Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

形而上への一瞬の間隙

2024-10-27 | 
承前)三幕後半からフィナーレをどのようにジャーナルするかとても梃子摺っている。そこが今回の公演でのハイライトだったからだ。同じようにそこでも成功していたカラヤン指揮の映像をミラノまで持って行ったにも拘らず今漸く摘まみ食いをしている。成功していた理由は明らかで全体の流れを19世紀の楽劇風に山を作っていたからだ。

序にミュンヘンでの新しい演出の映像も観るが、指揮が何一つ描けていない。時計が強調されてもそこにあるのはトリオにおいても各々の時の流れが明白でない。それはなにも今回のミラノでのペトレンコ指揮がそこで取り分け分離したような明晰さを要求したからではない。寧ろそこはミュンヘンでの古い演出で振った時の方が明確であったろう。

その問題を論文などに目を通すと、時の音楽芸術としての評価に関わるようだ。今回の公演でそこが上手く行くと確信したのは実はカラヤン指揮ではクライマックスに持ってきていた二幕のタイトルロールのばらの騎士が登場する場面である。カラヤンは前後をあまりに整えて最高のマニエーレンで指揮している。なるほどそれは銀で作られ香りのついた薔薇のロココの人工性が表現されるのだが、ペトレンコ指揮の場合は時が止まる時間性をそこに集中させた。演出の骨子であったことも間違いなく、そのような形而上の世界はシェンクの演出では描かれる空間すらなかった。

言葉を換えると非連続性であったりカタストロフの則ち深淵がそこに開く。永遠性こそはフィナーレでの最後の歌詞である。夢か現かの問いかけがこの作品のモットーであった。二幕での一瞬の閃きはフィナーレにおいては、マルシャリンの逡巡にそして有名な台詞Ja,Jaに発生する。

カラヤン指揮で大成功したシュヴァルツコップに言わせると「世界の痛みがそこに」となる様で、ベルリンで成功した演出家ハラーは若い人の好きなようにのようで、実際にベルリンでの演出もマルシャリンの突き放したような演技になっている。それを含めてマルシャリンは諦観を表す存在だと今迄思い込んでいて、それは一幕での経年での加齢に表れる不可逆の条理に対する諦観であると思っていた。

然し今回の演出と指揮は明らかに二幕のそれ以上に形而上への呟きとなっていた。それは前後のテムピ設定のみならずまさにアーティキュレションの見事さで、時の流れの間隙としていたのは間違いない。

歌手のストロヤノーヴァの場を作る存在感は圧倒的なのだが、それは細かな演技指導の賜物であり、それ以上にペトレンコ指揮における微細な棒捌きの音楽的な成果以外の何物でもなかった。彼が世紀の指揮者であることはこの十年間でそれに疑念を持つことは一度もなかったのだが、今回の様に音楽劇場の指揮者としての洞察力で演出に則ってこれだけの深淵を刹那を表出させたことは未だ嘗てなかった。音楽劇場指揮者として超一流であること確認した一瞬であった。まさにこの楽劇が現在も公演される芸術的価値がそこにしかなかったことを認識させた。(続く



参照:
百年祭記念の映像制作品 2021-02-25 | 音
二十箇月の感傷旅行 2024-10-26 | 女
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