スカラ座訪問。先ずは駐車場からだ。無料ナヴィを使っていたが、旧市街は以前滞在していた時には絶対入らないようなところまで導かれた。進入規制で、ネットで調べていなかったら入れなかったと思う。表記が読み切れないからだ。次回も電気自動車として問題はない筈だ。そこで、実はもう一角先の駐車場をナヴィに入れていたが、より近くに見つかった。今調べてみると確かにリストから落ちているサイトがある。理由は分からないが絶好の場所で、前回も使っていないと思う。隣にテチ―ノの自宅から当夜の出演者が停めたことでそれ以上の証はないだろう。然し駐車してから場所を確かめるために地上に出てGPSを機能させた。
19時開演で、オックス男爵は16時30分に入って来たので私より丁度30分後に入庫だった。因みに出庫が23時32分だったので、26,50ユーロの料金もミュンヘンと比較しても妥当である。劇場まで250メートルほどで徒歩3分ほどだった。雨雪でもなんとかなる距離。
早めに入り口で待っていたものだから偶然に隣に座ることになるミュンヘンからの女性に顔を見られていたのだ。ドイツからの客は十分な数が確認できた。まさしくスカラ座における独墺オペラの需要はやはりドイツ語圏からの訪問者によっても支えられている面があるだろう。勿論指揮者ペトレンコのおかあさんも中央のローゲに招待されていたようだ。
目前には小さなモニターが所狭しと設置されている。そこで言語を選べる様になっている。初めて使ったが、ドイツ語を確認するには見難い。イタリア人がイタリア語を見ていても意味はない。なぜならばドイツ語の語感と歌の内容が結びつかないからだ。その点、二か国語でテロップが上に出ている方が便利なことが多い。私でも英語でコンテクストを再確認することもある。
このことに言及したのは、ミラノで10回目の「ばらの騎士」新制作だったようで、作曲家自作自演の1928年、カラヤン指揮演出の1952年、ベーム指揮の1961年、1976年のクライバー指揮シェンク演出、2016年のメータ指揮の今回のクッパ―演出で出色の出来となった理由であり、それがグロイスベック氏が語った意味だと分かった。この歴史的な背景が分かっていたらそのことを質していた。メータ指揮に瑕疵があったとは言わないが今回のペトレンコ指揮は明らかに一線を画していた。
隣のおばさんは、ミュンヘンで2017年2月11日のペトレンコのお誕生日のそれを観ていた。その上演回を質して分かったのだ。少しオタク罹っているが仕方がない。この話しが出るのは勿論今回の演出と比較してペトレンコ指揮の音楽が更によいかどうかが問われていたからだ。
結論からすると、当初の想定通りクッパ―演出の科学的な作業はこの楽劇の真価を明確にしていた。だからこそ今回のような指揮が出来たのはミュンヘンの聴衆も皆認めるだろう。それはシェンク演出が「少しお芝居がかって」というおばさんの言葉に分かるように内容の真価からは遥かに遠い演出でしかなかったからだ。
蛇足だが、クライバー指揮は素晴らしくても、音楽的な内容はカラヤン指揮のそれからそれ程には上まることはなかった。なぜならばそれはシェンク演出公演の限界であり、恐らく本人の指揮のあり方がその域を出るものではなかったことは明らかだったからでもある。(続く)
参照:
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
持ち交わす共感のありか 2024-10-14 | アウトドーア・環境
19時開演で、オックス男爵は16時30分に入って来たので私より丁度30分後に入庫だった。因みに出庫が23時32分だったので、26,50ユーロの料金もミュンヘンと比較しても妥当である。劇場まで250メートルほどで徒歩3分ほどだった。雨雪でもなんとかなる距離。
早めに入り口で待っていたものだから偶然に隣に座ることになるミュンヘンからの女性に顔を見られていたのだ。ドイツからの客は十分な数が確認できた。まさしくスカラ座における独墺オペラの需要はやはりドイツ語圏からの訪問者によっても支えられている面があるだろう。勿論指揮者ペトレンコのおかあさんも中央のローゲに招待されていたようだ。
目前には小さなモニターが所狭しと設置されている。そこで言語を選べる様になっている。初めて使ったが、ドイツ語を確認するには見難い。イタリア人がイタリア語を見ていても意味はない。なぜならばドイツ語の語感と歌の内容が結びつかないからだ。その点、二か国語でテロップが上に出ている方が便利なことが多い。私でも英語でコンテクストを再確認することもある。
このことに言及したのは、ミラノで10回目の「ばらの騎士」新制作だったようで、作曲家自作自演の1928年、カラヤン指揮演出の1952年、ベーム指揮の1961年、1976年のクライバー指揮シェンク演出、2016年のメータ指揮の今回のクッパ―演出で出色の出来となった理由であり、それがグロイスベック氏が語った意味だと分かった。この歴史的な背景が分かっていたらそのことを質していた。メータ指揮に瑕疵があったとは言わないが今回のペトレンコ指揮は明らかに一線を画していた。
隣のおばさんは、ミュンヘンで2017年2月11日のペトレンコのお誕生日のそれを観ていた。その上演回を質して分かったのだ。少しオタク罹っているが仕方がない。この話しが出るのは勿論今回の演出と比較してペトレンコ指揮の音楽が更によいかどうかが問われていたからだ。
結論からすると、当初の想定通りクッパ―演出の科学的な作業はこの楽劇の真価を明確にしていた。だからこそ今回のような指揮が出来たのはミュンヘンの聴衆も皆認めるだろう。それはシェンク演出が「少しお芝居がかって」というおばさんの言葉に分かるように内容の真価からは遥かに遠い演出でしかなかったからだ。
蛇足だが、クライバー指揮は素晴らしくても、音楽的な内容はカラヤン指揮のそれからそれ程には上まることはなかった。なぜならばそれはシェンク演出公演の限界であり、恐らく本人の指揮のあり方がその域を出るものではなかったことは明らかだったからでもある。(続く)
参照:
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
持ち交わす共感のありか 2024-10-14 | アウトドーア・環境