Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

言葉不要の高度な表現

2021-11-16 | 
承前)フランクフルトの「マスケラーデ」の宣伝を折があればする。その為にもいい評論があれば助かる。SWRのベルント・キュンツィックが気の効いた評をしている。11月始めに放送されているので、初日の評だと思われる。恐らく指揮者のエンゲルともコンタクトがある人だと思う。声は聞き覚えがあるがどういう人だったか思い出せない。

トビアス・クラッツァーの演出をして、そのゼルマイヤーの舞台の仕切りとドアを出たり入ったりさせることでアクションのあるブルヴァー劇場としていて、都市の小さな劇場的な舞台としている。その意味するところは、例えばペトレンコが指揮するようなスーパーオペラともミュンヘンの大劇場の大オペラとも対極である概念となるだろう。

それゆえにニールセンの日常生活の場面が音楽に正確に演出されていて、三幕の舞踊の場面の動きもそこに付け足された印象を与えないとしている。それでもコンセプショナルに新たな意味づけを行うことが避けられていて、凄い舞台と音楽的な愉楽が芝居の遊びとなっているとしている。これ以上何も付け加える必要はない ― 暴力的な深い意味も。

衣装を以て仮面舞踏会はゼルマイヤーの衣装で派手なお祭りになって、最後にはそこでは性の入れ替えなどが行われる。モラルを代表するかのような父親が自意識を攻防する。

音楽的には統一的なフランクフルトのアンサムブル一巡素晴らしく、指揮者エンゲルが座付き管弦楽団となしたことは圧倒的に模範価値があったとして、1906年の映画音楽とミュージカルのような楽譜であり、リリックに聞こえる音楽もストラヴィンスキーのアヴァンラレットル同様に棘があり、シャープで現代的に響く。当夜のフランクフルトの晩の珍しい作品への大喝采は正当的であり、ただただ素晴らしい音楽劇場だったと絶賛している。

本当に優れたエンターティメントには言葉も説明もなくてもしっかりと残るものがある。それがトビアス・クラツァーの演出ではないのか。特に音楽劇場のその音楽は言葉で説明されるものである必要がない。純粋に音楽的な価値がある。それをエンゲルの指揮が否応なく示している。

この批評はとてもその点を言語化に成功していてとても質の高いものだと思う。批評も制作と同じように表現に貪欲でなければ為らない。



参照:
Raus aus dem Mauerblümchen-Dasein, BERND KÜNZIG, SWR2 vom 2.11.2021
Grandiose „Mazeppa“ im Festspielhaus Baden-Baden, Jürgen Kanold, Schwäbisches Tagblatt vom 12,11,2021
長短調システムの精妙さ 2021-10-30 | 音
赤い風船が飛んでいく高み 2021-10-29 | 文化一般
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