Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

奇想曲の深い苦み

2024-10-04 | 
承前)マルティヌーを聴くのが今回の狙いであった。なぜならば六曲も交響曲が存在してもその手本となるルッセルなどと同様にそれ程演奏されることがない。後年はバーゼルに在住していたようだが、そこのパウルザッハー財団の関係で知られるぐらいである。

その意味からも取り分け指揮者フルサの功績は大きく、作曲家の故郷での師匠でもあったスークの作品での指揮と並んで、十八番とされるものだろう。そもそもマルティヌーがパリに移動するのも故郷でのスメタナなどの影響からの逃避とされている。しかし同時に同地の六人組やそして所謂ネオクラシズムとは異なる作風として交響曲も存在している。少なくとも今回のアメリカ亡命中にノルマンディー上陸を受けての創作とされるその曲においても明らかに動機の繰り返しや重ね方によるミニマルな書法が、そして最も肝心なチェコのフレージングによって為されるところだろう。

そしてそれには直接は関係ないのだが三楽章におけるヴィオラ群のアリアが、第一ヴァイオリンの後ろから響いて、独特の楽器配置の効果を発揮する ― 反対にコントラバスとチェロの前に反対方向に向けられた第二ヴァイオリン群の音響的、音楽的な弱さはこの楽団の特徴にさえなっている。言葉を換えるとチェロ、ヴィオラ、第一ヴァイオリンにおける連携ともなる。

そこで、最も音楽表現となるのはそのアーティキュレーションであり、若干呟くようなその語尾の語感が第二ヴァイオリンに引き継がれているような感じもした。明らかにスメタナの曲などとは異なる語感に溢れている。楽器のミニマル的な受け渡しも重要となる。そしてスークの義理の父親であったドヴォルジャークのレクイエムの動機が使われて、英雄交響曲の様に動機が展開する。

そして通常はアンコールに演奏されるドヴォザーク作曲「カプリチオーソ風スケルツォ」は指揮者に言わせるとあまり演奏されない重要な曲となる。個人的にもメータ指揮イスラエルフィルの日本公演で聴いた記憶があり、勿論アンコールである。しかし今回は一夜の三曲目の最後に持って来た。交響曲七番を書いた時期の作品で14分ほどの小曲乍ら、母親を亡くした翌年の作品である。

アンコールでこの曲が何度演奏されてもその本質は分からない。ドヴォルジャークの多くの曲にある吹奏楽などの機会音楽的な通俗性が、年上のブラームスによってジムロック出版社でのデビューまでに養われていた。そしてこの曲によってもその心情が匠に描かれている。三部形式のロンドながらあまりにもの対照的な動機の扱いからその垣間見える風景はとても渋い。まさしくこういう曲のイントネーションのつけ方、そしてアーティキュレーションこそはチェコ語でなければ通じないようだ。お見事というしかない。

そして今回の一夜のプログラムにブラームス作曲ドッペルコンツェルトを最初にもって来た。そのドッペルコンツェルトこそはマルティヌー作のコンツェルトグロッソに通じるものであり、まさしく歴史的なエポックを垂直に眺めている。

ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーが七番交響曲を米国ツアーで演奏するのもそしてスークのルネッサンスへと取り上げて来ていたのも決して偶然ではない。それは時代が欲しているものである。(続く



参照:
複雑系の大波をサーフィン 2024-05-31 | 生活
反面教師的大名演 2024-08-04 | 音
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