Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

時代遅れの安定成長感

2023-08-17 | 文化一般
ヴェルナー・ヘンツェ作「メデュサの筏」のヴィデオを流した。オランダでの上演の映像で、オラトリオでありながら演出をカステルッチが行っている。通常の奈落で演奏して、舞台の上の紗に映される映像とその奥での動き、そして主人公に、語り手、そして女性が登場人物である。

予想以上に漂流の場面が多くそのあとのカニヴァリズムなどはテキストで表されている。その音楽がやはり重要で、上の制作では音楽的な雄弁さはなかった。これが第一印象である。

音楽的ドラマに欠けるのは全て指揮者の責任で、主役のスコーフスは、昨年五月での「ブルートハウス」での活躍通りにここでも素晴らしい歌を披露していただけに残念だ。なによりも全体の繋がりやその位置づけが見えない演奏ではどうしようもない。指揮者のメッツマッハ―は、先日のザルツブルクでのマールターラー演出「ファルスタッフ」でも木偶の棒だったようなのだが、ヴィーナーフィルハーモニカーともマールターラーとも仕事をしているということでの適任だったのだろう。調べるとモルティエの下で音楽監督をしていたということもあるようだが、博士の遺稿集には一か所だけ数人の指揮者クレンツィスやヘンゲルブロックと並んで挙がっている。

つまり劇を展開する為の舞台の演出に対応して指揮が出来るということらしいが、今まで少し聴いた「アシジの聖フランシスコ」などの録音では信じがたい。そもそもフランクフルトのアンサムブルモデルンと称するその名の通りモダーンな音楽を奏でる専門団体から始めた指揮者であり、その楽団が当時の無機的な響きを求めた団体として一時期活躍したそのものの、音楽を、その老人化した団体同様にこの指揮者もそれを繰り返している。丁度演出で言えばコンヴィチニ―とかの仕事同様に冷戦末期の安定成長の趣きがあって、そのイデオロギーと共にとても時代遅れ感が甚だしい。

しかし同時に興味深いのは、まさしく68年時代のこの左翼作曲家の仕事とそれがどの様に今日受け取られるかということにとても関係しているということでもある。楽譜も何も見ずに、モニターのスピーカーで流しただけであるが、まだまだ読み込まれていないところがあったと感じた。要するに経過がないのである。

メッツマッハ―の指揮は、アンサムブルモデルン以外では一度フランクフルトで、ザルツブルクでの大成功から引き上げて来たマーラーの交響曲6番を老齢のギーレンに代わって指揮した時に聴いたが、その時の記憶と符合する面が浮かぶ。兎に角局面局面は明晰に音にするのだが、経過がないという時間がない芸術のような趣だ。なぜか若干カンブレランにも似ている。

上の場合はドイツ語歌唱であり、その点は流石に上手に抑えていると思ったのだが、言うなれば、それが劇的なドラマテュルギーになるような音楽作りが出来ていないのである。要するに楽譜から作品の全体像が音楽的に読み取れていないということに尽きる。



参照:
高度な音楽劇場の背景 2023-08-15 | 文化一般
純愛を習ったのは君から 2023-03-15 | 女
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