レーガ―作曲「モーツァルトの主題による変奏曲」(1914年)を真面目に聴いた。そのLPはテレフンケンレーベルの二枚組ボックスの1968年盤である。都合同種の変奏曲が二曲にバレー組曲が入っていて、最後のカペルマイスターと称されたカイルベルトが手兵のハムブルクの座付き楽団とバムベルクの交響楽団を振っている。
以前からこの録音しか知らなかったのでこういう曲だと思っていたら、全然違うようで、少なくとも作品132のそれは可也動機の扱い方など面倒なことになっている。それが分かると同時にこの指揮者は名歌手のブリギッテ・ニルソンなどに言わせると、カラヤンなどよりも遙かに能力があって、クナッパーツブッシュのようなふらついた爺ではない立派な指揮者となる。
しかし、この録音を詳しく聴くと全く楽譜が読めていない。演奏させるだけの技がなかたっというよりも楽譜からあるべき音楽の構図が読み出せていない。恐らくこの指揮者にとっては各変奏の調性の変化ぐらいにオリエンティーリングしていたのだろう。カペルマイスターとは楽長さんのことを指すのだが、まさしくそれ以上の見識はないということだ。
そこでペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーが何処迄読み込んでその動機の逆行形などをどのように見事に演奏するのかが想定できるようになる。またしてもこの楽曲においても歴史上はじめてその真価に光が当たることになるだろう。同様の事象はコロナ期間中のヒンデミート作「ヴェーバーの主題による変容」における決定的な演奏にもあった。彼の曲に比較して今回のモーツァルトのピアノソナタイ長調K331 の一楽章と馴染みのある主題が使われている。しかし、パロディーのようなヒンデミ-トの変容とは異なって生真面目に可也エグイ変奏が為されている。そして六拍子のそれがペトレンコ指揮で徹底的に再現されるのは想定外である。
1914年のその時にはシュトラウスには構想はあって作曲を始めて戦後に初演されることになるのが「影の無い女」である。NHKで放映されるものの多くは最後の三回目の公演だと思った。少なくとも二幕を聴いた限り、乳母役のシュスターが二回目には一人で歌ったようなもので名唱だったのだ。理由は染物屋の女房役が調子が悪く歌だけが袖で歌われていたからだ。ミナリザ・ヴェレーラの初日の歌は凄まじく、真ん中を休んで最後に合わして来ていた。今回の歌手陣の中で最も注目された歌手で、今後この歌手無くしては楽劇はならなくなる存在であろう。
皇后のエルザ・へ―ファ―の歌は絶賛されて、ヴァルキューレが謳うコロラテューラと書かれたのは、通常はありえない高い音でのギャラントな技巧と力強い歌声を兼ね備えていて、ライヴで接する迄はその体格とも想像がつかなかった。
その皇后とこれまた上背はなくとも重量級であり乍ら上にも声の出るクレイ・ヒリィーの皇帝と一緒に踊らせるという演出でまさしくこの楽劇の重量感を象徴していた。二人共舞台人としてとても勝れた人材であるのを感じさせた。
繋げられている喝采の部分は他日のものが繋がれているようで、それなりの編集はなされている様なのだが、是非これもハイレゾ配信を待ちたいところである。これは売れそうなのでブルーレイも発売されるかもしれない。そして日本での引っ越し公演は?
参照:
男を求めるスラヴ女へ抗う 2023-08-20 | マスメディア批評
原罪のエクスタシー 2023-04-16 | 文化一般
以前からこの録音しか知らなかったのでこういう曲だと思っていたら、全然違うようで、少なくとも作品132のそれは可也動機の扱い方など面倒なことになっている。それが分かると同時にこの指揮者は名歌手のブリギッテ・ニルソンなどに言わせると、カラヤンなどよりも遙かに能力があって、クナッパーツブッシュのようなふらついた爺ではない立派な指揮者となる。
しかし、この録音を詳しく聴くと全く楽譜が読めていない。演奏させるだけの技がなかたっというよりも楽譜からあるべき音楽の構図が読み出せていない。恐らくこの指揮者にとっては各変奏の調性の変化ぐらいにオリエンティーリングしていたのだろう。カペルマイスターとは楽長さんのことを指すのだが、まさしくそれ以上の見識はないということだ。
そこでペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーが何処迄読み込んでその動機の逆行形などをどのように見事に演奏するのかが想定できるようになる。またしてもこの楽曲においても歴史上はじめてその真価に光が当たることになるだろう。同様の事象はコロナ期間中のヒンデミート作「ヴェーバーの主題による変容」における決定的な演奏にもあった。彼の曲に比較して今回のモーツァルトのピアノソナタイ長調K331 の一楽章と馴染みのある主題が使われている。しかし、パロディーのようなヒンデミ-トの変容とは異なって生真面目に可也エグイ変奏が為されている。そして六拍子のそれがペトレンコ指揮で徹底的に再現されるのは想定外である。
1914年のその時にはシュトラウスには構想はあって作曲を始めて戦後に初演されることになるのが「影の無い女」である。NHKで放映されるものの多くは最後の三回目の公演だと思った。少なくとも二幕を聴いた限り、乳母役のシュスターが二回目には一人で歌ったようなもので名唱だったのだ。理由は染物屋の女房役が調子が悪く歌だけが袖で歌われていたからだ。ミナリザ・ヴェレーラの初日の歌は凄まじく、真ん中を休んで最後に合わして来ていた。今回の歌手陣の中で最も注目された歌手で、今後この歌手無くしては楽劇はならなくなる存在であろう。
皇后のエルザ・へ―ファ―の歌は絶賛されて、ヴァルキューレが謳うコロラテューラと書かれたのは、通常はありえない高い音でのギャラントな技巧と力強い歌声を兼ね備えていて、ライヴで接する迄はその体格とも想像がつかなかった。
その皇后とこれまた上背はなくとも重量級であり乍ら上にも声の出るクレイ・ヒリィーの皇帝と一緒に踊らせるという演出でまさしくこの楽劇の重量感を象徴していた。二人共舞台人としてとても勝れた人材であるのを感じさせた。
繋げられている喝采の部分は他日のものが繋がれているようで、それなりの編集はなされている様なのだが、是非これもハイレゾ配信を待ちたいところである。これは売れそうなのでブルーレイも発売されるかもしれない。そして日本での引っ越し公演は?
参照:
男を求めるスラヴ女へ抗う 2023-08-20 | マスメディア批評
原罪のエクスタシー 2023-04-16 | 文化一般