新聞を見ると日曜日のコンサートの前触れ記事が土曜日に出ていた。この新聞ではとても珍しいことである。イヴァン・フィッシャー指揮のブタペストの祝祭管弦楽団のツアーに関してである。そこでいつものおばさんは、政治的な問題のあるハンガリーの政権に対して、同僚のピアニスト、アンドレーシュ・シフのように国内演奏を拒否するでもなく、ベルリンとブタペストで活動を続ける指揮者の事情をインタヴューして説明している。
それによると、反政府の立場ながら、反ユダヤ主義はどこでもあるような有り体のものであって、それよりもロマなどの民族へのそれに気を付ける必要があるとしている。要するに、ブタペストのオルバン政権も東京の安倍政権と何ら変わらない。琉球人への民 族差別よりは、ユダヤ人へのそれは遥かに大したことがないと言うことだろう。
その歴史的な背景が短く説明されていて、ウクライナ同様にハンガリーもナチス政権の傀儡となるような立場にあって、そこからユダヤ人が多く護送されたこと、メンデルスゾーンのようにブタペストとしては裕福なフィッシャー家においても、父親サンドールは収容所の生き残りとなり、祖父母はそこで亡くなったことが語られる。それでも、嘗ての忘れ去られているジナゴークなどにおいてコンサート等を開くことで、ハンガリー市民に歴史を知ってもらい、音楽を通じての理解の輪を広げる活動をしていること、それどころか自費で国境に屯する難民のためにトラックや寝具、食事などを手配しているという。
兄のアダムも指揮者であり、本人もブタペストの名士であることから、同時にそうした公共の活動を繰り広げており、ピアニストのコチシュとともに創立した祝祭管弦楽団も六割の助成で存続しているという。まだ64歳と若く、名前は大分以前から有名だったので意外だったが、ベルリンの交響楽団を指揮しているようだ。特別な楽器配置をもって音響に配慮しているという。
ヴィルヘルム・フルトヴァングラー指揮のエロイカ交響曲をYOUTUBEで見つけてダウンロードしてみた。音を整えてあるのでHiFiサウンドで聞いてみてくれという投稿である。1952年12月8日のティタニアパラストでのフィルハーモニカ―の定期演奏会のようだ。有名な1944年のLPは持っていてもピッチが合っていない、また戦後のスタディオ録音LPもある。しかしこれは米軍進駐放送Riasのもので、今まで聞いたことがなかった。なるほどミニコムポぐらいのサウンドとしてはとても素晴らしい。
なによりも演奏の特徴がよく分かる。トレモロの弾かせ方やダイナミックスとかテムポとかだけではなくて、この指揮者が再三語っていたソナタ形式の和声のヴェクトルの向きがとてもよく分かる。改めて、今でも最高の名演奏と誉れ高い合唱交響曲演奏をバイロイト祝祭劇場での練習から本番まで聞いた音楽評論家ヨアヒム・カイザーの本を読み返す。しかしそこには、「ドイツ音楽の深み」や「戦時下の演奏」などという表現があっても肝心のサウンドに言及されていない。
そしてYOUTUBEのお蔭で、フルトヴェングラーの録音を色々と他の同時期の録音などと比較して聞くと、ある結論に行きつく。まさしく夢にまで見たフルトヴェングラーの演奏会の生の響きが想像できるようになってきた。そしてなぜか、フルトヴェングラーの残された実況録音は音質が悪い。例えばバイロイトの祝祭劇場での二週間前ヘルマン・アーベントロート指揮のものとでは大分音質が異なる。録音の方法が異なるのかもしれないが、フルトヴェングラーの人気と名声は圧倒的なものであったのにとても不思議なのである。
実際に戦前のSP時代でもこの指揮者の録音の質は悲愴交響曲以外はあまり良くない。そしてこのエロイカを聞いて理解できるのは、やはり管弦楽団の音が割れるということだろうか。それがどのように演奏されているかを考えればなるほどと思い、また伝え聞かれるように天井が抜けるほどの音とか途轍もなく美しい響きなどの突飛押しもないサウンドがどのように作られているかを知ることが出来るのである。
「打拍を綺麗に振って指揮する技術などは何でもない」と言い放った指揮者のその指揮ぶりや独自の譜読みやその実践への練習風景など ― それにカラヤンが評するように「躊躇しているフルトヴェングラー」を聞くと ―、その指揮するところの管弦楽のサウンドが分かる。しばしば言われるようなマイクロフォンに乗り難い音響でもあり、実際に粒の揃ったとはなり難いのである。
今夏のベルリンの新音楽監督決定やバイロイト祝祭での批評などから、「ドイツ音楽の深み」などという言葉が改めて囁かれており、そのサウンドを確かめる必要もあったのだ。なるほど、とても稀な場合であるがフルトヴェングラーのベートーヴェンの交響曲のやり方を知ってしまうと、これ以上何をやっても仕方がないとなる。大管弦楽団でああした古典派の交響曲を演奏するには、どれだけどのように揃うかという問題がはだかり、その後に合衆国でなされたようなやり方も特殊なものであることは今日から見れば当然である。フォン・カラヤンはアンティ・フルトヴェングラーとして伸し上がってきたことは確かであろうが、もはやベートーヴェン解釈では、誰一人としてこのフルトヴェングラーのような芸術的な成果は示すことはない。
なぜ今それに言及しなければいけなくなったか、つまりそうしたソナタ形式そのもの和声形式を準拠とする音楽の時代が漸く終わりを告げたことを感じるからで ― 面白いことにその意味からの集大成のような音楽つまりヒンデミットの「世界の調和」を上の演奏会では「エロイカ」の前に演奏していて、その録音もネットにあり、とても興味深い ―、ヨアヒム・カイザー教授がいうような「最も偉大な演奏家ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの時代」がここに来て初めて相対化されるようになって来たということである。
参照:
ふれなければいけない話題 2015-06-29 | マスメディア批評
嵐過ぎ去って、その後 2015-04-02 | 音
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音
それによると、反政府の立場ながら、反ユダヤ主義はどこでもあるような有り体のものであって、それよりもロマなどの民族へのそれに気を付ける必要があるとしている。要するに、ブタペストのオルバン政権も東京の安倍政権と何ら変わらない。琉球人への民 族差別よりは、ユダヤ人へのそれは遥かに大したことがないと言うことだろう。
その歴史的な背景が短く説明されていて、ウクライナ同様にハンガリーもナチス政権の傀儡となるような立場にあって、そこからユダヤ人が多く護送されたこと、メンデルスゾーンのようにブタペストとしては裕福なフィッシャー家においても、父親サンドールは収容所の生き残りとなり、祖父母はそこで亡くなったことが語られる。それでも、嘗ての忘れ去られているジナゴークなどにおいてコンサート等を開くことで、ハンガリー市民に歴史を知ってもらい、音楽を通じての理解の輪を広げる活動をしていること、それどころか自費で国境に屯する難民のためにトラックや寝具、食事などを手配しているという。
兄のアダムも指揮者であり、本人もブタペストの名士であることから、同時にそうした公共の活動を繰り広げており、ピアニストのコチシュとともに創立した祝祭管弦楽団も六割の助成で存続しているという。まだ64歳と若く、名前は大分以前から有名だったので意外だったが、ベルリンの交響楽団を指揮しているようだ。特別な楽器配置をもって音響に配慮しているという。
ヴィルヘルム・フルトヴァングラー指揮のエロイカ交響曲をYOUTUBEで見つけてダウンロードしてみた。音を整えてあるのでHiFiサウンドで聞いてみてくれという投稿である。1952年12月8日のティタニアパラストでのフィルハーモニカ―の定期演奏会のようだ。有名な1944年のLPは持っていてもピッチが合っていない、また戦後のスタディオ録音LPもある。しかしこれは米軍進駐放送Riasのもので、今まで聞いたことがなかった。なるほどミニコムポぐらいのサウンドとしてはとても素晴らしい。
なによりも演奏の特徴がよく分かる。トレモロの弾かせ方やダイナミックスとかテムポとかだけではなくて、この指揮者が再三語っていたソナタ形式の和声のヴェクトルの向きがとてもよく分かる。改めて、今でも最高の名演奏と誉れ高い合唱交響曲演奏をバイロイト祝祭劇場での練習から本番まで聞いた音楽評論家ヨアヒム・カイザーの本を読み返す。しかしそこには、「ドイツ音楽の深み」や「戦時下の演奏」などという表現があっても肝心のサウンドに言及されていない。
そしてYOUTUBEのお蔭で、フルトヴェングラーの録音を色々と他の同時期の録音などと比較して聞くと、ある結論に行きつく。まさしく夢にまで見たフルトヴェングラーの演奏会の生の響きが想像できるようになってきた。そしてなぜか、フルトヴェングラーの残された実況録音は音質が悪い。例えばバイロイトの祝祭劇場での二週間前ヘルマン・アーベントロート指揮のものとでは大分音質が異なる。録音の方法が異なるのかもしれないが、フルトヴェングラーの人気と名声は圧倒的なものであったのにとても不思議なのである。
実際に戦前のSP時代でもこの指揮者の録音の質は悲愴交響曲以外はあまり良くない。そしてこのエロイカを聞いて理解できるのは、やはり管弦楽団の音が割れるということだろうか。それがどのように演奏されているかを考えればなるほどと思い、また伝え聞かれるように天井が抜けるほどの音とか途轍もなく美しい響きなどの突飛押しもないサウンドがどのように作られているかを知ることが出来るのである。
「打拍を綺麗に振って指揮する技術などは何でもない」と言い放った指揮者のその指揮ぶりや独自の譜読みやその実践への練習風景など ― それにカラヤンが評するように「躊躇しているフルトヴェングラー」を聞くと ―、その指揮するところの管弦楽のサウンドが分かる。しばしば言われるようなマイクロフォンに乗り難い音響でもあり、実際に粒の揃ったとはなり難いのである。
今夏のベルリンの新音楽監督決定やバイロイト祝祭での批評などから、「ドイツ音楽の深み」などという言葉が改めて囁かれており、そのサウンドを確かめる必要もあったのだ。なるほど、とても稀な場合であるがフルトヴェングラーのベートーヴェンの交響曲のやり方を知ってしまうと、これ以上何をやっても仕方がないとなる。大管弦楽団でああした古典派の交響曲を演奏するには、どれだけどのように揃うかという問題がはだかり、その後に合衆国でなされたようなやり方も特殊なものであることは今日から見れば当然である。フォン・カラヤンはアンティ・フルトヴェングラーとして伸し上がってきたことは確かであろうが、もはやベートーヴェン解釈では、誰一人としてこのフルトヴェングラーのような芸術的な成果は示すことはない。
なぜ今それに言及しなければいけなくなったか、つまりそうしたソナタ形式そのもの和声形式を準拠とする音楽の時代が漸く終わりを告げたことを感じるからで ― 面白いことにその意味からの集大成のような音楽つまりヒンデミットの「世界の調和」を上の演奏会では「エロイカ」の前に演奏していて、その録音もネットにあり、とても興味深い ―、ヨアヒム・カイザー教授がいうような「最も偉大な演奏家ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの時代」がここに来て初めて相対化されるようになって来たということである。
参照:
ふれなければいけない話題 2015-06-29 | マスメディア批評
嵐過ぎ去って、その後 2015-04-02 | 音
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音