Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

直行座標系逸脱の刹那

2024-10-29 | 
承前)刹那、仏教用語で最も短い時間の単位とされる一瞬である。この楽劇では一幕の三部にマルシャリンの言葉として時が語られて、「その中では何も変わらず気が付かない」と歌う。ここで鏡を見てとかのト書き通りの舞台となるので、その時13回チェレスタとハープが刻まれて、その台詞へと舞台が変わっていく。

ホフマンスタールのそのテキスト自体が風通しよく解釈を許すものであるとして、シュトラウスのそれでよいのかと疑問を呈していたのがミュンヘン在住のマンであったという論文がある。そこで興味深いのは、「魔の山」の時間の進み方でありそこでのナレーションの在り方がオックスフォードの学者によって論じられている。

そこではあの長い文学作品での最初のあまりにも引き延ばされた時間感覚である。あまりにも長い。この先生も何回も読み始めてそして断念した口かと面白くなるのだが、とても重要なことを記述している。

つまりダヴォースのサナトリウムに着いたカストロフを語るナレーションの時間よりもそこで起こっている時間が逗留の経過に伴いどんどんと短くなってくるというのである。その一方で語られた時間は、読んだ人の脳においては刹那の時でしかなくなるという。それに対して音楽的ナレーションはその演奏されるなり楽譜化された時制となる。勿論それを破るセリアルの音楽となると所謂カーテジアンの座標系から逸脱する音楽表現が為される。

そうした美学的な考察からもどって、「魔の山」の創作時期とサナトリウムでのSPレコードの楽興の時が描かれている風景を思い出すことでその時代背景が実感できるかもしれない ー 大戦の塹壕の泥濘にシューベルト。余談ではあるが、クッパ―の演出においてはオックスと「魔の山」のサナトリウムでのペーパーコーンやマダムショウシャそしてマルシャリンなどが決して無関係でないことに気が付く。

刹那、それが今回のペトレンコの指揮で表出したそのトリックを探し出そうと、今回は封印していたオットー・シェンク演出を初演指揮したカルロス・クライバー指揮で1973年6月13日のライヴ放送録音からフィナーレを流してみた。週末まではHiFiでは音を流していなかったのだが、既にスカラ座でのそれは定着したと自信を持てたので漸くこうして比較試聴することが可能になったのである。

予想通りテムポも全く異なり、その基本姿勢は1963年のリハーサル似通っていたザルツブルクでのカラヤン指揮のそれを更に自由自在にしている。最後のデュオにおいてもクレッシェンドと共に加速してと、カラヤンのやり方と違う方向へとヴェクトルが向けられている。

カラヤン指揮以上に大成功したのはその活き活きとした音楽の進め方であり、響きはより色彩的に出ているので激しいものとなっている。典型的なのはオクタビアンを歌うファスベンダーのヴァ―クナーばりの歌い方であったり、現在からするとあまりにも時代がかったゾフィー役のポップの歌声である。マルシャリンのヤーヤ―もとんでもないニュアンスでしか発せられていない。抑々あの追い込むようなテムポで指揮者は何を表現したかったのかあまりにも不明でしかない。(続く



参照:
四半世紀を越える感興 2024-10-28 | 雑感
拙いシェンク演出よりも 2024-10-08 | 文化一般
コメント
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