Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

娘ゾフィーの音色

2024-10-19 | 
承前)一幕では最終景があったのでマルシャリンがカーテンコールに出て来た。出来は十分で妥当な拍手があった。それでもそこに大きな山がある演出ではなかった。少なくともペトレンコの指揮においても幕切れはミュンヘンの演出に比較すればすんなりと流された。

同様な状況は最初のファーニナル家の状況や娘などの期待やそのハレの感じがザルツブルクの映像に観られるように丁寧にマリッジブルーまでが綺麗に描かれる。それが銀の薔薇を持った婚姻の使者オクタヴィアンの登場へと導かれる。

聴きどころでもあるのだが、やはり今回ゾフィー役のデビューとなったサビーヌ・デュヴィエルの歌が注目された。なによりも地声も素晴らしいフランス人で、歌唱も透明なコルラテューラを素晴らしく歌い、ここ数年のこの役の歌唱としては秀逸だったのではなかろうか。どうしてもその役柄の見栄えと歌から若い歌手が歌うことが多く、技術的に歌唱の卓越にも至らない場合が多いからだ。それは演出が細やかに為されていて、本来の歌詞の意味とそして何より音楽が正しく演奏されているということに他ならない。

何故ミュンヘンでは新しい演出によって十八番のシュトラウスの楽劇が再生ィーンなどでは観光客狙いに宝塚のようなレヴュー以上にはならないシェンク演出が残されているかという意味の本質である。その分その続きにじっくりとした情景が続いているのだが、残念ながら上手が見えない席だったので仕方がない。

隣のミュンヘンからのおばさんも全く同じ考えで何度も来るようだったが、その都度向きを変えると話していた。勿論キャンセルの可能性も考えて安くていい席を選んだというのも全く同じだった。しかし何よりも天井桟敷こそがブラヴィーもブーも掛る通の場所で、明らかに主のような人が陣取っていた。

さて個人的には一幕から二幕へと独語歌唱としても立派なものが割愛されない歌詞から浮かび上がってきたのだが、その点においてはやはりこのゾフィーでは明らかに物足りなかった。ミュンヘンなどで歌うならばもう一息の指導が必要だろう。隣のおばさんはザルツブルクでピション指揮で素晴らしいヘンデルを聴いたということで、ピション指揮バッハのフランクフルトでの評価も伝えておいた。

そしてオックスとオクタヴィアンの果し合いから最終景のオックスのヴィーナーヴァルツァーとなる。ここでヴィーナーフィルハーモニカーよりも本物の演奏をすると楽団はないと思っても仕方がないのだが、ヴィーナーシュニッツェルならずコトレットアラミラネーズの差異はとなる。

確かにヴァルツァーにおいてもそのアウフタクトに間を置く必要があったのが見られた。なるほどそれは致し方がないのだなと感じさせるところで、ミラノではカリッとしたシュニッツェルは食せないだろうと思わせる。

然しそれもこの創作の中でヴァルツァー自体がパロディーの衣装として扱われている以上何もそうした間が必ずしも否定的にならないのではないか。(続く
Der Rosenkavalier - Interview with Krassimira Stoyanova - Günther Groissböck (Teatro alla Scala)




参照:
持ち交わす共感のありか 2024-10-14 | アウトドーア・環境
再演「ばらの騎士」初日へ 2024-10-11 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする