Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

凍て付いた果汁の古木

2009-01-17 | ワイン
東ドイツのザーレの知り合いの醸造所の苦労話が載っている。冷害が出たら何かしてあげないといけないと考えている。たいした付き合いではないのだが、一度返礼にいかなければいけないと思っている小さな醸造所である。

甘口ドイツワイン愛飲者は、アイスヴァイン、アイスヴァインと叫ぶが、寒さは葡萄を壊滅させてしまう恐れがある冷害に他ならないようだ。

今や高級リースリングの産地として有名なモーゼルの支流ザール川の寒冷被害やそのあまり効を奏さない対抗策への徒労が、営林官という名の醸造所を経営するツィリケンさんによって語られる。ゼーリックとコンツの間で二十世紀当初からのプロイセンによる三つのドメーインではじめたブドウ栽培の苦労話である。

それでも、その霜被害に曝される土地でリースリング以外には殆ど可能性のない葡萄栽培の拡大にブレーキする事がなかったのが高度成長期の60,70年代だと言われる。そして、やってきたのが1978年から1979年にかけての大被害による大きなしっぺ返しである。

その葡萄の壊滅後に新種のリースリングが植えられて、ここ二十年ほどの温暖化の勢いで高級リースリングの産地として所望されるようになったのは知る通りである。ツィリケンさんの葡萄は百年にも至る古木もあるようだがアイスヴァインを収穫して、「古木も凍てついた果汁で元の鞘に収まる」と、零下十度ぐらいの寒さでは霜被害すら話題とはならない。

結局東独のザーレ川沿いやザクセンなどでは、ブラウエツヴィーゲルトなどが名産となっているので被害が出易いようだ。上の醸造所ではリースリングを中心に買いこんだ覚えがある。先ずは被害が拡大しないことを願いたい。しかし、それでいてアイスヴァインなどを売っている様子でなかなか強かな印象がある。

ハイデルベルクとダルムシュタットの間に伸びるベルクシュトラーセでは、質の良いアイスヴァインが収穫できたと大喜びである。



参照:
量から質向上への経済 [ マスメディア批評 ] / 2008-12-23
We do not sell wine..... [ マスメディア批評 ] / 2008-10-08
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べとべとしたミルク煮米

2009-01-16 | 生活
常用している米をいつものように炊いた。炊飯器のメモリを半分上げる水加減にした。炊飯器を態々使うようになったのは、鍋で炊くよりも現在購入の米が巧くぱさぱさと炊けるからだ。

なぜか粥のようになっていたので、残したままおいてある。それでもまた料理に合わして同じように炊いたのであった。なんと同じように粥になっていた。大変失望したが、理由は直ぐに分かった。先に炊いたのも決して水加減が間違っていた訳ではなく、米が変わっていたのであった。

要するに、ドイツでは最も廉価なミルク煮の米に変わっていたのである。知る限りこれをご飯とする日本人駐在者家庭が多い。嘗ては日本食にこれを使っていたこともあるが、あのべたべた感が口に合わなくなった。

価格は、少々上がったが未だ一番安い米である。水を減らして炊いてみようとは思うが、巧くぱさぱさとはしてくれないだろう。かといって、余分に支出してそのバスマッティーライスやタイ米を買うことは限られる。今後付け合わせの米食は減るかもしれない。
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ネット演奏会の幼児保育

2009-01-15 | 文化一般
ベルリンのフィルハーモニカーの生中継が始まったらしい。新聞によればドイツ、日本に続いてコロンビアのお客さんが多かったようだ。入場券ほどの料金を払って、コロンビアで人気があるのはなぜだろう。

五台のカメラを使って中継されているようで、十分なネット環境とグラフィックカードやスピーカーがあれば十分に視聴出来るらしい。しかし新聞は逆説的に書く。もしこうしてコンサート経験をしたネット世代の者が、実際に演奏に接して見るとあまりに迫力がないので驚きはしないかと、その反面視覚や聴覚を強制されない自由を体験出来るではないかと。

それに関連してとても興味深い感想をBLOG「日々雑録 または 魔法の竪琴」にて読んだ。要するに、耳あたり良い聴環境や、デジタル物理媒体とネット配信などに関する考察である。

一つにはデジタル化で、嘗てはエリートにしか体験出来なかったアナログのマスキングされた信号の中から必要な音楽情報を引き出し聴取することが万人に可能となった大衆化である。それによってなにが齎されたかの回答は丁度クラッシック音楽の世界普及の大衆化の結果に相当している。

上の記事においても指揮者フルトヴェングラーの場合が例として挙がっているが、昨年生誕百年であったフォン・カラヤンがグローバル大衆化を推進して、手厳しい批判を浴びたのはそこで失ったものが問題となったからである。元々その失われたものを知らないもしくは分からない大衆を相手に何を言っても始まらないとするのが、芸術家フルトヴェングラーの立場であり信条であった ― フルトヴェングラーの政治姿勢は批判されるべきであるが、聴衆を選ぶという姿勢は昨年引退したピアニスト、ブレンデルにおいても正しいのではないか。そうした固有文化に対するローカリズムは、こうしたネット発信のグローバリズムの中で今再び脚光を浴びるべきものであろう。

デジタルの圧縮技術が益々そうした簡素化へと導くことは、誰もが自ら画像ソフトで遊んで見れば分かるのではないだろうか。必要とされる情報を掘り出していくとき最終的にどのような単純明晰化が待ち受けているか。リンリン、ランラン、チンチンと幼児化の世界でしかありえない。

何かが強調される、受け手の個人差を出来る限り補うようにどんな馬鹿でも聴き落とさないように見落とさないようにと懇切丁寧に分かり易く提示される。上の新聞記事にても、こうしたネット配信で「なにかを見分けられる」人は経験豊富であることが前提になると。

その経験や知識は保留しておくとしても、そうしたネット配信から一体何を受け取ることが出来るのか?今回の聴視者数は全世界でたった二千五百人しか至らなかった。会場の客席数と変わらない。それが意味するものはなにだろう。今の所。高給取りの集団であるこの交響楽団自体の運営には問題はないようだが。

こうしたネット配信のあおりを受けてクラシックメディア業界はどうか。アルモニアミュンディの創始者ネルナール・クータは、フランスと英国でのネット売り上げ調査によるとクラシック部門ではたった二パーセントにしか至らないので今後とも物理メディアの需要は顕著であると語った。

やはり問題は、そのメディアの芸術的価値でしかないようだ。所詮、芸術音楽は大衆大量消費とは無縁の世界であるのだろう。



参照:
大脳辺縁系に伝わる記憶 [ 文化一般 ] / 2009-01-06
川下へと語り継ぐ文芸 [ 文学・思想 ] / 2007-01-21
引き出しに閉じる構造 [ 文学・思想 ] / 2007-01-11
半日の作業で得たもの  [ 音 ] / 2009-01-11 04
尋常ならない拘りの音 [ マスメディア批評 ] / 2009-01-14
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尋常ならない拘りの音

2009-01-14 | マスメディア批評
週末に何気なく新聞に目をやっていたら友人の名前が目に入った。通常は詳しくは見ない新譜批評なのだが、見出しに興味あると目を泳がす。そこで見つけたのが渡辺克也君の名前で、ドイツで知りあった知人でその後も付き合いがある数少ない友人の一人である。今回の記事には、若い日本のオーボイストで90年代初頭から主にドイツの楽団で演奏していると紹介してある。しかし当時は更に若く小澤の新日フィルのオーボイストであったのが肩書きであった以上に学生上がりの風貌に玄人風が入り混じっていた。私などは相変わらず初対面からワイン祭りに誘っていたようだ。

日刊紙を定期購読しているお蔭で、今まで関係する何人もの知人友人に、何度も掲載されている情報を逸早く知らせることが出来て、通常ならば気が付かないようなあまり関係のない記事や紙面でも捲ることによって目に入ってくるというネット購読にはない利点と有り難さを感じている。

今回もベルリンへと早速電話連絡しようとしたが、生憎旅行中だったようで、それでも明くる日には内容を知らせる事が出来た。FAZの新譜紹介は紙面も少ないので、プロモーション活動してもなかなか扱われるのが難しいのは周知の事で、扱われる以上は好意的に紹介される。当然の事ながら、正式には発売レーベルの身売りした旧オーナーであるヘンスラー氏の独自のプロフィル・ヘンスラーのレーベルから、この成果は示されるだろうが、先ずはその内容を知らせた。

そこでは二枚のオーボエのCD新譜が紹介されていて、一つ目にソニー・ブレッテルスマンリリースのフランス人奏者フランソワ・ルルーによるモーツァルトの編曲集が批評されていて、それに続いて二つ目にオーボエの有史以来の長い歴史の中で「二十世紀」の楽曲への役立つ探求の成果として批評される。

プラハのシューマンの同時代人カリヴォダ作曲のタイトル「サロンのおつまみ」に関わらず表面的な名技性とはならない曲と、通称「オーボエのパガニーニ」ことパスクリ作曲のお馴染みの曲「シチリアの夕べ祈りのテーマ」における漸増する波へと突入する名人技が評価されている。その一方、英国の作曲家でフィギュアスケートで金メダルのミシェル・クワンが用いた曲「ライラ・アンジェリカ」でお馴染みの作曲家ウイリアム・オールウィンや音詩人デュテューユの特有の音色や音楽表現方法を旨くこなしていると褒める。

一枚目のルルー演奏CDのプログラムよりも遥かに表現力の幅が広いとされ、なによりもその渡辺の音色はデュテューユのソナタにおいても、その痩せて厳しく、また金切り声の道化をもまったく憚らないとしている。これは一般的にどんな音楽家にも通じる「音が良い」と言う最大の褒め言葉であるが、「特別に彫塑的な音色」とは渡辺君にとってはこれ以上にない批評だろう。

こうしたソリストとしてのレパートリーから、またそのキャリアーからも分かるように演奏家として因襲的そのものなのだが、この演奏家の殆ど進歩的とも言える音色や楽器への拘りは、先入観無くなかなか注意深く聴きこんでいるらしい該当批評文の見出しとして「隠喩」されている。それはオーボエの音を評した逸話として、ここでも登場しているシューバルト氏の言葉から導かれている:

「純粋なオーボエの音は人声の卓越に近づく」

そして、この新譜紹介の副見出しとして、「オーボエ奏者は、とても新しいものか、幾らか古いものを演奏して、ロマンティックなオリジナル曲を演奏するのはむしろ稀である」と「直喩」する。ここでは、二曲だけしかロマンティックな時代の曲を演奏していなくて、それどころか委嘱曲も無いこのプログラムで態々「二十世紀の曲」として英国人の作曲家の曲までを扱っている。それでは、オリジナルなロマンティックな曲とは一体どういう意味なのか?

それは、古代から更にギリシャのアウロスとしての前身をもつダブルリードの楽器ながら、19世紀にはクラリネットなどに追い遣られたオーボエの楽曲を、19世紀に発達して来た音楽受容消費の枠組みで今日21世紀に演奏する行為やそのプログラムをも暗示していて、ここで最近頻繁に扱うドイツェ・ロマンティックと表裏一体をなしているものと考えて良いだろう。

そしてそれが、尋常ならない音色への拘りのもとに為されているのに気がついて、この評者であるコールハース女史も関心をもってそれを面白いと思ったのだろう。まさにそうした彫塑の仕方こそが日本的な芸術感覚だと感じたに違いない。



参照:
Reiner Ton, sich der Menschenstimme nähernd: Oboisten spielen entweder etwas ganz Neues oder etwas Altes – eher selten: Originalkompositionen der Romantik, Ellen Kohlhaas, FAZ vom 13.1.09
2005年シラー・イヤーに寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-01-17
大脳辺縁系に伝わる記憶 [ 文化一般 ] / 2009-01-06
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サウナに入って飲みたい

2009-01-13 | アウトドーア・環境
初めて寒いと思った。天気予報の数字は今まであまり信用ならなかったが、車の外気温計がガレージの中で零下となっていて、動き出すと零下摂氏7.5度まで直ぐに下がった。この地域で過去に一度だけ零下13度ほどを体験したが、雪の上に更に冷えてガスが乗る状態で、陽射しが指すようにってからも温度の変化はなかった。

散歩しながら、こういうときにこそヌーディストとなって歩き回らないと男らしくないと思いながらも、とても胸元を開く気持ちさえしなかった。氷河スキー場では、零下30度に至っているかとその寒気を思い出すと、やはり十五年ほど前は殆ど裸でそのような気象条件の中で思うようにならないスキー板と格闘していたのが懐かしい。今なら吹雪いている時は直ぐに降りて来てサウナにでも入って、いっぱい飲んでしまうような気がする。

流石にお店屋さんも不要不急の買物に出かける人は少なく空いていた。相変わらずワイン地所では着々と枝切りが進んでいて、心なしか昨年に比べるとヤル気のありそうな醸造所が増えてきている感じもあり、人手の手配の関係もあるだろうが、早く訪れるであろう春の芽吹きに備えている。

室内においてある植物もこの四週間ほどで葉の色が黄色くなっていたので、大分枝共に摘んだ。初めは水が足りないのか何か分からなかったのだが、今はその原因を確信している。
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天を仰ぐ山寨からの風景

2009-01-12 | 文化一般
サンサイと読むらしいが、そのサンツァイが中国で話題となっているらしい。いつものように、FAZにマルク・ジーモンスが現地から報告している。

ひと目見れば分かるように、中国の偽物類似ブランド特集サイトである。PumaならずPunk、Haagen-Bozs、Bucksstar Coffee、I-Eleven、Pazzah Huh、Sqny、Adidos、Adadas、KFG、Macconky、Macdonoalds、Kappo、K-Nalke、Ghanelなどなど。

新聞記事によると、そのサイトの名前が示す通り、山間に砦を築いて中央集権的な権力に対抗するのと、また自らを護る砦としての二重の意味合いがあるようだ。つまりこれらの類似品には、ある種のパロディーの意味合いも込められていて、そこに批判精神のみならず、中国人民の無制限な創造力の逞しさを示すと言う見解も紹介されている。

日本や韓国が歩んだ「習うよりも真似ろ」の経済文化プロセスは等しいが、中国は規模が違うとするのは正しいだろう。トヨタ自動車にしてもその長い企業の歴史からすれば、最近二十年ほどでやっと開発の体制が整ってきたと見るのが普通だろう。

日本のメディアなどは合衆国のやり方などを日本流に消化する事が創造的な仕事とされることからすれば、こうした中国人の肯定的を通り越した賛辞もそれほど分からないこともない。日本の企業の当事者からも、日本のターゲットとする市場に合わせた使い勝手やモディファイを何度と耳にした事だろう。

日本企業の場合はコピーする事でその原型をある意味越える商品を作り出してメードインジャパンとしたのだが、メードインチァイナはどのようなものになるのだろう。

そのような事を考えると、同じような事を中国人も口にするが、上に扱うような類似品とその評価はやはり異なる。西欧社会を含むエリートによる上からの文化の洗礼に対抗させるものとして、下からの文化としてまた民主主義の基礎と賛辞するとなると、そうした洒落や批判の精神とはやはり次元が異なる。

著作権やその隣接権などを考えると、こうした真似られる商品やブランド本来の価値が問題になる訳で、技術的な進展から中国製の携帯電話がそこの市場の三分の一を占めるようになったことなどに、大量生産消費品の「正統性自体の問題」である事に気が付く。品質やその市場に合わせた商品へのモディフィケーションとは一体何かとなる。

そうした過程を経て、原型に本来の価値がないものが淘汰されていくことは良しとするべきかもしれないが、そこから複製品の価値判断への考察が生じないことが中国三千年の歴史とは言え全く情けない。北京政府から距離の有る南中国におけるこうしたサブカルチャーの動きも日本におけるそれも似てはいるが、その差異が明白で、却って偽物を喜んで安く購入する大阪人などの特殊性が浮き彫りになる気がする。

やはりその相違は文化圏における政治社会的な構造の相違であって、そのもの世界観の相違がそこに表れているとするのが良いのだろう。



参照:
Mit Adodas zu Bucksstar Coffee, Von Mark Siemons, FAZ vom 10.01.09
山寨版 ― 
シャネル
オバマ歯磨き粉

自由の女神
ピューマ1
ピューマ2
ウルトラマン
レオナルド
アディダス1
アディダス2
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半日の作業で得たもの

2009-01-11 | 
夜中から明日のお昼過ぎまで半日以上掛かった。途中、就寝して二度の食事時を挟んだ作業で得たものは採り立てて言うものではないが、YOUTUBE以外にも数多くの動画サイトがある事を知った。

それらのサイトではより圧縮率の高い画像を使っていてそのために新たなコーデックスが必要となったのである。二つ三つの動画をダウンロードしただけであるが、新しいソフトを使うと従来のflvのデータも画面一杯に拡大して見れることができるようになったのはお徳な気がする。そして拡大しても画像が乱れないのは驚きである。

いづれにしても、ダウンロードしたものを置いておいてもそれほど観る訳ではないのだが、場所があれば保管しておきたいと思うだけのけちな根性なのである。

こうなるとどうしても観直してしまうのが指揮者フルトヴェングラー登場の国家社会主義ドイツ労働者党のプロパカンダフィルムである。それにしてもヴァーグナー作曲「ニュルンベルクの名歌手」のベルリンのAEG工場内での映像は完璧な出来である。

世界大戦の敗戦からある程度の期間を経て再軍備を契機に生産的となった思慮深い国民が、自らの歴史的な職人気質と誇りで以って物作りに励む強い意志が、こうした生産的でもありながら同時に歴史的な繋がりに必然と身を委ねることの出来る充実感に満ちているような熱気が巧く表現されている。継続する音楽文化の伝統の延長線に機能的であり職能ギルドである管弦楽団が自らも憑依したような指揮者の下、人々の各々の心に音楽の情動を以って語りかけるのである。誰がどんな文化的な批判で抵抗が出来ただろうか?出来るだろうか?これほど完成した音楽文化の威力を見せ付けられては、ただ頭を垂れるしかないのである。

ケント・ナガノが最近のインタヴューに答えて、合衆国とは異なりドイツではまだまだ音楽が社会的な関心事であるから、ミュンヘンの重要な機関に勤める前に充電期間を二年間取って社会や文化をそして最も重要な言語を猛勉強したと語っていた。「一人のバイエルン人」として、ミュンヘンで騒動を起こしたいとの意志を持っている。インタヴュアーの言うように「1954年のフルトヴェングラーの死を以って、指揮者が社会を体現する時代は終わった」と明示するのに対して、海をこよなく愛する家庭では日本語を使うこのスター指揮者は、個人の人格の中にそれを見出すのではなくて、正しく社会になにかを示すものだと考えているようである。

芸術の創作の質と同時に、卵が先か鶏が先かは判らないがそうした芸術を通じての社会とのコミュニケーションの仕方が変わって来ているとも言えなくもない。ネットに見つけた動画とその商品のコンセプトではないが、「ベルリンのフィルハーモニカーがナチを体現している」と言うよりも、ああした「演奏会の形態や管弦楽団の機能自体がそのコミュニケーション能力を伴ってファシズムの頂点にあって開花」したと考えた方が自然である。

それは音楽芸術の直裁的な効果であり、ヴィデオ整理をしながら、これまた完璧なトリノでの荒川静香のフィギュアスケートの回転の早さやその重心の移動を凝視しつつも、プッチーニの旋律の威力に感じ入ってしまうのである。

映像と音楽の関係が、ニュルンベルクのマイスタージンガーとトリノのマエストリーナにおいて共通しているものがあるのに気がついた。全く主旨も制作方法も異なる映像ではあるが。



参照:
The Reichsorchester - The Berlin Philharmonic and the Third Reich
Die Meistersinger in 1942,
Die Meistersinger in 1942/Nachrichten (YouTube)
大脳辺縁系に伝わる記憶 [ 文化一般 ] / 2009-01-06
感受性に依存する認知 [ 文化一般 ] / 2009-01-03
人道的公正への感受性 [ マスメディア批評 ] / 2009-01-02
PC飲酒運転の事後処理 [ アウトドーア・環境 ] / 2009-01-10
無兜・飲酒への恐怖 [ マスメディア批評 ] / 2009-01-08
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PC飲酒運転の事後処理

2009-01-10 | アウトドーア・環境
昨晩は飲酒運転だったかもしれない。運転と言ってもPCの運転であるが夜中まで弄ってしまった。所謂動画サイトのコンテンツをダウンロードするダウンローダーを探してインストールしようと思ったのである。サイトによって方式が異なるので今使っているものが使用出来ないのがわかったからである。動画のダウンロードは、その重要性を鑑み、その大きさもあるのであまりしないのだが、後になくなると分かっている内容のものはダウンロードして保管しておきたくなるのも無理はない。

酔っていることは気がついていたが、何度やっても上手くいかずについつい要らぬものまでダウンロードしていたような気がする。朝起きて、早速アンインストールと久しぶりに復帰機能を使って、酔払い運転での事故の可能性を処理する。

幸い問題のないフリーソフトのようで綺麗に消去されたようだ。フリーソフトの中にはスパイソフトと呼ばれるような悪質なものもあり、ダウンロードするときには注意はしているので問題はない筈であるが、やはり飲酒運転の事故は怖い。

昨晩は、前日に開けたオーメドックの1998年物を大分飲んだ。流石に悪酔いはしないが、やはり最高級のボルドーワインやリースリングに比べるとやはり重くて飲む内に飽きが来る。

飲み始めは、凍て付く散歩から帰ってきたところなので全身の血管が開いてくれるようなスキー帰りの酒のようで一挙にアルコールが全身に快く廻った。結局就寝まで八時間ほど飲んでいただろうか。

雪は、殆ど融けることもなくだから氷結することもない。ただ南向けの斜面の雪はがさがさしてきていたが、林道の上の雪は圧雪状態と化していて、もう一度雪が来たらカーヴィンスキーを持ち出さなければいけなくなる。記憶によると地元でこうした状態は珍しい。今までの積雪はどちらかと言えば春雪タイプで、冬に降っても融雪と凍結を繰り返すものが多かった。降り始めの繋がらない自由度が高い新雪状態から、雪崩の起き難い落ち着いた状態までをまさか葡萄の間で観察できるとは思わなかった。要するに温度による変化ではなくて、重力によって雪と雪の間の繋がりが強くなって来ている状態を言うのである。

昨晩はこの冬で初めて机の前で比較的鍛えてある足元がヒンヤリと感じた。
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押さえられた雪上の音

2009-01-09 | 
本日は郵便局で荷物を出すなど天気に拘らず散歩の時間がなかった。郵便局は案の定雪のためか並ぶ人も殆どいなかった。

昨日は、長袖にセーターを来て出かけた。風を通さないので、やはり暖かい。それでも陽射しが強かったのでヤッケを羽織らずにベストで出かけた。案の定、帰る頃にはやはり冷えた。

相変わらず橇遊びの子供達で賑わっていて、雪も良く鳴り、滑りが大変良い。そのような寒さの中で彼方此方で遅々と仕事をしている。

イェズイーテンガルテンで仕事をしていた。鋸の音や挟みの音が雪に押さえられて響いていた。
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無兜・飲酒への恐怖

2009-01-08 | マスメディア批評
スキー用のヘルメットが完売しているようだ。先程のチューリンゲン首相の関わった死亡事故が大きな着用への推進となっているらしい。

四人の子供をそこに残して亡くなったスロヴェニアのスキー選手のご主人は、政治家主体に事件が語られている事に怒りをぶつけている。楽しい休暇中の思いもかけぬ出来事には同情以外のなにもない。

事件の原因や責任は未だに分からない。視界の利く広いゲレンデの青コースと赤コースの合流点での衝突の瞬間を見たものはいない。それでも多くの人が合流の立て札を隠すように休止していて、広い初心者コースを降りてきて死亡したスポーツ選手と赤コースを滑ってきた政治家が、青コースのネットの近くで激突してそのまま二人とも飛ばされたことが目撃されている。

実際、こうした広い場所ではそのような衝突も目撃した事もあれば、接触経験もあるような気がする。スピードに乗っているのは初心者コースを滑ってきた腕達者なスキーヤーであるのが普通だろう。

政治家本人は、地元の病院のICUで既に食事を採っているようだが、ヘリで移動中に脳内出血の症状の悪化から人工コマに落とされて、衝突の瞬間も覚えておらず、現在の状況もまだ十分に認識していないと言われる。今週中には地元イェーナの病院に搬送されるかも知れないと言われているがどうだろう。

FISの世界ルールもゲレンデのルールとして重要視されるが、それでも車の交通の様には優先権が明確にされていないことから、今回の事件が起きたのではないかと言われている。更に双方の当事者の血液検査もされて、飲酒の可能性も除かれなければいけない。

政治家は、事故直後意識があり、女性の救急医療を優先させたと言われる。それに比べて女性の方は数箇所に渡り頭蓋骨が陥没しているということで、ヘルメットの威力が見直された。何年も普及運動はあったに違いないが、決定的な影響を与えたのは政治家アルトハウスという事になる。安全を指導する広報活動として仮に州首相がいくら呼びかけていても効果が表れなかったものが、こうして自らの事故で絶大な影響を与えた事になる。

地元左派党の代表が、死亡者の出た事故責任を問うているが、真面目にスポーツをしている政治家のようなので、飲酒運転で志望したハイダー博士とは違うだろう。飲酒による事故の責任が問われるのはなにも運転だけではない。幾ら温まるとは言ってもスキー中にアルコール入れる者は馬鹿である。

そこで社会学的に考察がされる。年末年始のスキー休暇での事故は他人事ではないので共感を呼んだ。護衛が付いていたとは言っても政治家の山の中での休暇はもっとも典型的で人気のある過ごし方であるから意外性も少なく、多くの市民が自己と重ねる事も出来るのである。だからヘルメットの重要性も自らの安全と考える。こうして政治は情動的なのがマスへの有効なコミュニケーション方法にも示される。



参照:スイスの蒼い空の下で [ 歴史・時事 ] / 2004-12-17
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冷気に彷徨う一時間

2009-01-07 | アウトドーア・環境
寒波が訪れた、雪も降った。三日ほど散歩出来なかった。氷点下一桁と二桁の間を動いているだけなので流石に冷える。冷えてもオーヴァーヤッケを着ずに、半袖の上に二枚セーターを重ね着して、いつものチョッキを着て出かける。足元は、雪で濡れる事を見越して、オーバーパンツを素足に履いて出かける。

歩いて来る内に下半身は冷えないのだが、靴の内側が冷たくなる。風が出てくると、耳も冷たくこのままにしておくと感覚が無くなって凍り付いてしまうかも知れない。それよりもなによりも袖に吹き付ける風が冷たい。

雪の量は少ないが乾燥していて良く雪が鳴る。そり遊びに興ずる子供達も多いが、ノルディックスキーやマウンテンバイクのトレースも見られた。また至る所に動物の足跡があり、その主を想像するのが面白い。ちょっとした狩人気分である。

初めはこれしきとは思いながらも、一時間近くも冷気に曝されていると流石に厳しくなってきた。氷よりも遥かに歩き易いが、それでも普通以上に疲れる。天気が良くなって来ているので、明日は更に冷えるようだ。
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大脳辺縁系に伝わる記憶

2009-01-06 | 文化一般
音楽好きの少年で一度もその感情的な高揚の原因について考えた事のない者はなかろう。関心は人それぞれだろうが、そのメカニズムや脳の働きなどに思いを巡らしてその研究生活へと「人生を誤まる人」も多かろう。

新聞に女性ジャーナリストらしくユリア・スピノラが「教会の鐘はなぜ甘く響かない」と題して、音楽の心理的な面の心理学や脳科学での回答を扱っている。特に心理学的な面では、音楽心理学として治療行為をする分野もあり今更とも思い、脳科学的な面も生物学的な見地から見ればなにも特に驚く必要もない事ばかりである。

マリリン・モンロー扮するブロンドの隣人を誘惑するために選んだ曲がラフマニノフのピアノ協奏曲二番で、その冒頭のスラヴ的メランコリーに至極自然に当惑する女性が語られる。幾ら、恥ずかしげも無く情感丸出しの音楽とは言え、なるほど「誰もそこで歌ってはいないから」クラシック音楽に違いない。それは、なにも高度に発達した西洋芸術音楽におけるそうした話題ではなく、ワイルダーの喜劇でモンローが反応した美学的にみた認知の問題である。

そこにおいて大脳辺縁系に血液が集まるのは性的な興奮と同じであるとか、実際にラフマニノフのあの部分が効果があるとかとする話と、寧ろ音楽的な教養とか個人的な差異が、音響の質よりもその効果を左右して、音響がセマンティックな意味を持って脳に働きかけるとなれば、その効果は文字による影響と変わらなくなる。もしくは映像表現やはたまたありとあらゆる五感に訴えるマルチメディア表現となにひとつ変わらない、反面音楽は情緒に訴える力が他のものより顕著である事もなんら新たな概念ではない。

その一つに音響によるモルヒネ効果が挙げられるが、例えば大音響による心臓が飛び出しそうな効果や、または性的なオルガズムスと同等な効果、さらにトランスによる新たな次元で受け入れられるハリウッドの宇宙もの映画に表れる宗教的なもしくはミヒャエル・エンデの「モモ」にも描かれるような効果、さらに今度は逆に沈思黙考して外界から離れ立つ感覚へ至る効果など、様々な音響独特な効果も挙がる。

しかし、最終的にはそうした鳥肌もしくは背中に冷水効果を、音響の効果としてのみ峻別するのは容易ではない。さらに同じ影響を与えて、受ける効果は各人各様なのはなぜなのか?もしくは、当然事ながら考えていかなければいけない複雑な芸術における創作に価する創造の独自性とはなになのかとの考えに至る。

やはりここで挙げておかなければいけないのは、そのような情報のインプットとアウトプットの相違として、個性であり同時にそのブラックボックス状の生物で行なわれる代謝作用に他ならない。

その代謝の集積によって形成されて行くものが文化であり、同質性を持ち得る民族性であったり、お互いに影響される文化の循環とする事が出来るだろうか。その時間的な流れが歴史であり人類の記憶に他ならない。



参照:
Warum klingen die Glocken nie süßer?, von Julia Spinola, FAZ vom 20.12.08
感受性に依存する認知 [ 文化一般 ] / 2009-01-03
人道的公正への感受性 [ マスメディア批評 ] / 2009-01-02
日の出のときだろうか [ 雑感 ] / 2009-01-01
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
記憶にも存在しない未知 [ 文化一般 ] / 2007-05-27
嬉しいこと (南無玄之介の日記)
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放言、よー、観てみよー

2009-01-05 | ワイン
クリスマスから何末年始に数多くのワインを開けたので、これを機会にワインなどの点数評価のその馬鹿らしさを新春放言としよう。題して、「よー、観てみよー」である。

先ずは有名ドイツワイン評価本で上位に並ぶ醸造所からこき下ろしておこう。当方の基準は至って簡単である。食事時に飲めて誰もが旨いと言うワインもしくはその評価に納得させられるワイン。そのようなワインは、個人の好みがあって本命に対して当て馬があるだけで、評価自体は好みなどによってあまり変わらないものなのだ。比較するとは、結局二つの物を天秤に掛けて行く方法なので、最終的には二つを比べる事になる。論理的に正しい。それ以上に存在する必要はない。

それでも、需要とは上手く出来ていて、どんなに高かろうが安かろうが、不味いものは誰も買わない。つまり、「買われる」商品 ― 売れるではない ― は好みに合う商品である。要するに趣向に拘らず良いワインなのである。そこから、その該当醸造所で何本のワインを買う事が出来るかで上手いワインを作る醸造所のランク付けが出来る。

さて最高の五つ房を誇るレープホルツ醸造所で、2007年産で購入出来るワインは、グランクリュワインは試していないが、三種ぐらいではないかと思われる。先日開けた雑食砂岩土壌で育った遅摘み葡萄で作ったリースリングは期待外れで、キャビネットの新鮮さの清澄さが無く、試飲会で飲んだグランクリュの熟れた味に近くなっている。まだこれから開くのだろうが、つまらないワインである。レープホルツのワインはキャビネットなどを早めに飲むものだろう。

ラインガウどころかドイツで最も評価の高いロバートヴァイル醸造所では、二種類が精々だろうか。なるほど清潔感も欠けないが、それ以上のものは殆どない。もちろんグランクリュなどは今後二種類となるが、それ以外ほとんど土壌の差もなく同じ傾向のワインから選ぶ事になる。

四つ房に目をやると、VDP会長のA・クリストマン醸造所がある。代表的な地所がイーディックだが、ピノノワールは万人向きだがリースリングはマニア向きであまり人には奨められない。マンデルガルテンは愛好家も多いはずだが、天然酵母に拘るあまり味が洗練されない。ここも赤と白で二種が良いところだろう。

同じように90年代に最もドイツで注目された醸造所ミュラー・カトワールは、そのような田舎臭さを除いて繊細さを出したシュヴァルツ親方で良いリースリングを輩出したが、今に残るようなワインは殆どない。その後は、どうしても重くなりがちなリースリングで、やはり二種類ほどしか買えないだろう。

さて、名門のバッサーマン・ヨルダン醸造所は、グランクリュも力強く、キャビネットでも買えるものがある。独特の古い樽から溢れるような味と近代的な繊細さの両グループのリースリングを上質の地所から輩出していて、今後とも少なくとも四種類ほどは間違いなく推奨できる。

同じく名門ビュルックリン・ヴォルフ醸造所は、最上級の地所の区画が他の名門に比べ特別優れていなく、尚且つ本拠を砂岩質のヴァッヘンハイムに構えている事から、腕を磨いた分が醸造のノウハウとなっていて、その規模といい何時までも新鮮に飲める長持ちワインに溢れている。売りきれる前に購入出来れば五種類以上は間違いなく購入出来て、ドイツでも例をみない飛びぬけて高品質なワインを供出する醸造所であるには間違いない。その価格から五本買えるかどうかが問題である。

ゲオルク・モスバッハー醸造所は、VDP加入前の90年代初めから観察しているが、徐々に力を付けつつあり、良いグランクリュワインを供給できるようになって来ている。ただ、まだまだ品質にばらつきがあり、三種類と言った感じだろう。

三つ房のついているなかでは、フォン・ブール醸造所が今最も注目される現代的なリースリングを作っている。あまり長持ちはせずに細身であるが、その清潔感から現時点で四種類は買えるのではないかと思われる。

二つ房のフォン・ジムメルン醸造所は、名うての地所バイケンを初めとして三種類は買えるだろう。それほど長持ちはしないかも知れないが、ボディー感も清潔感も程よくバランスが取れていて、グランクリュも悪くはない。

ホッホハイムのヴァルナー醸造所も二種類ほど買えてお隣のより大きいキュンストラー醸造所と変わらない。

クリスマスに、今年の注目の醸造所として推薦されていたクニプサー醸造所の2005年産クヴェーXを貰ったので試した。ハーフボトルに恐らくメルローとカヴェルネ類のボルドー風ブレンドが入っていて良く熟れていたが、どうだろう態々買うほどのものではなかった。

ゲオルク・モスバッハーのソーヴィニオン・ブランは夏の終わりにつまらない思いをしたが、今や大変纏まって良くなっていた。その香りは、ピーチネクターのそれそのもので、最初の印象から大きく成長していた。それとは反対に、楽しみに寝かせていたバサルトは若干の熟成感と残糖感が出ている割りに、今一つ玄武岩の開いた香りが出ていない。もう後二本を調べてみなければいけないが、あまり関心しなかった。

最も失望したのが、レープホルツ醸造所の雑食砂岩シュペートレーゼで、そのキャビネットの美味さとは違って、泥臭く、ここのリースリングは軽い物を早飲み過ぎるに限ると思わせた。要するに所有する土壌がその程度なのである。

前回飲んだときが最悪であったのでそれほど失望しなかったのが、クリストマン醸造所のフラッグシップ「イーディック」の格落ち版SCである。流石にワインらしく落ち着いて来ているが、試飲した当時の新鮮さを補充するだけの長所はまだ見えない。

こうした評価本の価値は、無名の醸造所に光を当てることにあって、それ以外の名門の動向は固定客なら分かっていて、所詮良い土地を所有しているか否かが高級リースリングの総てであるので、評価などは不必要と言っても構わないだろう。正直、上に挙げた醸造所のワインは殆ど総て試飲しており、編集者よりは多少なりとも知っているつもりだ。

もう一つ、高級リースリングのそこから出来る土壌に関しては、モーゼルのスレート、プファルツの雑食砂岩、そしてラインガウ以上にまともな土壌は無い事だけを明確に言及しておきたい。



参照:
Bewertung | Unsere Besten,
GAULT MILLAU WeinGuide 2009 - Pressemitteilung  (GAULT MILLAU WeinGuide)
ゴーミヨーのWein Guide Deutschland 2009 (新・緑家のリースリング日記)
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足元の覚束無い散歩道

2009-01-04 | 
いつものように床屋に行くと年明けであるからか二時間後に来てくれという。初めから散発前に歩く予定だったので、時間を潰せるかどうか考えて車を動かす。歩く予定にしていた谷間に車を止めると、坂の上から霜が凍り付いている。

強い陽射しではあるが温度は低い。足元の覚束無い塗装道路を離れてワイン地所へと踏みいる。流石に作業車も走れないので静かである。凍結の可能性があれば、なにも傾斜のある地所で仕事をする必要はない。

用心深く道路を渡りながら地所から地所へと繋いで行く。誰もいない太陽の下の静けさに雪の山間を想起する。耳を澄ますと人の声や歩く音が響く。天気が良いと皆考える事は同じで、足元が悪いにも拘らず山の静けさのようなものを求めにやって来る。

写真を撮るなどしている内に、無事車のところへ帰ると、思いの他時が経っている。一時間半ほど厳寒の中をうろついていた事になる。天気が良ければ三十分で戻って来れる範囲であった。凍り付いているため、普段は通過し難い小川沿いの泥濘の道を通ったり出来るのがなかなかおつである。

床屋に行くにはまだ早いので、車を動かしてあまり行かない平坦な地所の方へと向う。陽射しが一面に降り注いでいるのを愉しみたい。そこに車を止めて歩き出す頃には急に陽射しが弱くなって、またもや足元が覚束無いのだが、それはそれで雰囲気がある。いよいよ身体も冷えてきたので、床屋の椅子に腰を降ろして、新聞に速報が載っていた「チューリンゲン首相がスキー場で女子大回転スキーヤーと衝突して重態となり女性が死亡した話」を始める。
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感受性に依存する認知

2009-01-03 | 文化一般
正月のノイヤースコンツェルトの「見方」が少々話題になっている。話題の主は指揮者ダニエル・バレンボイムで、彼のメッセージが英語から独訳されてネットにあるのでそれを紹介してもう少し考えてみよう。

なによりもまず先に、この指揮者とパレスティナ文学者エドワード・サイードが共同で行なったプロジェクトであろうエルサレムの音楽院での成果が先日ラジオで話題となっていた。イスラエルは、近くではコソヴォにみられた様に、合衆国の公民権運動へと繋がるもしくは南アフリカで有名な一種のアパルトヘイト政策を採っていて、通常はパレスチナ人とユダヤ人が机を並べて学ぶ事はないと言う。しかし音楽院では日常茶飯にそれが行なわれていて、若者達は分け隔てなく芸術を学ぼうとしている「大成果」を読者は踏まえておく必要がある。

さて、ダニエル・バレンボイムは、年頭にあたって三つの願いを書いている:

一つ、イスラエル政府は、今回限り、中東紛争は武力を手段として解決されるものではないと認識する事。

一つ、ハマスは、暴力が彼らの利益とは相反して、イスラエルの存在は現実であることを認識する事。

一つ、世界は、この紛争は歴史的に唯一無二である事を認識して、例外無き複雑さと重荷であると認識する事。これは、おのおのが自らの権利を全く疑わない、同じ一角に暮らす二つの民族間の人間的な紛争であって、外交手段や武力手段によって解決されるものではない。

先日来の進展は、私にとって様々な理由から、尋常ならない憂慮である。勿論、イスラエルは、自国民を絶え間ないロケット攻撃から護る権利を有して、それを断固許さないのは当然であるが、ガザにおける野蛮で容赦無い軍の空爆は幾つかの疑問を生じさせる。

一つ、イスラエルは、ハマスの行動をパレスティナ人全員に責任を取らせる権利はあるのか?すべての住人はハマスのテロリズムの犯罪によって罰せられるべきなのか?私達ユダヤ民族は、誰にも増して無実の市民が非人間的に殺害されることに対して敏感であり、それを断固否定するべきである。イスラエル軍は、言い分けとして、「ガザの市民の犠牲を避ける事が出来ないほどのあまりもの人口密集」を挙げているが、これはあまり道理がない。

つまり、それならば一体空爆の意味はどこにあるのだと疑問が湧いて来る。一体イスラエルは何を期待しているのだ?ハマスを叩くならば、一体そんな事で目標に到達する事が出来るのだろうかと。さもなければ一体こんな悲惨で野蛮で無責任な作戦など無意味でしかない。

もし、ハマスを壊滅させる事が出来るとすれば、イスラエルはガザの反応をどのように考えているのか?百五十万人のガザの住民が突然イスラエル軍の膝元にひれ伏せはしない。忘れてはいけない、ハマスはパレスティナ住民に選挙で選ばれる前から、イスラエルのアラファトの弱体化を狙う戦略から推奨されていたのである。身近な歴史を振り返れば、ハマスが撲滅されても、今度は他のさらに急進的で暴力的なグループがイスラエルに対峙して来ると予想される。

イスラエルは、その生存権から軍事的な敗北は許されない。しかし、イスラエルが軍事的に勝利すれば、急進的なグループが台頭する事で、いつも政治的にそれ以前よりも弱体化しているのである。イスラエル政府が日々難しい選択を迫られている事は疑いない。だから、イスラエルの長期に渡る安全保障は、隣人達に受け入れられることであると考える。2009年がユダヤ民族に授けられたソロモンの智恵を政治家も取り戻して、パレスチナ人とユダヤ人の双方が同じ権利を持つようにと、ユダヤ人の賢明を願う。

パレスチナの暴力はイスラエルに及び、パレスチナを蝕む。軍事的な報復は非人間的で非人道的であり、イスラエルに安全保障を与えない。述べたように、両民族の運命はお互いに解かれること無く結ばれている。彼らは共に生きなければいけなのである。彼らは、そこに祝福を望むのか、逃避を望むのか判断しなければいけない。

― ダニエル・バレンボイム記 ―

なにも付け加える事はないが、こうした政治的発言をどのように評価するか以前に、音楽芸術に関心ある者は彼が言う「ユダヤ民族は、誰にも増して敏感」に留意すべきではないだろうか。勿論これは数々のポグロムの歴史とナチスによるホロコーストの「貴重な経験」を指しているのだが、その「記憶」がどのようにして「伝承」されるかというとやはり芸術文化における表現でしかない。つまり最終的にはなんらかを伝えるには知的な認知が必要であるとして、それだけでなにが伝わってなにが伝わらないかを考えてみれば良いのではなかろうか?

なにかを受け取り感じる事が出来るか否かは、抽象化された文字や高度に発達した記号によるとは限らないと、この音楽家は逆説的に示してはいないだろうか?そう、人は自らの体験でしか物事を認知出来ないのである。少なくともそうした感受性の敏感さに依存して、はじめてメッセージを音楽芸術が伝える事が出来ると信じていると見做して間違いない。



参照:
Daniel Barenboim über Israel, FAZ vom 1.1.2009
ウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサート2009 (yurikamomeの妄想的音楽鑑賞)
人道的公正への感受性 [ マスメディア批評 ] / 2009-01-02
日の出のときだろうか [ 雑感 ] / 2009-01-01
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