Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

羽根の生えた軽やかさ

2024-10-16 | 
承前)ミュンヘンでのペトレンコ指揮「ばらの騎士」は必ずしも大成功していなかった。その理由は2017年の評に書いてある。そのシェンクの演出に問題があったことは余りにも明白だった。そして読み返して意外に思ったのはあの時でもまだミュンヘンの座付きは克服していなかった。

先ず今回のスカラ座の楽団は、管の色合いが異なり、全てにおいて色彩的であったことだ。これはミュンヘンの影を認識させる響きとは全然異なり、ヴィーナーの倍音成分の多い響きとも異なり、なによりも明るい。

管はもとより弦の奏法が異なるのは、今回ソロを弾いていたドイツで学んだアバドチルドレンのスカラ座二代目の友人のその演奏でも馴染みなものであり、特に一幕における叙唱風の沢山の短縮化されない歌詞へのつけ方で大きな意味を示した。

たとえミュンヘンの楽団がどんなにペトレンコ指揮で統制されていてもあのような弓使いの軽やかさはその伝統的な特徴からは離れる。それを軽やかに羽が生えたようになりながらもしっかりとリズムも刻みそして何よりも声に寄り添う能力はヴィーンの劇場では到底叶わないものだった。

こうしたアンサムブルはなるほどアバド指揮のロッシーニで聴いたものであり、現在のシェフのシャイーのそのトレーナー能力のお陰であることは全く同じなのだ。もしかするとペトレンコ自身も今こそアバドの跡を継いでの仕事が出来ると考えているのかもしれない。

同時にスカラ座からこうした嘗てクライバー指揮で経験したようなダイナミックで力動感溢れ大きく波打つ音楽はシャイー指揮では到底不可能なもので、トレーナー指揮者であることを確認させてくれる。ある意味それ程現在の状況があの当時の全盛期を超えているかもしれない。それ程真面に振れる指揮者が登壇してなかったということだ。

なるほど今回の公演最後の拍手においてもとても大きな成果を上げていたオックス役第一人者のグロイスベェックの歌唱に対して少なからずにブーも混じっていた背景がそこにある。ミュンヘンなら大喝采で終えていた、恐らく最も喝采を受けた筈のその歌唱も、イタリアにおいてはジャンニスキッキのマエストリのようなベルカントの声を望んでいるのだろう。

映像等では確認していたのだがマルシャリンを歌ったストヤノーヴァにはダイナミックスが欠けていたと思うのだが、一つには演出と指揮者の制御も効いていた可能性がある。それゆえに明らかにクライマックスは最終幕にもってこられ、シェンク演出のドラマテュルギー上の問題が明らかにされる。

こうなるとどうしてもベルリンでのメータ指揮のニールントの歌唱と比較して、技術的にもそれゆえに独語歌唱も優れているのだが、明らかに劇場の大きなミュンヘンではやはり厳しいだろう。その分より精査な歌唱と上演となった。(続く
Der Rosenkavalier - Trailer (Teatro alla Scala)




参照:
持ち交わす共感のありか 2024-10-14 | アウトドーア・環境
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
コメント
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