Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

牛刀割鶏にならない偉業

2021-11-11 | 
スーパーオペラ「マゼッパ」初日の印象。結論からすれば、ペトレンコ指揮の復活祭の行くへは見えた。今回は舞台がないばかりか奈落も使われなかったが、それでもバンダやローゲでの金管演奏など、今後この劇場での芸術活動の一貫を予期させた。

個人的な感想としては、フォンカラヤンのオペラ上演を知らない事からの歯がゆさがあったのだが、これでベルリナーフィルハーモニカーのスーパーオペラの一端が垣間見え、音響的にも溜飲が下がった。ラトル指揮時代のそれとの大きな違いはカペルマイスターの基礎があるとかどうとかの初歩的な職人技術のお話しではなくて、後ろを振り返り指揮した三幕冒頭の「1882」ファンファーレの音響だけでもその差異は大きかった。

ラトル指揮「トリスタン」で最もその交響的なサウンドが話題になっていたのだが、まさしくその反対の密な音響であり。これは録音などに聴かれるカラヤン指揮復活祭オペラとも甚だしく一線を画する。所謂牛刀割鶏以上のことは出来なかったことへの挑戦でもあり、来シーズンまでプログラムに載せるショスタコーヴィッチ交響曲十番と並んで、ラトルのレパートリーを悉く塗り替えたように、そのものカラヤンの業績のリセットでしかない。

それはミュンヘンにおいてあそこまで執拗に追い続けていた劇場らしからぬ座付き管弦楽団の演奏を更に高度な技術的な次元で追求した形になる。遥かに柔軟で、そして声に寄り添うということになる。テキストに関しては今回はロシア語でありどこまで明白であったかという判断はつかないのだが、少なくともその音楽的なイントネーションの千変万化の多彩性には疑問の余地がなかった。狙い通り翻訳独語のテクストを読む事は叶い、それの音楽的な表情については限られた時間でお勉強をして、二晩目に挑むしかない。

同時に初日は、その券の売れ行き以上に惨憺たる入場者数であり、千人どころか数百人しか入っていなかったであろう。そうした影響を受けないでも初日一幕においてはいつものようにもう一つすっきりしないのはミュンヘンの時と同様であったのだが、そのフィナーレから休憩を挟んで二幕へと熱が入って来て、三幕では人数比では驚くべき喝采を受けていた。印象からするとミュンヘンでのペトレンコを知っているようなオペラ通もいた様子で少数ながらとてもいい反応は感じた。これで来年への聴衆側の礎は出来つつあると直感した。金曜日の二晩目で再確認することになろう。当然一幕からよくなってくる筈なのだが、交響曲等においてもの出来がり方が共通しているのが面白い。

どこをとってもその音楽のヴェクトルが明白で、いい加減な指揮者が適当な色付けだけで進むところを明確な創作の意義を感じさせることになる。それは作曲家自体が意識下においても無意識化においても運ばせるそのペンの勢いのような創作の息吹のようなものを聴かせるに等しい。そうしたところがこの指揮者における天才性の発露だと思われる。(続く



参照:
スーパーオペラへの道程 2021-11-10 | 文化一般
ロマンティックな芸術の意 2021-11-08 | 文化一般
コメント (2)
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