Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

新フォームで記録に挑戦

2015-12-17 | 生活
ランニングフォームを直して、峠に挑戦する。午後の走りなので勝負してみるつもりだった。つまり四月以来の上り18分台と同時に、下りで飛ばすつもりで出かけた。翌朝は雨が予想されたからである。そして胸バンドで心拍計をつけてみた。走り出して暫くして、タイムがオンになっていなかったことに気が付いた。但し以前の万歩計を着けている。ストライド走法で歩数がどれほど落ちるかを知りたかったからである。

時計をオンにして、数分も経たないうちに少し左足に違和感を感じた。やはり蹴り足を今までよりは使っているのだろう。可成り順調に走って且つピッチ走法の時のように苦しまなかった。印象としては心拍数160台だったが、最後の峠へのスパートは完全に超えていた。

万歩計を見ると18分、3098歩だった。歩数は春に比べて少なくはないが、最近は25分を超えた走りばかりだったので勝負しただけの価値はあった。腕の振りの特に手の返しなどにも注意をしたが、以前とは違って足を広げる意識なくてツィスト運動で足が前に出るようになった。

峠から直ぐに切れていた心拍計を入れてみると負荷設定上限の170を上下する。流石に足元が悪く本格的には走れないが、頑張って出来るだけ前足でブレーキが掛からないような飛ぶような走りを心掛ける。暫くして快調に走れるようになったかと思ったら、不意に出した左足を挫きかけた。それでも大事なく走り続ける。相変わらず心拍数が170を超えやすい。

勿論下りの14分を12分へと縮める努力をする。前から男女が歩いて来たので、いつもの白毛女親子かとも思ったが、日曜日でもないので違った。但し、上り始めの時に後姿を見た二人とすれば、こちらが歩きに比べてそれほど早くないことを物語る。最後の長い下りを気合を入れて一気に走り下り、万歩計を見ると31分5220歩であった。記録である。下りは12分掛かっていない。今まではどんなに頑張っても14分掛かっている。

これで新しいランニングフォームで加速できることが証明された。上りはショーツ姿なら17分台は行けるだろうか。下りも足元さえよければ、30分を割る大目標が達成される可能性が出てきた。距離も5KM弱で、標高差も十分あるので決して悪くないだろう。

今後注意しなければいけないのは足を挫かないことと ― 足元の悪いところでの時速15KMの目標は可成り限界値に近い、心拍数への配慮だろうか。出かける前に計測すると事務仕事後で68ぐらいで、最低心拍数は40ぐらいだから、やはり170超えは負荷が強すぎる。午後はともかく午前中にはここまで上げてはいけないだろう。



参照:
些か退屈なジョギング練習 2015-12-10 | アウトドーア・環境
糊代を残すストライド走法 2015-12-14 | アウトドーア・環境
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今までと違うことをすると

2015-12-16 | ワイン
日曜日の疲れは喉の痛みとして表れた。同時に肘の内側が痛む。これは初めてなので腕の振りと関係しているのが分かる。どうも手首の扱い方が悪く固く前に突き出した形で振っていたようだ。手首を自然に回転する感じにすれば楽になるようだ。次はそのように試さないといけない。やはり今までと違うことをすると色々とある。

2012年のグローセスゲヴェックスを開けた。レープホルツ醸造所のガンスホルンである。この殆ど同じ地所からは三種類のリースリングが出されていて、葡萄の熟成度が低い方からオェコオミーラート、フォム・ブントザントシュタイン、ガンツホルンとなっている。最初のは購入後10カ月もたたないうちに飲み干してしまうが、二番目は二年待つことにしている。今回もそれを夏ごろに開けてみて、瓶熟成が始まると同時に加齢が始まっているのを感じた。2008年も同様であったが、質が異なったので華やかさが目立って黄昏感はなかったのだ。しかし、2012年は早めに飲み干すのがベストと考えた。

そこで、ガンツホルンとなるのだ。結果からすると流石に下位のものとは違った。葡萄の熟成も健康で酸もワイン酸がよく効いている。しかし、それに釣り合いを持たせるべく、残糖を残していて、ワイン自体が重量感を持ってしまっている。この糖を極力落とす醸造所としては、瓶熟成は大きな課題であったが、こうして糖を残して醸造することで長持ちへの可能性を広げた。そして新たな課題にぶつかっている。つまり、あの持ち味のシャープなエッジの効いたリースリングではなくなって、些かぶよぶよしているのだ。これならばグローセスゲヴェックスの盟主ブリュクリン・ヴォルフ醸造所のそれの繊細さとは勝負にならない。

勿論、瓶詰二年後であって、更に二年後には綺麗に熟成すると思うが、今感じられないミネラルの構築性は今後もあまり期待できない。これならば、2012年に無貴腐葡萄を収穫したナーヘのシェーンレーバー醸造所のグロセスゲヴェックスとは勝負にならないかもしれない。また、2013年はレープホルツ醸造所では貴腐が入っていて、蜂蜜臭が最初からある。これも長期保存には向かない。

ドイツのトップクラスの各醸造所は、いよいよ競って最高級リースリングの価値を競うようになってきた。木樽と天然酵母の醸造は、長持ちで本物のテロワーを示すための条件となる。しかし名醸造所がその前提条件を満たすためには、有機農業と土壌改良で十年以上の歳月が必要になる。グローセスゲヴェックスの価格で、頂上を極める技術的な切磋琢磨があっても、市場ではまだ十年ほど先にしか変化が現れないということである。



参照:
ルツェルンからのお知らせ 2015-10-14 | 雑感
反動で動き出す週末 2015-09-21 | 試飲百景
'12年グローセゲヴェックセ? 2013-09-11 | 試飲百景
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開かれたままの傷口の劇場

2015-12-15 | 文化一般
演出家のルック・ボンディが亡くなってから既に十日以上経った。しかしこれといったオペラ上演は思い出せない。そもそも故人が芝居の演出家であった以上に、如何にオペラのそれがつまらないものでるかを物語ってはいないか。オペラの演出で強く記憶に残っているものはそれほど多くはない。同僚のゼッフィレッリやポネル、シュトレーラーの次には、多くの評価の高い演出家の仕事を見ているが、結局はセラーズが挙がる。要するに台詞芝居の舞台のように感動させる舞台芝居などはオペラには皆無であることを語っている。音楽の力の方が強いこともあるが、それが音楽劇場の芝居として感動させることは少なく、カストルフの「ジークフリート」やシュリンゲンジフの「パルシファル」のように記憶に深く刻まれることは少ない。

指揮者キリル・ペトレンコ、映画監督アーノルト・ファンクと並んで殆ど日本語では書かれない中で多くの情報をここで提供しているのが、活動芸術家クリストフ・シュリンゲンジフについてである。新聞には新たに、故人が残したプロジェクトの種のその後が現地アフリカから報告されている。肺がんに蝕まれた最晩年に取り組んだアフリカのオペラ村プロジェクトについてである。

そこには学校が築かれて、本人の実験劇場の空間とは異なった劇場外劇場が実を結んできているようである。来年秋に新入生を50人を迎えると一通りの学年が揃い全校300人の男女共学が実現する。そこでは、通常の初等教育以外に、地元のそもそもの文化である踊りと音楽が学ばれているようだ。それはバイロイト祝祭劇場の音楽劇場の試みとは異なって、土着の文化を引き継いでいく重要な文化活動となっているというのである。

未完のプロジェクトながら、流石に開かれたままの創作活動であって、とても意味深い示唆を我々に与え続ける。西洋近代文化をそのまま映し出してくれるような芸術などはそれほど多くはないからである。リヒャルト・ヴァークナーが試みた劇場における神話劇が劇場外の工業化された社会での現実世界をどれほど反映していたか?

2004年、2005年の舞台神聖劇「パルシファル」の放送録音を聞いたことがないのを思い出して、探してDLしてみる。MP3しかないが、少しだけ聞くと少しづつその演奏を思い出す。劇場で聞くよりも更に透明感が増しているが、ピエール・ブーレーズの指揮は開かれたままの演奏実践となっている。そのテムポの速さと流れの良さの反面、もう一息踏み込むことはないのである。その意味から十分に開かれた形となっていて、当時の批評にある「開かれたままの傷口」の演出上演と呼応していたのだった。

上の舞台で扱われていたことは、一神教のそれをも抱合してしまう世界観であったのだが、我々の日常と世界観を超える領域への窓を開くことはそれほど容易くはない。学問や科学などとはまた異なる窓を開くべき芸術としての音楽劇場が存在するとして、その音楽の存在が効果を齎す半面、音楽自体の言語や修辞法が学んだことにない者にとってはあまり容易でないために、言語劇場に比較すると知的論理面でより抽象的となるために、音楽劇場はエンターティメントでその表現を終えてしまうということが多いのである。



参照:
Schlingensiefs Traum, SARAH HEGENBART, FAZ vom 5.12.2015
黄昏の雪男の話 2013-10-19 | 雑感
最も同時代的な芸術家の死 2010-08-24 | 文化一般
循環する裏返しの感興 2009-04-27 | 雑感
御奉仕が座右の銘の女 2005-07-26 | 女
デューラーの兎とボイスの兎 2004-12-03 | 文化一般
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糊代を残すストライド走法

2015-12-14 | アウトドーア・環境
ストライド走法を意識して山登りした。結果ピッチ走法以上に楽に走れた。最初の急坂は余裕を持って走り、蹴りも効かせて、緑のベンチ間近で左から走ってくる者と出合った。スピードが早そうだったのでやり過ごして後をつけようかと思っていたが、抜かれるどころか緑のベンチで立ち止まっていた感じだった。それでも後ろから追いかけられるのを予想して頑張って林道を腕の振りに注意しながら走り続ける。

しかし25分過ぎからの登りで踝から下に疲れが来た。循環器系は楽なのだが、足に酸素が回らないというか、やはり循環器系にも違う負担が掛かるようだ。心拍数は計っていないが150から大きく超えなかったのは実感できる。丁度足に来た頃が一番負担が掛かっていたのだろう。今までの最短記録が34分ぐらいに対して登りに40分掛かった。それは構わない、この奏法ではスピードを上げる糊代が大きいからである。

その分降りに加速した。頂上直下で岩に乗り上げて足を挫きそうになったのにも拘らず、林道で時計を見ながら、時速9KMから10KMへと上げていく。出来るだけ谷足でブレーキが掛からないように、前のめりになって走り抜く。登りと同じぐらいに運動量を上げていく。

結局23分ほどで降りてきた。記録ではないだろうか。出来る限り飛ぶような走り方にした成果が表れた。もう少し傾斜の弱い、足場の良いところでそれが身に付くと時速12KMを楽に超えるようになるであろう。15KMへの道に少しは近づいてきただろうか。

降りの林道に出る前に若干貧血気味になったのと、登りに足が痛くなったのを克服することで、スピードをあげる準備は整ってきた。腕の振りに留意することで、改めて左右の肩の動きがもう一つ柔軟でないのを感じた。今日は気温も摂氏五度を超えて動きやすかった。

そして何よりもログをDLすると、今までに経験したことがないほど綺麗にGPSが働いていて、標高がかなり正確に表示されている。なぜなのかは分からないが、いつもこれぐらい計測できたら嬉しい。朝は雲も掛かっていたのになぜだろう。



参照:
些か退屈なジョギング練習 2015-12-10 | アウトドーア・環境
処女雪の山を走り廻る 2015-11-23 | アウトドーア・環境
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光を有効に使う方法

2015-12-13 | 生活
水曜日の夕方に走って、木曜日の夜は喉が痛んだ。風邪を引いたのかと思って、急いで喉飴などぉ舐める。してみると冷えて来ていたのである。早起きして峠登りをするつもりで比較的早めに床に就いた。そして夜中も寒さを感じた。朝、目を覚ますと、屋根の上には霜が降りていた。天気予報よりも冷えていた。予想以上に晴れたからだろう。ここは我慢して休むことにしよう。日曜日までの運動量は十分である。

冬のお篭り部屋の電気スタンドの電球が切れた。ベット横のデスクスタンドのフォーカスタイプだ。なぜベット横の光をフォーカスしないといけないか。間接照明にしているからだ。電球を右から左へと取り換えているうちに、デスク横のもう一つのデスクライトの首が抉れ出した。そこで枕元と交換してみることにした。そして設置してみると、同じ強さの電球でも光が暗いのだ。それに引き換えて抉れた方のラムプは解放されているので間接照明にしても格段明るいことに気が付いた。

そこで電球の光の強さやフォーカスや全方向などの付け替えを試しても、デスク横に持ってきたデスクスタンドの方は暗いのだ。そして時間が経つとメタルの黒いシェードが熱くなって焼けだす。100W電球まで使えることになっているのにも拘らず覚束ない。

観察してみるとシェードの内側も外側と同じように真っ黒になっているのである。これは光を完全に吸い込んでいることが分かった。まるで石焼きのように熱を溜めて光を出さないのだ。シェードの内側をラッカーで白くすることにした。新聞紙を巻いたりして、手すりの修理に使った白のラッカーの残りを内側に塗布する。

誰でも分かるように、黒色は可視光を吸収して殆ど反射しない。しかし白色の反射は激しい。だからその効果は十分に想像できるだろう。但し反射するところがシェードの内側なのでどのように反射してくるかは試してみないと分からない。いざ電気を流してみると、予想以上だった。開いているもう一つのシェードよりも眩しいぐらいになっている。なによりも予想外なのはその光がシェードの開いている方向だけでなくて、四方八方へと乱反射が激しいことだ。

余りに光が強すぎて、シェードの温度も高いので、またより小さめのフォーカス型の電球に変えてみる。光の強さよりも、拡散の効果が大きく、大分使い易くなった。やはり光は吸収されてしまうととても使いにくい。エネルギーの無駄になるのだ。



参照:
消えた灯がまた灯る 2014-09-09 | 料理
LEDよりもハロゲン電球 2013-11-20 | アウトドーア・環境
強い意思と「努力」あるのみ 2012-03-12 | 文化一般
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一掃されるあかの類

2015-12-12 | 歴史・時事
長めに走って、就寝前に入浴、ぐっすりと眠った。それほど疲れる筈がないが、腰に少しきた。いつもと走り方が違っていたのだろうか?視界が効かないところで反り腰になっていた可能性が高い。今まであまり経験した覚えがない。腕なども疲れている。主原因としては腰の振れをツイストして十二分に利用しようとしたからだろう。その割には爪先走りなので荷重が安定しないからだろう。爪先走りで20KMぐらいは問題なさそうだ。

やっと、台所の換気扇の上を掃除出来た。キッチンスポンジを12個購入しておいた。理由は、刃で削いだ油脂を今度は同じ薬剤で溶かしながら拭き取るためである。一々洗えるほどやわな汚れではないから、一度使って捨てるために全部で1ユーロ以上を投資した。結局五個ほどしか使わなかったが、スポンジはいざというときになんでも吸い取れるので便利な掃除用具である。

同時に換気扇のフィルターを交換した。今回購入して準備してあったのは前回と違って活性炭フィルターのないもので、不織布を二重に重ねるものである。効果は一年して様子を見なければ分からないが、一年油が垂れることなくもってくれればそれでよいのだ。

これで今年の大掃除は一通り終わった。来週は精々ベットのシーツを洗うか、HiFiラックの後ろ側とサブPCの裏側を掃除するぐらいか。全体的に昨年の今頃よりはどこも綺麗になった。今年はカビ取りの大きな課題があってから、ハウスキープ用のケミカルを探して購入するようになった。更に手すりで傷がついたところにラッカー塗装をした。環境のため健康のためには、あまりケミカルは使いたくはないのだが、こうした楽できる道具がないことには、誰も面倒な掃除には手を付けようとはしないだろう。先ずは試してみてどれぐらい効果があるかどうか、それだけで士気が上がるのだ。

最近シナからの情報として面白いことを聞いた。それによると上海に住んでいた日本人家族が、敗戦前に家族だけ逃がしてそこの旦那だけが終戦と同時に日本の憲兵によって連れ去られて処分されたという話だ。なぜ敗戦と同時に処刑されたのか?調べてみると上海同文書院大学のことに行き当たった。そこの共産主義者のことも書いてある。一度調べたことのあるドイツ共産党員として有名な千田是也やゾルゲ事件の尾崎秀実などと、この上海の共産主義者達が繋がった。このシナで話されている話が一体誰のことを指しているのかは分からないが、当時世界中の情報が錯綜するなかで、この世界都市で共産主義者が大きな役割を果たしていたのは、南京などの欧米のキリスト教関係者などの状況とよく似ていたのであろう。要するに日帝にとっても生かして泳がしておくだけの情報源もあったのだろう。

そして今そうした話が色々と出てきている。その背景にどうしても浮かんでくるのは、明らかに戦後レジームの構図であり、その時代に生きていた人にはなかなか見えてこなかった舞台裏である。爆買の言葉に表されるように、シナ人の日本に対する、強い拒絶反応よりも、憧憬に近いものが沸々と沸き起こってくるのが様々なところから見えて来る。満州政策への評価のみならず、南京虐殺などの件もあり抗日を政治道具化した中共があっても、安倍政権やワシントンが望むような日中関係はあまりに不自然ということである。東京裁判そして冷戦構造と国際連盟の中で築かれた戦後レジームにあった左右イデオロギー対立のような分断統治政策を克服してそれと決裂できなかった原因はどこにあるのか、ワシントンによって謀られた似非国粋主義者と左翼思想者の言論学術の不毛であったことなどしっかりと肝に銘ずる価値がある。「敵は本能寺にありだ」、間違ってはいけない。



参照:
鉛筆への文化的な熱い想い 2015-10-11 | 文化一般
違憲状態が終わるとき 2015-09-22 | マスメディア批評
自虐的国家主義安倍政権 2015-07-24 | マスメディア批評
史実に立つ頭打ちシナの現実 2009-05-23 | マスメディア批評
独・ユダヤ・シナ・日本の愛憎 2009-04-14 | 歴史・時事
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コンサートホールの環境

2015-12-11 | 文化一般
ミュンヘンの新しいコンサートホールの件が話題となった。落ち着き先が東駅で、概ねの評判は悪い。あまりにも文化的な香りがないところだからである。新聞は書く、なるほど新たな店などは出来ても、ダルマイールから劇場へといった環境は生じないと。それならば、完成予想図のようなポストモダーンな建築が出来たとしても、それだけの新風も起こさないとみる見解が正しいだろう。そもそも時期が悪い。そのホールを主に使うのがバイエルン放送協会の交響楽団であるが、一体その主な聴衆はどうした人々なのだろう。学生も少なくはないだろうが大半は爺さん婆さんに違いない。そのような人達が将来を担う文化的な環境を担う訳でもない。

古い資料を片付けている時に、修復されるガスタイクのホールに仕事などを兼ねて何回か通っていたのを思い出した。あの場所でミュンヘンの環状の外側にあって、車で出入りするにしても若干不便さを感じていた。なるほど西ベルリンのフィルハーモニーも壁際のとんでもないところにあったが、そのお蔭で壁が無くなっても建設の予定通り統一の象徴的な建造物になった。今回新ホールがそうした場所になるとは思われなく、決定してから逆に予定よりも早く改修完了となるガスタイクへの期待が高まったようだ。

芸術的な価値はホールのハードとソフトの中身に依るが、やはり聴衆がそれを形作っていくので、そのホールの環境も重要なのである。ミュンヘンはベルリン以上に観光客が訪れる町であるが、コンサートに訪れる観光客がどれぐらいいるのだろうか?ミュンヘンの交響楽団に有名指揮者が居た頃にはそれだけの観光収入もあったのかもしれない。だから、今回の東駅周辺にも美術館などの文化施設の有無が言及される。それは、勿論定期会員などの地元の人にとってもさらに重要なことだろう。地元の人にとっても、やはりそこへ態々出向くことに何らかの意味づけ、動機づけが必要になるので、環境が重要視されるのは当然である。

ミュンヘンは、ハムブルクなどとは違って経済的には困らない。それでもなかなか予定されていた中心地のオデオンプラッツにホールが出来なかったのは、緑などの環境が重視されたのと同時に、管弦楽団活動というものが文化芸術的に中途半端な位置づけになってきたことがあるに違いない。交響管弦楽団活動を音楽の重要な位置に鎮座させる専門家が殆ど居ないからであり、そうした聴衆の声も大きな声とはならないからであろう。それでもなぜかパリには大きなコンサートホールなどが新たに出来上がるのは一極集中の弊害でしかない様にも思われる。反対に、バーデン・バーデンなどの観光だけの街になると、平時の聴衆の数が少ないので、それなりの祝祭などで観光客を招き入れないと厳しく、復活祭週間が開かれるまでの十五年ほどはなかなか注目を集められなかった現実があるのだ。



参照:
ヒトラー革命と総ミュンヘン 2015-11-11 | 暦
音楽ジャーナルの高忠実度 2015-11-24 | マスメディア批評
パリ、バーデンバーデン楽旅 2015-10-18 | 文化一般
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些か退屈なジョギング練習

2015-12-10 | アウトドーア・環境
早起きして長めの距離を走ろうと思ったのだった。早めにベットに入って、四時過ぎに目を覚ましたまではよかったが、予定より遅くまで雨が降っていて意気消沈、、二度寝するとやり過ごしてしまった。結構筋肉疲れなどがあり、朝から一時間以上走ろうとなど考えたのは一種のランニングハイだったようだ。筋肉疲れの原因も分からないのだが、それを解すためには長めにゆっくり走るのは間違った方法ではない。

久しぶりに暖かくなったのだった。そこで結局夕方に走った。90分ほど走ることが目的で10KM程度を往復して、フォームをチェックすれば良い。ゆっくりと走り出したが、腕の振りが中々定まらなかった。それでも意識的に直して行く。兎に角、楽に走れたので、時間が何時もよりも掛かっているのに拘わらず、直ぐに200m毎のラップ音が鳴る。考え事をする余裕があるからで、以前していた散歩と全く同じように出来る。

それでも沢沿いのいつもの折り返しの緩い登り勾配ではなんとなく力が入る。腕の振りを修正するチャンスである。どうしても前へ、上に振りが伸びる傾向があって、後ろ足で蹴る傾向になる。それを修正して行くとまた楽になる。

そこからが初めての領域で、そこを走るのは初めてだ。歩いたことのある場所を過ぎ去り、後ろからジープが抜いて行くと、橋に出た。真っ直ぐ沢沿いを進むつもりだったが、道が悪そうなので、橋を渡ると登りになってしまった。適当なところで折り返して橋まで戻ってくる。すると先ほどのジープが沢沿いの道を戻ってくるので、問題なく走れると分かった。そこを先に進むとやはり予想通り登りになって来て、足元も悪くなって来る。充分に五キロを通過したどころで引き返す。

横の登山道から降りて来る夫婦を追い抜く頃には、暗がりになっていて、眼鏡も曇ってくる。こうなれば降りでもスピードが出ない。殆ど視界が効かないような状態でいつもの道を勘に頼って戻ってくる。結局82分ほど走った。最後のスパートは蹴りを入れて飛ぶようなストライド走行を試してみる。これは行けると思った。復路は寄り道がなかったので、計らずも10KMに満たなかったが、13700歩で、目的は達成した。

山の中ではなかなか10KM、20KMと高低差無しに走ることは難しい。そして何よりも二時間以上走り続けると退屈で仕方がない。時速6-7KMならば幾らでも走れそうだが、歩いても20KMの距離は疲れるので、そこにトレーニングの目的が見当たらない。今後長い距離を走るならば二時間で20KMの準備が出来たときとなろう。

ランニングフォームが分かってきたので、先ずは短めの距離をストライド走法で時速15KMで走るのを目指すのが当面の目標だろうか。それが出来た暁には20KMもしくは30KMを二時間で試してみる価値がありそうだ。心拍数は計っていないが140にも至らなかったのではなかろうか。



参照:
持続性やキレを考える 2015-12-09 | ワイン
寄る年波には勝てぬとは 2015-12-05 | 生活
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持続性やキレを考える

2015-12-09 | ワイン
手の振りを意識した。時速15KMを目指すどころか、スピードが落ちる一方だからである。季節がらとも思っていたが、走る距離は伸びているのにおかしい、フォームを直す丁度良い機会だと感じた。先ずは、腕の振る方向や足との関連を意識した。直ぐに分かった、足が前に出るかでないかは、引く動作によると体で認識した。ピッチ走法からストライド走法へと再び戻す時期に来ているかと感じる。

気が付いたのは、腕を振る肩幅で回転モーメントが変わるので、足元が悪いとバランスを取るためにどうしても広くなり、狭くなると左右に身体が揺れやすくなることだ。要するにトラックで走る時とオフロードの走りは異なるのは分かるのだが、スピードを出すためにはその中間に解決方法がある筈だ。足を前に出そうと思えば、腕が深く引かれるが、その時に左右に揺れない様にしないと足元が悪いと足を挫く。以前はそのように走っていたのだが、長い坂を走り慣れるようになると自然にピッチ走法になっていった。しかし、ピッチが短くなってきたので、腕の振りを若干変えて、足が前に出るように工夫しなければ、スピードが遅くなる一方なのだ。

例年タイムが落ちる時期であるが、ここで壁を抜けるために何とかしたい。スピード向上と同時に距離を伸ばしてみようかとも考える。最低十キロを高度差を少なくして走るにはいつもの沢沿いをさらに奥まで詰めて戻って、一部を往復するか、三往復するかである。記録を見るには、三往復すれば12KMほどの距離になる。これを二時間掛けて走るとどうなのか?山登りコースが一時間以上の上り下りなので、一時間半を比較的平らなところで走れば最低9KM以上の走行が必要だろうか。兎に角、いつもの沢を4.5KM以上詰めてみるというのも方法かもしれない。朝早く暗いうちに始めれば、いつものように適当な時刻に終えられる。勿論その時に入念にランニングフォームをチェックしなければいけない。

週末には何を開けようかと考えた。待降節であり、怒涛の如くのグランクリュの連続とも考えた。しかし探しているうちに九月に入手したファン・フォルクセム醸造所のシャルツホーフベルガーリースリングのエティケットがナメクジに食われているのに気が付いた。二本のうちの一本を開けることにした。

予想通り若過ぎて、閉じたままだった。それでも本格的辛口のPCであることが分かった。明らかに今までのような残糖を残していない作りである。酵母臭の後ろには様々なザクロやクランベリーのような香りや味があるのだが、酸も引っ込ん感じで苦味が目立つ ― 果実風味と苦味の2014年産でますますブリュクリン・ヴォルフ醸造所の全く開いていない、本格的な若過ぎるリースリングと同じようになっている。恐らく苦みも完熟の葡萄を狙った傾向ではロベルト・ヴァイル醸造所の如何にも長持ちそうなリースリングにも似ている。

乾きのストレスと言われるその苦味であるが、それがなぜ完熟葡萄に表れるのかは分からない。そしてその苦味の原因にも不可解なところがある。それでも長期保存用にリースリングになるに従って、今年ほど閉じてしまって、なかなか試飲も出来なような年度は覚えがないのである。なるほどナーヘのデーノッフ醸造所にしても2014年は瓶熟成に関しては問題がないというが、既にクリスマスには楽しめるというグランクリュがあるのが不思議でたまらない。但し2014年の傾向としては、早摘みほど苦味の問題が少なくて、苦味の少ないリースリングはそれほど長持ちするワインではないのだ。



参照:
無線マウス二年半の実力 2015-11-28 | 雑感
ワイン祭り最終日の過ごし方 2015-06-22 | 暦
星屑の詰め合わせを追加 2015-10-02 | ワイン
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時代の相対化のサウンド

2015-12-08 | 
新聞を見ると日曜日のコンサートの前触れ記事が土曜日に出ていた。この新聞ではとても珍しいことである。イヴァン・フィッシャー指揮のブタペストの祝祭管弦楽団のツアーに関してである。そこでいつものおばさんは、政治的な問題のあるハンガリーの政権に対して、同僚のピアニスト、アンドレーシュ・シフのように国内演奏を拒否するでもなく、ベルリンとブタペストで活動を続ける指揮者の事情をインタヴューして説明している。

それによると、反政府の立場ながら、反ユダヤ主義はどこでもあるような有り体のものであって、それよりもロマなどの民族へのそれに気を付ける必要があるとしている。要するに、ブタペストのオルバン政権も東京の安倍政権と何ら変わらない。琉球人への民 族差別よりは、ユダヤ人へのそれは遥かに大したことがないと言うことだろう。

その歴史的な背景が短く説明されていて、ウクライナ同様にハンガリーもナチス政権の傀儡となるような立場にあって、そこからユダヤ人が多く護送されたこと、メンデルスゾーンのようにブタペストとしては裕福なフィッシャー家においても、父親サンドールは収容所の生き残りとなり、祖父母はそこで亡くなったことが語られる。それでも、嘗ての忘れ去られているジナゴークなどにおいてコンサート等を開くことで、ハンガリー市民に歴史を知ってもらい、音楽を通じての理解の輪を広げる活動をしていること、それどころか自費で国境に屯する難民のためにトラックや寝具、食事などを手配しているという。

兄のアダムも指揮者であり、本人もブタペストの名士であることから、同時にそうした公共の活動を繰り広げており、ピアニストのコチシュとともに創立した祝祭管弦楽団も六割の助成で存続しているという。まだ64歳と若く、名前は大分以前から有名だったので意外だったが、ベルリンの交響楽団を指揮しているようだ。特別な楽器配置をもって音響に配慮しているという。

ヴィルヘルム・フルトヴァングラー指揮のエロイカ交響曲をYOUTUBEで見つけてダウンロードしてみた。音を整えてあるのでHiFiサウンドで聞いてみてくれという投稿である。1952年12月8日のティタニアパラストでのフィルハーモニカ―の定期演奏会のようだ。有名な1944年のLPは持っていてもピッチが合っていない、また戦後のスタディオ録音LPもある。しかしこれは米軍進駐放送Riasのもので、今まで聞いたことがなかった。なるほどミニコムポぐらいのサウンドとしてはとても素晴らしい。

なによりも演奏の特徴がよく分かる。トレモロの弾かせ方やダイナミックスとかテムポとかだけではなくて、この指揮者が再三語っていたソナタ形式の和声のヴェクトルの向きがとてもよく分かる。改めて、今でも最高の名演奏と誉れ高い合唱交響曲演奏をバイロイト祝祭劇場での練習から本番まで聞いた音楽評論家ヨアヒム・カイザーの本を読み返す。しかしそこには、「ドイツ音楽の深み」や「戦時下の演奏」などという表現があっても肝心のサウンドに言及されていない。

そしてYOUTUBEのお蔭で、フルトヴェングラーの録音を色々と他の同時期の録音などと比較して聞くと、ある結論に行きつく。まさしく夢にまで見たフルトヴェングラーの演奏会の生の響きが想像できるようになってきた。そしてなぜか、フルトヴェングラーの残された実況録音は音質が悪い。例えばバイロイトの祝祭劇場での二週間前ヘルマン・アーベントロート指揮のものとでは大分音質が異なる。録音の方法が異なるのかもしれないが、フルトヴェングラーの人気と名声は圧倒的なものであったのにとても不思議なのである。

実際に戦前のSP時代でもこの指揮者の録音の質は悲愴交響曲以外はあまり良くない。そしてこのエロイカを聞いて理解できるのは、やはり管弦楽団の音が割れるということだろうか。それがどのように演奏されているかを考えればなるほどと思い、また伝え聞かれるように天井が抜けるほどの音とか途轍もなく美しい響きなどの突飛押しもないサウンドがどのように作られているかを知ることが出来るのである。

「打拍を綺麗に振って指揮する技術などは何でもない」と言い放った指揮者のその指揮ぶりや独自の譜読みやその実践への練習風景など ― それにカラヤンが評するように「躊躇しているフルトヴェングラー」を聞くと ―、その指揮するところの管弦楽のサウンドが分かる。しばしば言われるようなマイクロフォンに乗り難い音響でもあり、実際に粒の揃ったとはなり難いのである。

今夏のベルリンの新音楽監督決定やバイロイト祝祭での批評などから、「ドイツ音楽の深み」などという言葉が改めて囁かれており、そのサウンドを確かめる必要もあったのだ。なるほど、とても稀な場合であるがフルトヴェングラーのベートーヴェンの交響曲のやり方を知ってしまうと、これ以上何をやっても仕方がないとなる。大管弦楽団でああした古典派の交響曲を演奏するには、どれだけどのように揃うかという問題がはだかり、その後に合衆国でなされたようなやり方も特殊なものであることは今日から見れば当然である。フォン・カラヤンはアンティ・フルトヴェングラーとして伸し上がってきたことは確かであろうが、もはやベートーヴェン解釈では、誰一人としてこのフルトヴェングラーのような芸術的な成果は示すことはない。

なぜ今それに言及しなければいけなくなったか、つまりそうしたソナタ形式そのもの和声形式を準拠とする音楽の時代が漸く終わりを告げたことを感じるからで ― 面白いことにその意味からの集大成のような音楽つまりヒンデミットの「世界の調和」を上の演奏会では「エロイカ」の前に演奏していて、その録音もネットにあり、とても興味深い ―、ヨアヒム・カイザー教授がいうような「最も偉大な演奏家ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの時代」がここに来て初めて相対化されるようになって来たということである。



参照:
ふれなければいけない話題 2015-06-29 | マスメディア批評
嵐過ぎ去って、その後 2015-04-02 | 音
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音
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集団的防衛権の情報管理

2015-12-07 | 歴史・時事
先週末は山登りが出来なかった。だからそれを取り返すために週の間に二回まともに走れた。そして山登りで、15KM以上走れたので上出来だった。朝から天気がよい割には、八時半に駐車場で車が出て行った以外は誰にも合わなかった。これでシーズン四回目である。

この週末に書いておかなければいけない。ISテロへの戦争に連邦軍が参画することである。閣議の決定から直ぐに可決された。予定通りの可決であるが、激しい議論に拘わらず、予想外の速さである。それをしてアフガニスタンへの派兵と比べられる。

連立与党の社会主義者の28名が反対に投じ、キリスト教民主同盟の2名が反対したのとは裏腹に、2名の環境保護緑の党員が賛成した。後は左派党が反対で一致したが、445対146では議論さえ充分には出来ない。

一連のテロ事件では連邦共和国の住民は逮捕されていないが、今後とも安全が守れるのかどうかとても疑問である。内務省などは管理に自信を持っているのだろう。来週には、難民保護の任務で地中海にあるフリゲート艦アウグスブルクが空母シャルルドゴールの護衛に回る。そして来年から偵察機トルネードが六機任務に回り、1200人規模で作戦を来年末まで展開する事になっている。イラク、シリアその周辺の海上が任務地ということだ。

アフガニスタンとは違って犠牲者が出ることはないのかもしれないが、肝心なのは国内の治安である。キリスト教社会同盟が言うように、広義の自衛行動なので憲法に違反しないというが、たとえパリは自国でなくとも、また自国がなんら攻撃されていなくても、既に脅しが出ているからとある。左翼党が憲法論争にしようとしたようだが、そもそもEUの集団的防衛権を根拠付けにすることも出来、日本のような九条がない限り、議会政治の力でしか押し返せないらしい。

恐らく多くの連邦国民は、警察力でテロを抑え込むことが可能と信じているのだろう。実際にパリの事件等を見ると情報は十分にありながら、事件を未然に防ぐ努力が充分にされていなかったとしか思えないからだ。実際に電話連絡もネットでの接触もまた銀行振り込み等も何種類もの背番号で管理されているので、要注意人物は直接対面で共謀しない限り事件などは起こせない。世界有数の管理社会だから可能なのか?



参照:
任せておいてはいけない 2015-11-19 | 生活
13日金曜日の情報錯綜 2015-11-15 | 暦
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大掃除の戦利品の響き

2015-12-06 | 
今週の大掃除は終わった。箪笥の上の埃は塊だったので写真を写そうかと思ったが忘れた。以前と比べると比較的容易に掃除出来た。理由は高めのホッカーを使ったからだろうか。但しその上に乗って掃除機をかけるには二人掛かりで、一人が掃除機を頭の上で支えていなければならない。埃を吸い込めば、あとは簡単に拭き掃除が可能となる。来週予定の台所の上部の油塗れとは違うところだ。

前日から準備していたスピーカーの新しいコードは結局一メートルを切断して、左右のスピーカーの距離もその間に収まる。箪笥の上は、屋根の傾斜で狭くなっているので、それほどの幅が取れないのである。今回スピーカーの置き方色々を変えて、箪笥自体が大きな壁になり、上部は屋根稜まで高さがあるので、所謂ブックシェルフ効果で結構低音が伸びることになっている。試しに引き戸を開けて再生してみると音が吸い込まれてしまう。

アクティヴスピーカーの電源部の接触が悪かったようで、これほど立派な音が鳴るのは完全に諦めていたのだが、今回接続ケーブルも交換して、接点などをチェックして、断然音質は向上した。なるほど小型のスピーカーであり、どうしても箪笥も共振してしまうので、モニタースピーカーのようなには鳴らないが、部屋の形状上仕方がない。壁にマウンティングするにしても場所がなかなかないのである。水準としてはミニコムポ程度だろう。

ここでも如何にうるささを感じずに音量を上げていけるかが判断の基準でそれは大分本格的になったのだが、やはり高音部の繊細さが欠けるのはシステムの実力だろう。防振などしても高音域の肌理の細かさには限界が見える。広がり感を出すには階下でサブウファーを鳴らしながら、屋根裏で聞くという感じで、全体の音量は更に大きくなって、ある高さでは町中に響くことになるのかもしれない。それが全く騒がしく感じないのが余計に恐ろしい。

朝、目を覚ますとサーノイズのような雰囲気を感じた。耳を澄ますと整備したスピーカーからのノイズだ。先日来電源が点きっぱなしになっていることは気が付いていたが、電源スパークノイズ以外にサーノイズを感じたのは初めてで、まるで耳のモスキート音テストのようだ。若干アクティスピーカーの音量を上げたことと、周りが静かだった影響があるのだろう。それにしても国道脇に住んでいながらもこれだけ住環境が静かになるとは思ってもいなかった。

こうなれば電気消費だけでなく、睡眠にも悪影響となりかねないので、考えていた電源スイッチを挟むことを実行に移した。冬の間は毎日一度点け消しをすることになる。今年は電気代節約とはならないが来年には効果が出るだろう。そして、アクティヴスピーカー音量をもう少し上げて、音質的にベストの状態を続けておくことも可能となる。周波数特性からラディオ的というか若干PA的な音質になり、ヘッドフォーンの音質には至らなくとも、もう少しと思うが、はっとするようなサウンドどころか、HiFi的には評価の低かったメインのシステムと比較すると ― こちらはまるで指揮台に立っているように、オペラ録音の弦楽の楽器間の受け渡しが目に見えるような活き活きした感じになってとても良くなった ―、定位感なども悪くてがっかりする。流しておくだけのBGM音響システムか。



参照:
おとなしいグレードアップ 2015-12-03 | 音
ネットで耳のチェックをする 2015-12-02 | 生活
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寄る年波には勝てぬとは

2015-12-05 | 生活
天気が回復したので、谷沿いの往復を走った。目下の目標は出したいときに時速15KMで走れるようになることだ。恐らく時速20KMを中距離で出すことは一生涯無理だと思っているが、15は可能ではないかと考えている。しかしそれがなかなか出ないのだ。走り方なども研究する必要がありそうだ。下りでもなかなか出ないのだから心肺機能の問題ではなかろう。

往路の途中でいつもの広告会社社長らしき犬連れのおやじ ― 6リットルのAEG仕様車に乗っている ― とすれ違った。すれ違いざまに健康のためとか言っていたが、私よりもいくつかは若そうな彼も気になる年頃なのだろう。シェパード二匹と走れるようになれば大したものだが、そこまで行くには数年かかるだろう。

自分自身スピードよりも距離を延ばすべきかとも考えるのだが、クライミングにおいてはやはり中距離的な強さが必要なので長距離向きの課題は先に延ばしてもよいと考える。恐らくここ数年が中距離向けの力をつける最後のチャンスと考えるからだ。そもそも中距離などは苦手なのだ。

火曜日は鶏の心臓を久しぶりに食した。お客さんが置いて行ったキャンティクラシッコがあるので、半分に切ってそれにしたしておいた。中華も可能だが、ジャガイモがあるので塩じゃがに付け合わせて、フランス料理にすることにした。ワインは2009年のゲオルク・モスバッハ―のシュペートブルグンダーを先日開けた同年のクリストマンのオェルベルクと比較してみることにした。最初の試飲の時と同じで果実風味が特徴なモスバッハ―も殆ど変わっていない。但し酸が若干丸くなって、液の縁の色にも表れているので、これ以上寝かしていくと苦味が増してくるかもしれないと感じた。ミネラル風味は豊かで、果実風味でこれが隠され知たことが分かるのだ。雑食砂岩らしいピノノワールである。食事は、赤パプリカとネギを中心に最小限の味付けで炒めた。ピノノワールには問題なく楽しめる。

ご近所さんが肺炎で一週間入院していたと本人から聞いた。心臓が悪かった筈だが、年齢も九十過ぎている筈なので、心配なことだ。赤十字が食事の配達をしている。本人も思ってもいなかったような感じで、若干気落ちしているようだ。十年前までは自転車で走り回っていたことを考えると、年月には勝てない。



参照:
ダールマイルのフィレ肉 2015-10-23 | 料理
覚え書きのその時 2015-11-13 | 雑感
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人民元国際化の裏表

2015-12-04 | マスメディア批評
朝のSWR2の教養番組で、三人の日本の女流作家が語っていた。聞いたのは秘密保護法の問題である。フクシマ以後の問題として捉えられていた。こうしたラディオ放送があれば、スキャンダル放送局ZDFなどは不要である。出来れば、組織解体して聴視料を三分の二にしてほしい。要するにTV放送など複数放送協会も要らないのだ。ラディオ放送さえ沢山あればよい。それもネット放送が重要である。車で問題なくネット接続するようになればそれだけでよい。

ドイツ公共放送協会ZDFはシュレーダー政権の時にも放送内容が大きな問題になっていたが、フランクルターアルゲマイネ紙とは熾烈な関係が続いている。それはこれらの公共放送が一切触れようとはしない役人天国を保守系高級紙が暴くからである。まさにここにジャーナリズムの核心がある。今年載った記事では、このドイツ第二公共放送協会の組織を一望していた。その天下り先拡大のために信じられないほどの大組織を構成していて、メディアの牙城ミュンヘンでは二ケタ以上のメディア会社が何らかの資本関係を有しており、我々が知っているその名称の殆どがこの公共放送局の権力の及ぶ民営制作会社となっているのである。そうした官僚組織と政治、その政治力は世界中で同じように権益を握っているのである。

許認可権限を極力排し、自由市場で厳しいカルテル制限の下でのフェアーな競争こそが如何に重要であるかが、ここだけでも明白になる。税制の簡素化、組織の簡素化などまだまだ政府・官僚機構を小さくしていくことが重要かの見解はこれだけでもその正当性を示している。要するに、今回人民元の主要通貨化で懐疑があるのも、同じような道を反対方向から歩んでいるに過ぎない世界の構造が明らかになるからだ。今や、時期によっては日本円よりも使われることの多くなった人民元の今後を新聞は社説で扱う。このままの体制でつまり自由な開発などは出来ない社会の通貨という捉え方である。それは工業先進国でも、上のような官僚構造が社会を蝕んでいる限りは、同じことである。つまり、シナ人の88%が「シナでは誰も信じられない。」と考えられている社会認識である。

この記事には、未だに国際競争力のある車を作れない事、アリババ社が国際戦略を断念した事や、シナのアイフォン「古米」が殆ど西側では知られていない事、反面、シナ人は英国で原発建設を請け負い、ドイツ連邦鉄道は列車をミュンヘンのジーメンスではなくて、北京の国営企業に発注することを検討している事など、シナの財務相がまだ道半ばとした事への半信半疑の感想を述べている。

最近聞いた話では、空港に向かうタクシーの釣銭に人民元の偽札が使われているという事である。気が付いた時には出国しているという寸法である。国際化の中で今後こうした偽札作りも規模が拡大していくものと思われる。まだまだ話題が絶えない中共である。



参照:
滅私奉公と勧善懲悪 2007-03-17 | マスメディア批評
花冷えも復活祭まで 2014-03-23 | 生活
過剰なのは海草摂取だけか 2012-11-21 | マスメディア批評
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おとなしいグレードアップ

2015-12-03 | 
掃除の準備もあって夜更けまで作業をしていた。先ずは、配達されたスピーカーコードの長さなどを調べる。今まで使っていたものは4Mあるのには驚いた。差しで計り、2.5M強で十分と見積もっていたからだ。それでも5M発注して足りなくなる可能性があったから10Mのを注文したのだった。17,90ユーロだった。

そこから3Mを左右二本を切り取ることにした。メートル毎に印が入っているのでそれが一番良い。残りは4Mになるから予備も出来る。さて、なによりもコードの引き回しに気を使って、同時にスピーカーの出口の周りでコードをゴム製ワッシャーで固定するために、壁につけてあるマウントを分解する。システムを設置してから初めての取り外し作業であった。

中は汚れがないので新品のようだった。配線を済ましスピーカーを設置する。コードの中の一本一本の銅線が0.07MMと細めなので一本も失わない様に慎重に外被を剥く。更に銅線が汚れない様にマイクロファーザーの眼鏡ふきなども駆使する。実際は、それ以上にスピーカ側のターミナルが汚れているのだが、それを分解して掃除するまでの時間的余裕はない。

コード自体は以前のものより平たく、予想以上に太くしっかりしていて、重量もあるので良さそうなのだが、どのような音になるかはあまり予想がつかなかった。綺麗に敷設して接続して、いよいよ音慣らしである。

先ずは最近よく流している実況ものとかを鳴らすのだが、期待していたほど新鮮味がない。これでまた自分の耳の事が気になってくる。実際その後にもう一度20歳ほど若い女性と一緒にモスキートテスト(音量注意)を繰り返してみた ― 結果は年齢の違いが出ていて、彼女は16KHz超えまで音としてしっかり聞こえるのだ。結局CD以上の周波数に求められるのはアウラであり、やはり芸術にとっては重要な要素という話になる。

それでも録音場所などを良く熟知しているCDを鳴らすと、明らかに今までとは違う面が聞こえて来る。なによりも音場の反響などが、壁に当たって戻ってくるスピード感を以てよく分かるようになって、それ以上に低域から中域の繋がりが今までにないほどよくなった。要するに音が張り出すでもなく、引っ込むでもなく、音の芯が出来たというか、音の密度が上がり、オペラ歌手の口元の動きなども分かるようになったのである。それによって音のバランスが変わった。

そこで今まで上げていたトレブルを戻してみる。そして音量をもう少し上げてみるとどこまでも自然な鳴りが変わらない。同時に音量を下げてもあまり違和感が無く実体感が失われない。そもそもシステムの問題と思っていたものが無くなり、今までの若干ラウドネス気味のつまり高低を若干上げた形からより周波数がフラットになる再生が可能になったようだ。

ここ暫く気になっていた高周波数はその影響からか以前ほど清涼感としての強調が無くなって、倍音成分よりもむしろ音楽の基音が綺麗に聞こえるようになった ― 楽譜が書き取れる方向である。表現を変えると落ち着いた響きになったというのだろうか、もしくはHiFiに近づいたとしても間違いではないだろう。

夜更けまでこのような作業をするのは久しぶりであった。但し嘗てのオーディオ趣味の時とは違って、知っている音源を片っ端から聞き直してみたいというような衝動にも駆られない、とても大人しいグレードアップであった。古楽器などの質感がとても嬉しい。ピアノのタッチの鍵盤の動き感もよく、何よりも音が飽和する感じが無くなった。



参照:
ネットで耳のチェックをする 2015-12-02 | 生活
原音再生を意識させるCD 2014-08-08 | テクニック
影に潜む複製芸術のオーラ 2005-03-23 | 文学・思想
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