Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

男を求めるスラヴ女へ抗う

2023-08-20 | マスメディア批評
「スラヴ女は外国の男を求めている」、この書き込みがあったのは3月だった。その時に少なくとも私を含めて三人の男は間髪入れずに動いた。最後の一人はチャットパートナーの顔を見た感じで、何も語らずに10ユーロ程を投げて行った。惚れ惚れした。

今更またこんなことを繰り返し言及するのか、なぜならば日本では性を商業化し乍お立ち台に立って身体を触れたとかでその反応に議論が起きているからだ。このような例はまさしく性が商業化されている事であり、セックスチャットでも起こっていることと全く変わらないからである。

なるほどそこではノンヌードとかのジャンルもあり、なに一つ強制されていないが、少なくとも金銭を払っているカスタマーは何らかを希望する資格はある。しかし、上の様な民族的なヘイトは許されない。なぜならばそこは世界中の人種や性別を越えての性的な自己主張がなされる場であって、それが商業化されているからである。

要するに建前上は誰にも強制されないで自身の性の経済的な価値を計れることになっている。しかし実際上は商業的な構造が出来ていてその中で軋轢が生じているのでロシアンマフィアと戦うという姿勢を個人的には表明せざるを得なかった。それでも一般的にはさもなければ売春しなければいけないような状況よりもマシではないかと思われる場合が多い。それだけでそうした世界的な機構の価値が認められる。

先に書いたように古典的な女性運動以上にLGBTへの認識はその性を自身の手に戻すということでしかない。そこには社会的なカテゴリーも制約も存在しない、そこにあるのは人権の基礎にあるアイデンティティーの尊重である。

何故に軽微な身体的な接触などが親告罪であってその基本は民事的な問題であるか。なぜならば何ものも肉体的な制約を受けるべきではなく、社会的にもそこに抵抗権が認められているということに過ぎない。自身の身体を社会的な制約の中に置くということが誤りだからこそ上の様な商業的な性の価値が合法的に築かれているのである。

日本では全てが為政者によって制限されることを殆どの市民が望んでいるようで、こうして恐らく八割以上の日本の市民は基本的な人権には無関係に生活しているのである。そういう素朴な市民が民主主義的な社会を構築するのはとても難しい。

日曜日の夜半にNHKで放送される復活祭での「影の無い女」の性は百年以上前の欧州でのその扱いであった。要するに古い社会的な概念でのそれが世界大戦での人口減少問題と堕胎でのせめぎ合って揺るぎ、どうしてもその社会的なそしてそのモラルをもう一度考えざるを得なかった背景がある。

そうした背景を今日の我々が改めて私達の問題として受け留められない事には、こうした大掛かりな制作を多大な資金と労力をかけて再創造していく価値などはないのである。百年以上前の楽劇という舞台音楽作品を上演する価値があるのかないのかはそのもの私達聴衆に何を働きかけるかどうかのみに掛っている。我々の身体の制約に抗う契機にならないようでは上演するにあたらない。



参照:
LGBT的多様性の色合い 2023-08-03 | 雑感
記憶に残る三月の前半 2023-03-12 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする