久しぶりに大管弦楽を平土間中盤で聴いた。アルテオパーの平土間に座ったことはあるのだが、三桁近く通っていると思うが、今回の位置で聴くのは初めてだった。結論からすると上階の上まで音の特徴はあまり変わらない。視覚的には最奥は余りにも遠い。上階最前列との差は視角でその方が音響の差よりも大きいかもしれない。平土間の後ろのブロックは巨大な屋根が掛かるのでやはり違う。天井から下りてくる感じはいいブロックにはない。残響も比較的長めで日本のサントリーなどに最も近いかもしれないと思うと、本当ならば日本公演がこうして行われていたらどうだったのかという気持ちで聴いていた。
シューベルトは、折からのパユの後任お試しに関係するのかどうか、どこかで見たブロンドの男性が吹いていたのだが、平土間の席との関係でも木管群の響きの特徴に気が付いた。一楽章のコーダなどの掛け合いなどは木管の音色でどうのこうのではない。今回気が付いたのはここで木管群は引っ込んでしまうというものだ。パユが吹いたからルツェルンでは気が付かなかったのかもしれないが、齧り付きでも木管は見えない。但し舞台上と同じように上からの反射はある。平土間中盤では上からの様に視角で補えない。そこで思い出すのは指揮者ズビン・メータが木管群を弦の前に出して演奏させるという変則編成である。更に終楽章でも同様に効果が期待されるところもあったので成程と思ったのだ。
全体の印象の差異は、なによりも再演ということで、力が上手に抜けていて、表現の可能性が広がっていた。同時に再演初日ということで、もう一つ抜け切れなかった印象は致し方がない。しかし、前回よりも調性の移り変わりのシューベルトの妙を楽しめた。土曜日は更に離れて上から聴くので異なるものが聴けると思う。此の侭なのか、もう一越えするのか。一楽章が改善されていたと思う。また四楽章のゲネラルパウゼへのデクレッシェンドなどへの入り方が妙で感心した。とてもここで構成感が変わってくる。確認したいところだ。
一曲目の「オベロン」序曲をロマンティックの音として全体のプログラムに言及したのがアルテオパーでの元ベルリナーフィルハーモニカーの芸術顧問をしていた支配人の言だった。勿論のことホルンにも注目する。ドールのホルンが先日のショスタコーヴィッチ中継でも不安定だと話題になっていたが、明らかに彼は挑戦しているようで、自身の専売特許をかなぐり捨てでもその音色から表現の幅を広げようとしていると見た。マウスピースを替えるとそうなるのかどうかは分からないが、明らかに音色を模索している。とても暖かい響きへとシャープさよりも音楽的な響きを求めているのがペトレンコ体制でのフィルハーモニカーになってきているのではなかろうか。それによって最も色合いが出るのが長短の和声の移り行きであり、まさしく長い期間ベルリナーフィルハーモニカーの音楽に手薄となっていた響きではなかったろうか。
今回はヴィオラにはソロのグロースが復帰していて、明らかにヴィオラ陣に芯のある響きが戻っていた。これは今回の再演での大きな特徴で第二ヴァイオリンとの合わせ方も変わってきていて、丁度オペラで配役が変わるほどの変化を生じている。甲乙の問題でなくて、如何に表現に近づくかだろう。
その点、ヒンデミートのフォンヴェーバーによる主題によるメタモルフォーゼンは今回初めてフルプログラムとして聴いたが、当夜のキエンツレ女史のプログラムの文章と共にとてもよく、喝采もあった。その文章の中に、マーチにおける、殆どハリウッド映画の様だともされる曲の主題が葬送の主題であり、ナチに新世界へと追われた作曲家が「ロマンの響き」にあっかんべーをしているというのだ。それは丁度オベロンのプックなどの悪戯がシューベルトの木管の響きであり、そしてここでもとなる ― 因みに夏のツアーではそこに裏プログラムでスークの妖精が登場していた。
そして今回のアルテオパーでのプロフラム単体でロマンティックを示したというもので、こうなるとバーデンバーデンも頑張って貰わないと、アルテオパーよりも知的に落ちてしまうことになりかねない。日本旅行にも準備していた秋のツアーのショスタコーヴィッチの表プログラムと裏表で一体何を表現しようとしていたか、これが週末には明らかになる。
支配人ファイン博士が語っていたように一年半の期間をおいてようやく2000人規模の演奏会をフィルハーモニカーで再開した。これで終わりではないが、杮落としがカラヤン指揮のベルリナーフィルハーモニーカー公演であったことなどを含めて、一堂に会した聴衆がスタンディングオヴェーションで祝福したのも当然であったろうか。
参照:
大河の流れのように 2021-09-05 | 音
「夏のメルヘン」の企画 2021-09-01 | マスメディア
シューベルトは、折からのパユの後任お試しに関係するのかどうか、どこかで見たブロンドの男性が吹いていたのだが、平土間の席との関係でも木管群の響きの特徴に気が付いた。一楽章のコーダなどの掛け合いなどは木管の音色でどうのこうのではない。今回気が付いたのはここで木管群は引っ込んでしまうというものだ。パユが吹いたからルツェルンでは気が付かなかったのかもしれないが、齧り付きでも木管は見えない。但し舞台上と同じように上からの反射はある。平土間中盤では上からの様に視角で補えない。そこで思い出すのは指揮者ズビン・メータが木管群を弦の前に出して演奏させるという変則編成である。更に終楽章でも同様に効果が期待されるところもあったので成程と思ったのだ。
全体の印象の差異は、なによりも再演ということで、力が上手に抜けていて、表現の可能性が広がっていた。同時に再演初日ということで、もう一つ抜け切れなかった印象は致し方がない。しかし、前回よりも調性の移り変わりのシューベルトの妙を楽しめた。土曜日は更に離れて上から聴くので異なるものが聴けると思う。此の侭なのか、もう一越えするのか。一楽章が改善されていたと思う。また四楽章のゲネラルパウゼへのデクレッシェンドなどへの入り方が妙で感心した。とてもここで構成感が変わってくる。確認したいところだ。
一曲目の「オベロン」序曲をロマンティックの音として全体のプログラムに言及したのがアルテオパーでの元ベルリナーフィルハーモニカーの芸術顧問をしていた支配人の言だった。勿論のことホルンにも注目する。ドールのホルンが先日のショスタコーヴィッチ中継でも不安定だと話題になっていたが、明らかに彼は挑戦しているようで、自身の専売特許をかなぐり捨てでもその音色から表現の幅を広げようとしていると見た。マウスピースを替えるとそうなるのかどうかは分からないが、明らかに音色を模索している。とても暖かい響きへとシャープさよりも音楽的な響きを求めているのがペトレンコ体制でのフィルハーモニカーになってきているのではなかろうか。それによって最も色合いが出るのが長短の和声の移り行きであり、まさしく長い期間ベルリナーフィルハーモニカーの音楽に手薄となっていた響きではなかったろうか。
今回はヴィオラにはソロのグロースが復帰していて、明らかにヴィオラ陣に芯のある響きが戻っていた。これは今回の再演での大きな特徴で第二ヴァイオリンとの合わせ方も変わってきていて、丁度オペラで配役が変わるほどの変化を生じている。甲乙の問題でなくて、如何に表現に近づくかだろう。
その点、ヒンデミートのフォンヴェーバーによる主題によるメタモルフォーゼンは今回初めてフルプログラムとして聴いたが、当夜のキエンツレ女史のプログラムの文章と共にとてもよく、喝采もあった。その文章の中に、マーチにおける、殆どハリウッド映画の様だともされる曲の主題が葬送の主題であり、ナチに新世界へと追われた作曲家が「ロマンの響き」にあっかんべーをしているというのだ。それは丁度オベロンのプックなどの悪戯がシューベルトの木管の響きであり、そしてここでもとなる ― 因みに夏のツアーではそこに裏プログラムでスークの妖精が登場していた。
そして今回のアルテオパーでのプロフラム単体でロマンティックを示したというもので、こうなるとバーデンバーデンも頑張って貰わないと、アルテオパーよりも知的に落ちてしまうことになりかねない。日本旅行にも準備していた秋のツアーのショスタコーヴィッチの表プログラムと裏表で一体何を表現しようとしていたか、これが週末には明らかになる。
支配人ファイン博士が語っていたように一年半の期間をおいてようやく2000人規模の演奏会をフィルハーモニカーで再開した。これで終わりではないが、杮落としがカラヤン指揮のベルリナーフィルハーモニーカー公演であったことなどを含めて、一堂に会した聴衆がスタンディングオヴェーションで祝福したのも当然であったろうか。
参照:
大河の流れのように 2021-09-05 | 音
「夏のメルヘン」の企画 2021-09-01 | マスメディア