Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

移り変わる刷り込み

2024-10-23 | 
承前)ペトレンコ指揮のその効果はトレイラーの音楽だけでも分かる。メータ指揮の時は三幕フィナーレのトリオの部分が使われていた。そこのテムポや音楽づくりがペトレンコ指揮での骨頂だった。然し今回は冒頭の寝台のホルンの部分が使われていた。そこは20世紀後半のクライバー指揮で有名なところだった。勿論それを聴くと全く狙いが違うことが推測されるだろう。如何にこの楽劇の本質が理解されずに100年以上経ったのかがそこに彼のオットーシェンク演出と共に反面教師としてクライバー指揮が記録されることになった。あの演奏では到底フィナーレ迄の創作のコンセプトが示せなかった。
ペトレンコ指揮のトレイラーDer Rosenkavalier - Trailer (Teatro alla Scala)

メータ指揮のトレイラーDer Rosenkavalier - Trailer (Teatro alla Scala)


その如何にレヴュー劇にならずに指揮出来るかを今まで誰も克服できなかった。作曲家自身もドレスデンの初演からあれだけ成功してしまうと最早不可抗力でしかなかっただろう。そうしたエンタメ感覚は、今迄経験した白黒映画から何回もの公演での経験からも抜け出せなかった。

ペトレンコ指揮のミュンヘンでの公演もあの演出ではフィナーレへと月並みな認識の刷り込むから抜け出させるものではなく、寧ろそうした先入観念から効果を上げる演奏を不可能にしていた。明らかに演出がその心理を表現するには大まかで、恐らくト書きにそこまでの指針を示せなかったのであった。

恐らくその背景にはこの楽劇が、マリアテレージア時代を舞台にしながらその百年後の世界を描いているという、モーツァルトのオペラのパロディーであったという構想自体にあったのだろう。要するに楽劇とは為されているのだが、次の作品の「ナクソスのアリアドネ」に見られる楽屋落ちのように音楽劇場構造を明白に出来なかった成功の裏の失敗があたっと見做すことが出来よう。

それを音楽的に細やかに引き出すことが不可能だったことがある反面、それはなにも楽譜上での細部を音化するというような単純な処方箋ではなくてというのが批評にもあった真意である。それは三幕の一場での舞台裏での所謂バンダのサローン音楽が演奏されるところでもその意味が納得される筈だ。要するにこの楽劇がヴァ―クナー流の劇場を世界化する楽劇を超えたメタ楽劇であるという大きなメッセージにもなっている。

そのような楽劇の構造からベルリナーフィルハーモニカーが史上始めて演奏したラトル指揮でのそれが慣れないことが逆に月並みなイメージへとの収斂がなかったことで想定以上に成功していた。やはり劇場の慣れた楽団であればあるほどそうした刷り込みから抜けるのが難しいことか。

三幕でのオックス男爵は作られたコメディー役とは離れてその人物像を細やかに演じて歌うことによって、そのややもするとスラプスティックな景となりがちなのだが、どこにマルシャリンが登場して、フィナーレへと導いていくように、劇的にもとても効果的であり、観衆の心理やその視座を定めるに取り分け重要な場面であることを今回の舞台とそしてその奈落と舞台裏の音楽が効果満点に伝えていた。今回の様にフィナーレへと定まっていく公演は未だ嘗てなかったであろう。(続く



参照:
苦労して獲得するもの 2015-03-30 | 音
テレージア公に抱かれる 2024-10-22 | 文化一般
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