マーラーの交響曲七番のお勉強をしている。思っていたよりも遙かに刺激的だ。今迄はどうしても六番の陰に隠れて不完全な印象を持っており、出来上がった閉じた作品に対して歪な開かれた作品の印象が強かったからだ。
今回改めて一楽章の「グランディオ―ソ」に至る序奏の再現の前の恐らくこの交響曲で最も印象深い部分の始まりで兵ラッパがF管トラムペットで鳴る。ここを聴くと最早バンダで響く「スペードの女王」の兵舎のシーンを思い出さずにはいられない。マーラーにおいては付き物になっている兵隊ラッパであるが、良く語られるのは子供の時に近くの兵舎で鳴らされたそれが反映しているとされることである。ここでは二楽章からの夜の響きを聴くか、もう少し調べないといけない。
音楽監督グスタフ・マーラーは、「スペードの女王」1906年にヴィーンで初演指揮していて、そこを追い出された後は死の前年の1910年3月5日にメトロポリタンでアメリカ初演指揮をしている。チャイコフスキーの影響は様々に感じられるマーラーであるが、やはり特別な作品だったと思われる。その主人公ヘルマンのアウトサイダー性はチャイコフスキーの分身であったとともに、マーラーにとってもとても大きな共感を与えたのではなかろうか。少なくともその創作の影響はもう無視できない。
今回バーデンバーデンでは復活祭とは全く別の枠組みで演奏されるのだが、音楽監督だったペトレンコは夏のオープニングツアーでベルリナーフィルハーモニカーでこの曲を振る。勿論この曲は更に複雑なのだが、スラブ的なイントネーションの読み取りは強ち誤りではないと思う。所謂独墺的なイントネーションだけではどうしても活きてこない動機などが散りばめられているのではないだろうか。キリル・ペトレンコの活動に接して、感心するだけでなく、感謝しかないと思うのはこうしたところでもある。
先日オペラ上演の演出に関して、所謂読み替えとかされるものに対してのバイエルン放送局でエッセーがあったが、その結論はオペラ上演においても絶対あってはならないのは停滞であって、何ら新たなものがないならば存在価値が無いという結論だった。古い古典とされるような演目を繰り返しやっていても芸術的な意味は無くなるということである。要するに、真面な演奏や公演が達成されたところでその作品や演目での再創造の意味は無くなる。
例えば日本の古典芸能などの古いものを繰り返し相も変わらず上演するという考え方は創造的な芸術分野では当てはまらない。例えばモンテヴェルディ作「オルフェオ」を如何に再演しても当時の人と同じように感動するなんて言うことはありえないのである。要は如何に創作者のおかれた社会やその環境を上手に把握出来るようにして、現在の我々が創作の時と同じように思いを巡らせれるようにする企画や制作が必要なのはそれ故なのである。一流の古典とか高度な芸術とかはそうしたものなのである。
参照:
痛みを分かち合う芸術 2022-05-27 | 音
特別な音楽劇場の作業工程 2022-05-18 | 文化一般
今回改めて一楽章の「グランディオ―ソ」に至る序奏の再現の前の恐らくこの交響曲で最も印象深い部分の始まりで兵ラッパがF管トラムペットで鳴る。ここを聴くと最早バンダで響く「スペードの女王」の兵舎のシーンを思い出さずにはいられない。マーラーにおいては付き物になっている兵隊ラッパであるが、良く語られるのは子供の時に近くの兵舎で鳴らされたそれが反映しているとされることである。ここでは二楽章からの夜の響きを聴くか、もう少し調べないといけない。
音楽監督グスタフ・マーラーは、「スペードの女王」1906年にヴィーンで初演指揮していて、そこを追い出された後は死の前年の1910年3月5日にメトロポリタンでアメリカ初演指揮をしている。チャイコフスキーの影響は様々に感じられるマーラーであるが、やはり特別な作品だったと思われる。その主人公ヘルマンのアウトサイダー性はチャイコフスキーの分身であったとともに、マーラーにとってもとても大きな共感を与えたのではなかろうか。少なくともその創作の影響はもう無視できない。
今回バーデンバーデンでは復活祭とは全く別の枠組みで演奏されるのだが、音楽監督だったペトレンコは夏のオープニングツアーでベルリナーフィルハーモニカーでこの曲を振る。勿論この曲は更に複雑なのだが、スラブ的なイントネーションの読み取りは強ち誤りではないと思う。所謂独墺的なイントネーションだけではどうしても活きてこない動機などが散りばめられているのではないだろうか。キリル・ペトレンコの活動に接して、感心するだけでなく、感謝しかないと思うのはこうしたところでもある。
先日オペラ上演の演出に関して、所謂読み替えとかされるものに対してのバイエルン放送局でエッセーがあったが、その結論はオペラ上演においても絶対あってはならないのは停滞であって、何ら新たなものがないならば存在価値が無いという結論だった。古い古典とされるような演目を繰り返しやっていても芸術的な意味は無くなるということである。要するに、真面な演奏や公演が達成されたところでその作品や演目での再創造の意味は無くなる。
例えば日本の古典芸能などの古いものを繰り返し相も変わらず上演するという考え方は創造的な芸術分野では当てはまらない。例えばモンテヴェルディ作「オルフェオ」を如何に再演しても当時の人と同じように感動するなんて言うことはありえないのである。要は如何に創作者のおかれた社会やその環境を上手に把握出来るようにして、現在の我々が創作の時と同じように思いを巡らせれるようにする企画や制作が必要なのはそれ故なのである。一流の古典とか高度な芸術とかはそうしたものなのである。
参照:
痛みを分かち合う芸術 2022-05-27 | 音
特別な音楽劇場の作業工程 2022-05-18 | 文化一般