しく表現すると同時にリズム的な推進力を重視して、今日的な言葉への新訳と詩的な韻が繋がることを中心にあるとしている。音楽的にはということである。よって、デンマーク語のそれが十分に表現されなければ音楽的に間違いではないかと危惧されたのだ。
新聞は、エンゲルの指揮は、ブルレスクな遊びと気持ちのこもる響きのバランスを確実にそして明晰に嗅ぎ取っていた。そしてニールセンの管弦楽における鋼のような直線性の意思を以て、調性とそこからの構文的なカデンツァからの逸脱が幾つかの場違いのようなレトリックとなっているのを決して否定的におかしくは響かさなかった。特に一幕の愉楽が続く場面のディアローグにぴったりと合わせてきていたと、この劇の流れを同時に示している。
これは同時にこの作品への評価であると共に、この制作の価値ともなる。しかし、それだけでは終わらない。それは、少なくとも現時点ではどのような音楽劇場作品であってもまた演奏会であってもコロナ禍以前の様なエンターテインメントの要素どころかそのもの自体が成り立たなくなっているからだろう。だからどうしてもそうした芸術的な催し物の意味や価値を誰もが無意識のうちに吟味してしまうという状況が今日起きていて、コンサート会場や音楽劇場がそうした市場部分を埋められずに満席にならないという状況の原因にもなっている。(続く)
Teaser: »Maskerade« von Carl Nielsen
参照:
Nun sind alle, alle gleich?, JAN BRACHMANN, FAZ vom 3.11.2021
長短調システムの精妙さ 2021-10-30 | 音
輝く時へと譲るべき大人 2019-07-28 | 文学・思想