Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

均衡とその逸脱から

2021-11-26 | 
承前)弦楽四重奏の均質性からその均衡が破られる。ショスタコーヴィッチの14番は書法自体がチェロに捧げられている通り、楽器間の対峙が基本コンセプトになっている。

最初と最後の四重奏曲以外を初演したベートーヴェン四重奏団のチェロ奏者に捧げられていて、既に13番を捧げたヴィオラ奏者は亡くなって、12番を捧げた第一ヴァイオリン奏者との掛け合いなどが扱われている。

14番は初演当時から名曲とされていて、70年代中盤には盛んにNHKでも流されていた。だから個人的にはショスターコヴィッチの曲では最も馴染みがあり、息子のマキシムが振る交響曲15番などと共に、よく耳に入った。しかし生で聴くのはチルギリアン四重奏団の演奏でエディンバラの演奏会で聴いたかどうかで、今回の様に楽譜に目を通してからというの初めてだった。

如何に四重奏者の四人の中での死者と対話をしているようなところが独特で、余りそのようなコンセプトの曲は他に浮かばない。要するに、均質に演奏どころか、あちらとこちらの違う世界で呼応している様な趣なのである。

当夜のプログラム冊子には献呈されたチェロ奏者の名前から「マクベス夫人」のアレクセイに呼びかける歌詞が書き込まれているとある。今シーズンは、ミュンヘンでの「鼻」での第8四重奏曲の挿入があり、そのDSCHの動機、更に交響曲10番におけるその動機、そしてここに至る。よく分かるのは、どの作曲家にも通じるのだが、音楽劇作品での劇的な意味合いなどが純粋な器楽曲においてどのように活かされているかということである。この作曲家にとっても劇作品が大きな意味合いを持っていたことがよくわかる。即ち純音楽性が強調されるところに劇性がとなっている。

今回は当時頻繁に流されていた初演のベートーヴェン四重奏団の録音は聴けていないのだが、非常に高い次元での音楽表現がなされていて、そのコンセプトでもあるテーゼの均衡とそのアンチテーゼの逸脱の表現をどのように扱うかにあった。とても感動的だった演奏であったのも語るまでもない。

ショスタコーヴィッチには限らないのだが、ポストモダーンなコンセプトの楽曲においてどのような表現を成しえるかでのとても良い例となっている。例えばペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーが第十交響曲を再演していくときに何が求められて要るかにも通じる表現のありかただ。なぜあの楽曲でダイシンがコンツェルトマイスターを務めているかの理由でもあろう。

まさしくこの曲が、作曲家を死の一年前の1974年春に訪問したクリシュトフ・マイヤーに作曲家が語った二曲のうちの一曲であり、未出版の楽譜として見せられたとある。そして「カルテットはトリオよりも作曲が簡単」とする有名な言葉が出てくる。またマーラーの交響曲10番、大地の歌への言及があったという訪問の時の証言であった。

この曲のアダージョ葬送での12回の繰り返しやマーラー九番でのそれを考えると、死が忍び寄る当時の作曲家の思索の一端に触れるような気もする。

まさしくこのベルチャ四重奏団が恐らくこの一年以上を掛けて成してきたことのその反映がプログラムとして完成していたことにもなる。(続く



参照:
歴史に残るようなこと 2019-09-17 | 文化一般
実況中継録音放送前 2020-10-22 | 音
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