ベルチャ四重奏団の演奏会、最後に聴いたのは一年少し前のシュヴェツィンゲンの演奏会だった。初めて聴いたのがその六月のドルトムントでのエベーヌ四重奏団とのジョイント連続演奏会だった。双方ともについて書き留めている。
そして今回三度目の機会を得た。興味は、モーツァルトの所謂プロイセンセットとされるチェロを弾いていた王のためのヘ長調K.590にショスタコーヴィッチ14番嬰ヘ長調、休憩後にブラームスの一番ハ短調のプログラムであった。ショスタコーヴィッチの15番は昨年のメドレーで二楽章を聴いていたので悪くないだろうと思っていた。
出かける前にも意識していたのは楽器毎の作曲意思で一曲目は明らか、二曲目も二人も奏者を亡くしていたベートーヴェン四重奏団のチェロ奏者に捧げられている。それと三曲目のブラームスがどのように結びつくのかと考えさせられるだけで総合コンセプトになっていたことを当夜のプログラム冊子となによりもその演奏で明白にしていた。
コロナ禍中に二回も聴いてそして三回目を聴けば、その意味があまりにも明らかだった。この間も休むことなく活動を続けていた様であるが、矢張りそれでも海外旅行はなく、より合わせる時間は多かった筈である。モーツァルトから明らかに合奏が変わっていた。最初は新たに入った第二ヴァイオリンがいいところを見せられなかったのだが、今やとてもいい仕事をしていて、ヴィオラが無理にでも支える必要が無くなってきていた。そしてそれゆえに突出していた第一ヴァイオリンのベルチャが均質的な音を出すようになってきていて、明らかに昨年までとは変わっていた。要するにエベーヌに負けないほどの均質な合奏が出来るようになっていた。コロナでの日程がなければならなかったものではなかろうか。
冊子には弦楽四重奏曲の成り立ちとその始めに均質性があったとして、それを不均等にすることが、上の前半の曲においてはテーマになっているとも読める。モーツァルトが依頼主の技量に合わせつつおいしいところを用意しているというのはよく知られていることでもあるが、チェロを動かすためにはヴィオラが支えるようにもなっている。兎に角書法が人気のハイドンセットなどのよりも面白い、反面どうしてもその中低音部の扱い方によっても音響として抜け切らないので、それこそチェロでも自身で弾いていない限り、ややだるい印象を持たされているのがプロシアセットではなかろうか。要するに、既にジャンルの発展の中ではここでのチェロと第一ヴァイオリンが中声部に対抗するような作曲は退行しているというコメントともなる。
それを見事なまでに均質にアクセント付けなどをするものだから、出かける前に資料としていたアマデウス四重奏団のような独特な歌いまわしをベルチャからは聴けなかった。それだけ合奏を変えてきていた。その分、フィナーレの舞曲風のノリには第二ヴァイオリンやヴィオラなどが前に出てくる感じになる。もしこのモーツァルトを批判するとすればアーティキュレーションのつけ方とかであるだろうか。(続く)
参照:
実況中継録音放送前 2020-10-22 | 音
アラテデスコの響き 2020-06-25 | 音
そして今回三度目の機会を得た。興味は、モーツァルトの所謂プロイセンセットとされるチェロを弾いていた王のためのヘ長調K.590にショスタコーヴィッチ14番嬰ヘ長調、休憩後にブラームスの一番ハ短調のプログラムであった。ショスタコーヴィッチの15番は昨年のメドレーで二楽章を聴いていたので悪くないだろうと思っていた。
出かける前にも意識していたのは楽器毎の作曲意思で一曲目は明らか、二曲目も二人も奏者を亡くしていたベートーヴェン四重奏団のチェロ奏者に捧げられている。それと三曲目のブラームスがどのように結びつくのかと考えさせられるだけで総合コンセプトになっていたことを当夜のプログラム冊子となによりもその演奏で明白にしていた。
コロナ禍中に二回も聴いてそして三回目を聴けば、その意味があまりにも明らかだった。この間も休むことなく活動を続けていた様であるが、矢張りそれでも海外旅行はなく、より合わせる時間は多かった筈である。モーツァルトから明らかに合奏が変わっていた。最初は新たに入った第二ヴァイオリンがいいところを見せられなかったのだが、今やとてもいい仕事をしていて、ヴィオラが無理にでも支える必要が無くなってきていた。そしてそれゆえに突出していた第一ヴァイオリンのベルチャが均質的な音を出すようになってきていて、明らかに昨年までとは変わっていた。要するにエベーヌに負けないほどの均質な合奏が出来るようになっていた。コロナでの日程がなければならなかったものではなかろうか。
冊子には弦楽四重奏曲の成り立ちとその始めに均質性があったとして、それを不均等にすることが、上の前半の曲においてはテーマになっているとも読める。モーツァルトが依頼主の技量に合わせつつおいしいところを用意しているというのはよく知られていることでもあるが、チェロを動かすためにはヴィオラが支えるようにもなっている。兎に角書法が人気のハイドンセットなどのよりも面白い、反面どうしてもその中低音部の扱い方によっても音響として抜け切らないので、それこそチェロでも自身で弾いていない限り、ややだるい印象を持たされているのがプロシアセットではなかろうか。要するに、既にジャンルの発展の中ではここでのチェロと第一ヴァイオリンが中声部に対抗するような作曲は退行しているというコメントともなる。
それを見事なまでに均質にアクセント付けなどをするものだから、出かける前に資料としていたアマデウス四重奏団のような独特な歌いまわしをベルチャからは聴けなかった。それだけ合奏を変えてきていた。その分、フィナーレの舞曲風のノリには第二ヴァイオリンやヴィオラなどが前に出てくる感じになる。もしこのモーツァルトを批判するとすればアーティキュレーションのつけ方とかであるだろうか。(続く)
参照:
実況中継録音放送前 2020-10-22 | 音
アラテデスコの響き 2020-06-25 | 音