Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

創作のカミングアウト

2022-05-09 | 文化一般
フランクフルトでの「フェドーラ」をどうしようか考慮中である。通常価格の三十数ユーロなら捨てていたが、四十数ユーロをアスミク・グリゴーリアンの為に払っている。旅費は往復で35ユーロくらい駐車料を入れると45ユーロ以上である。但し休憩無しの上演にその倍ぐらいの前後の時間が掛かる。勿論代わりの歌手を聴いて得するならと思うが、ミュンヘンにも登場しているが、どうもその価値もなさそうだ。翌朝にチェコの四重奏団のマティネーなどもあるのでそちらに移動しようかとも思うが、これまた要らぬ金がかかる。なによりも生中継で事足りる。

さてもう一つの「ブルートハウス」は、初演の録音をBGMで流してみた。聴いただけでは悪い音の資料ではよく分からないところも多いが、楽譜も見れない。ミニマルな要素に複雑な音響が重ねられていて、やはり生で奈落を覗き込んで初めて分かることも多そうである。但し、曲にモンテヴェルディのマドリガルを挟むのはある程度想像も可能であり、恐らく作曲家とのフィードバックも出来ているのだろう。

ハースの作曲は、この数年間で音楽芸術として最も成功している新作の数々で、この2011年初演作品も代表作となるのかもしれない。ネット情報では、父親のナチでの活動から彼自身もサドマゾの性的志向が強くオーストリアでは認知され難いことから、2013年からアメリカに住んでいるらしい。

しかしハースの音楽からそのような背景を聴いているのはごく少数のファンであり、多くの人はその作風に魅力を感じているに過ぎない。その意味から、この脚本を使ってのオペラは確かに家庭内でのサゾマゾが主題になっている。この作品発表後にカミングアウトしたのだろう。その状況にはそれ程関心がなく、チャイコフスキーのようにそれが学術的にも主題になるのはまだ数十年先のことになるのだろう。それでも、ここで初演から三回目ぐらいの上演に音楽劇場的に作品を扱うということは、どうしてもその作品を客観的に評価していくという芸術的な作業にもなる。それは作曲家との協調作業であっても批判的な創造的作業ともなる。

ここでとても興味深いのは、指揮者エンゲルが演出によって楽曲解釈を変えると口外して止まない作業をしているのとは反対に、指揮者ペトレンコが飽くまでの楽曲の紹介者でしかないとして ― その実演出に応じて指揮するので、演出まで監督する必要が生じて、自ら演出出来たらとまで語っている ―、その「楽曲解釈のあり方」が今までにはなかったとされて、この両者が特に舞台音楽指揮において双璧とされていることである。両者ではなんら共通点もなく、若干エンゲルの方が三つほど若いというだけに過ぎない。

それでも明らかに従来の音楽の「解釈」というのが別の事象として捉えられているのは、この間の創作事情即ち美学的な変化に準拠するものであって、強いて言えばエンゲルのやり方は「開いた作品」への対応、ペトレンコは「閉じた作品」への対応となる。つまり、作品自体が一字一句厳密に構成されているとなれば「解釈」などの余地がないとなり、反対にその状況によって嵌め替えが可能となれば積極的に「解釈」していかなければ意味を成さない。芸術音楽におけるジャンル別けでは、一つはベートーヴェンからシェーンベルクを超えてのセリアルの絶対音楽とされるものとなり、その反対がジョン・ケージとかそこからの偶然性などの作品が対応する。



参照:
プーティン登場の音楽劇場 2022-03-17 | 音
本格的芸術祭への道 2022-04-19 | 文化一般
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