Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

濃淡が必要ない電光石火

2021-11-17 | マスメディア批評
(承前)ベルリンでの批評を読み聞きすると、場所や回数や日によっての相違と同時にどこを修正していっているかもなんとなく想像可能である。バーデンバーデンの編集された録音もベルリンでのそれもいづれ比較して聴くことになるのだが、興味深いのは焦点が少しづつ変わっているかに見えることである。

ベルリンにおいての公演では、処刑前夜の二幕第一景と三幕冒頭凱旋音楽とのコントラストに集約されているようだ。恐らくバーデンバーデンの二日目の方がドラマテュルギー的には成功していたに違いない。山が動いて来るのは今迄でもあり得るのだが、今回は演出がないという事で余計に嵌まらない面も多かったようだ。要するに一度上手く嵌まればそれが繰り返されるには舞台の流れが大きい。当然、そこに歌手がコンデションを合わせてくる。演出がないと音楽的な作りだけでは演奏に限界が生じてくる。演出が音楽に与える影響は大きい。

会場の音響の差は奈落と舞台上との差ほど影響はないのかもしれないが、フィルハーモニーなどのコンサートホールではより残響も活かした音楽づくりになっていたのだろう。フランクフルターアルゲマイネ新聞においてもRBB放送同様にカラヤン時代のチャイコフスキー演奏が当て馬にされている。そこでは、ペトレンコ指揮での権力と正義の間における硬で強健、軟と優しさの二極化の中での濃淡というものが必要なくなっていると書いている。これが何を意味するか?カラヤン指揮の特徴は極点に向けてのルバートでの表現とすれば、ペトレンコ指揮においては電光石火なテムポ変化が可能であって、最も技術的に卓越しているところでもあろう。

つまり、そうしたペトレンコにおける天才性こそがこのチャイコフスキーの音楽におけるドラマを生じさせている所以であって、今まで誰もできていなかったのはまさにそこである。そうした能力が有効に使われていたという事だけで大成功なのである。

ふと、ミュンヘンで監督として指揮したロシアオペラから「マクベス夫人」を流してみた。矢張り記憶していたよりも良い。ショスタコーヴィッチの語法にも慣れると余計にその上手さが分かる。ロシア音楽特有の息の長い箇所においてもリズム的な流れがしっかり刻まれているので、方向性を失うことがない。それは新聞においては、起こることの確かな方向性が定まり、緊張の弛緩を生じることなく、聴衆を引き付けてしまうので、大変な大喝采になるというのだ。

まさしくこれはペトレンコにおける正しいリズムの保持であり、楽譜に書かれているように音楽を運べる才能でしかない。楽譜を見ればわかるように、ペテルスブルクでもいい加減な指揮でお茶を濁しているように、チャイコフスキーの創作からそれだけの劇を読みだして音にできる指揮者が皆無であるという事を示しているに過ぎない。

バーデンバーデンのロビーで話していたように、ペトレンコにおける電光石火のテムピ変化の威力は計算されてものではなく楽譜を忠実に音化するときに必要になるものであって、全ての指揮者がそこを目指して経験上やってしまっていることをペトレンコにおいてはマニエーレンしないでも解決されているに過ぎない。(続く



参照:
Der verlogene Zar einer unabhängigen Ukraine, CLEMENS HAUSTEIN, FAZ vom 16.11.2021
本物のチャイコフスキー 2021-11-15 | マスメディア批評
スーパーオペラへの道程 2021-11-10 | 文化一般
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言葉不要の高度な表現

2021-11-16 | 
承前)フランクフルトの「マスケラーデ」の宣伝を折があればする。その為にもいい評論があれば助かる。SWRのベルント・キュンツィックが気の効いた評をしている。11月始めに放送されているので、初日の評だと思われる。恐らく指揮者のエンゲルともコンタクトがある人だと思う。声は聞き覚えがあるがどういう人だったか思い出せない。

トビアス・クラッツァーの演出をして、そのゼルマイヤーの舞台の仕切りとドアを出たり入ったりさせることでアクションのあるブルヴァー劇場としていて、都市の小さな劇場的な舞台としている。その意味するところは、例えばペトレンコが指揮するようなスーパーオペラともミュンヘンの大劇場の大オペラとも対極である概念となるだろう。

それゆえにニールセンの日常生活の場面が音楽に正確に演出されていて、三幕の舞踊の場面の動きもそこに付け足された印象を与えないとしている。それでもコンセプショナルに新たな意味づけを行うことが避けられていて、凄い舞台と音楽的な愉楽が芝居の遊びとなっているとしている。これ以上何も付け加える必要はない ― 暴力的な深い意味も。

衣装を以て仮面舞踏会はゼルマイヤーの衣装で派手なお祭りになって、最後にはそこでは性の入れ替えなどが行われる。モラルを代表するかのような父親が自意識を攻防する。

音楽的には統一的なフランクフルトのアンサムブル一巡素晴らしく、指揮者エンゲルが座付き管弦楽団となしたことは圧倒的に模範価値があったとして、1906年の映画音楽とミュージカルのような楽譜であり、リリックに聞こえる音楽もストラヴィンスキーのアヴァンラレットル同様に棘があり、シャープで現代的に響く。当夜のフランクフルトの晩の珍しい作品への大喝采は正当的であり、ただただ素晴らしい音楽劇場だったと絶賛している。

本当に優れたエンターティメントには言葉も説明もなくてもしっかりと残るものがある。それがトビアス・クラツァーの演出ではないのか。特に音楽劇場のその音楽は言葉で説明されるものである必要がない。純粋に音楽的な価値がある。それをエンゲルの指揮が否応なく示している。

この批評はとてもその点を言語化に成功していてとても質の高いものだと思う。批評も制作と同じように表現に貪欲でなければ為らない。



参照:
Raus aus dem Mauerblümchen-Dasein, BERND KÜNZIG, SWR2 vom 2.11.2021
Grandiose „Mazeppa“ im Festspielhaus Baden-Baden, Jürgen Kanold, Schwäbisches Tagblatt vom 12,11,2021
長短調システムの精妙さ 2021-10-30 | 音
赤い風船が飛んでいく高み 2021-10-29 | 文化一般
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本物のチャイコフスキー

2021-11-15 | マスメディア批評
バーデンバーデンでの「マゼッパ」公演の批評が出ている。その後日曜日にベルリンでも演奏さられたが、バーデンバーデン同様に、恐らくそれ以上に入らなかったようである。理由は分からないようだが、チャイコフスキーのオペラへの認識が低いという事でもあろう。よって、今迄フィルハーモニーで演奏された最高のチャイコフスキー演奏だったとする評価は正しいのだろう。

誰もがフォンカラヤンのそのレガートの効いたクリーミー演奏と比較してペトレンコの鋭い演奏は、イタリア化を避けと考える。なるほどペテルスブルクの本拠でのゲルギーエフ指揮「マゼッパ」も全くヴェルディの様な演奏でそのようにしか歌われていない。発声もベルカントではなくて圧を掛けた歌唱が本来のロシアンオペラであってという事らしいが、指揮者自体がヴェルディとチャイコフスキーの差を理解していないようであるとお話しにならない。

今回の「マゼッパ」は本来は昨シーズンの復活祭で上演された筈であったのだが、奇跡的とされるように、順延スケージュールを押さえていなかった多人数のロシアからの参加と、厳しいPCRをして、更に当初は500人しか入場できなかったところで成しえた公演の価値はあまりにも貴い。当然のことながら興行的にはペイしないところを皆が支えた訳である。

そのようなことで、今回の「マゼッパ」からヨンチェヴァが歌う「イオランテ」のコンサート形式、そして愈々アスミク・グリゴーリアンが歌う「スペードの女王」歌劇上演へと復活祭へと向けて集中的なチャイコフスキーのルネッサンスへと進んでいくことになるのであろう。

常設レパートリーの関係もあったろうが、キリル・ペトレンコが監督時代にはロシアンオペラをミュンヘンでは振らなかった。しかし、ロシアと深い関係があり、そしてユネスコの世界遺産に一部となったカジノを含むバーデンバーデンでその幕が一年遅れて上げられることになるのである。

演奏者側も祝祭劇場もそして我々にも準備は整って来ていると思う。先ずは、SWRで収録されたその放送やまたまだ今後復活祭へと向けて、様々な話題が生じてくるだろう。



参照:
Grandiose „Mazeppa“ im Festspielhaus Baden-Baden, Jürgen Kanold, Schwäbisches Tagblatt vom 12.11.2021
KIRILL PETRENKO UND DIE BERLINER PHILHARMONIKER: "MAZEPPA", Kai Luehrs-Kaiser, RBB vom 15.11.2021
白髪のマゼッパのこい 2021-11-15 | 音
心拍52でノンレム睡眠落ち 2021-03-16 | 生活



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白髪のマゼッパのこい

2021-11-14 | 
(承前)「マゼッパ」の演奏から振り返える。初日には燃料の補給などで道を間違ってガイダンスに遅れてしまった。それも予定されていた女性ではなくいつものポーランドのおやじが話していたので前半を聞き逃したのが痛い。其れでも重要な部分であるロマンツェを繋ぐようにオペラが構成されていて、基本のテーマであるお尻につけられる下降動機で特徴づけられていて、それが全てチャイコフスキーの声であるというのは分かりやすかった。恐らく前半はその動機の扱いについての話だったのだろう。

つまりロマンツェンを繋ぐのは合唱や民族音楽の舞踊や凱旋の1812年であったりする。そのように見ると至極単純な構造になっていて、三幕六景の小さなオペラでしかない。しかし楽器編成は大きくダイナミックスレンジも速度記号の振幅も大きい。

そのドラマ的な意味合いは金曜日にドラマテュルギーの女性から話されたのだが、核はプログラム冊子にあったケルスティング氏の文章をして自分が書いたものでないのが悔しいという落ちになっていて、結局はペトレンコのアドヴァイザーとそのコンセプトに従っていることになる。つまり、運命の動機で有名なそれはチャイコフスキーの同性愛からの社会的な取り繕いであったりで、彼女に言わせると作曲家がせめて偽装でも妻帯していたら仮の社会的な姿で安定していただろうとしていた。勿論その運命は作曲家を自殺へと追いやるわけで、これまたショスタコーヴィッチにおける仮面の社会的存在が連想される。

一幕のコサックの駐留大将マゼッパが大家の娘マリアを父親に請う時の音楽とセリフがこのオペラでの聴きどころとなっていて、父親が白髪男に純な娘をやれないとするだけでこの大ドラマが生じている。ここでのオーボエをはじめの木管の絡みなどもとても絶妙なのである。

二幕のマゼッパとマリアのデュオにおいても三十歳差の男女の心理がとても面白いのだが、ここでも二回目の上演では楽団に熱が入るようになっていた。残念ながら歌手が全てを引っ張るほどの力はなかったのだが、そういう時に特に声が出ない時のペトレンコのバックアップぶりもミュンヘンでのお馴染みのものだった。こういう本場を重ねることで座付き楽団の味を身に着けていくのだろうか。三幕の凱旋での演奏は初日の方が熱が入っていたのだが、最終日には既に二幕までで十分に盛り上がっていたのですんなりと通り過ぎていた。因みに舞台裏のバンダを振った女流のアシスタントは両日とも指揮には精彩がなくて、リニヴなどとは比較にならない。そしてフィナーレでは最後に敢えて高く枯らし声を初日に出していたのだが二日目には抑えていたのだろうと思う。声を潰してはどうしようもない。(続く



参照:
スーパーオペラへの道程 2021-11-10 | 文化一般
「ありの侭の私」にスポット 2021-11-05 | マスメディア批評
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スーパーオペラへ熱い思い

2021-11-13 | 文化一般
(承前)秋に順延された小復活祭が無事に終了した。最終日はコンサート形式ながら合唱団、大管弦楽団、ロシアからの歌手陣などバックヤードを含めるとかなりの関係者がいたので万全ということはありえなかっただろう。

ロビーで声を掛けられたら、仕事の関係者ではなくて、ワイン試飲会で出合った人だった。カールスルーへに住むその夫婦もキリル・ペトレンコが正式に就任してからの初のバーデンバーデンでの指揮と認識していて、以前にはチャイコフスキーの五番を聴いていたらしい。そして、その音楽性に、あまり慣れていない作品「マゼッパ」を取り上げての運動性の高くそして同時に繊細な音楽に感動していた。因みにティーレマンのベートーヴェンは駄目で、クレンツィスには若い人も熱心なのでいいと話していた。だからショーかそうでないかの違いだと示唆しておいた。更に来年の「スペードの女王」はまだ購入していなかったようなので、アスミク・グリゴーリアンの名前を強調しておいた。その作品は劇場倒産後にゲルギーエフ指揮で観たからと話していたので、ヴィデオでもいいものはないよとまたこれも示唆しておいた。

そこで話したように、今回の「助走」で来る復活祭へのある程度の予想が可能になった。二回の公演とまた日曜日のベルリンからの中継でも確認できるだろうが、ペトレンコがミュンヘンでやっていたのと全く同じような制作の作り方がここでも踏襲されていて、予想通り初日と二日目金曜日では、歌手の出来不出来などを超えて、修正並びに完成へと進んでいた。

なによりもこの一連のペトレンコ指揮復活祭音楽祭即ちスーパーオペラを支援するオーナーやパトロン、常連さんの大きな期待と支持が示されたのが大きい。私が知る限りパトロン席でスタンディングオヴェーションがあったのを初めてである。偶々寄付者招待席でバルコン中央の端に座っていたので、その意思はよく伝わった。そのサイドブロックの端にはスタムパ夫妻がドアーボーイの様に陣取っていたが、演奏者やペトレンコなどと同じように手応えがあったのではなかろうか。

個人的には、この劇場が築かれた基礎理念にあるように、如何に聴衆の程度をミュンヘンなどのオペラの殿堂に近づけるかに留意してきたが、半年後に上演されるスーパーオペラに相応しいだけの聴衆の核は揃ってきていると感じだ。まだミュンヘンなどに比較すれば数分の一かもしれないが、徐々に援軍を含めて固まってくると思う。既に外国からの訪問者も戻ってきているようで、海外からの訪問者待ちとなる。

ペトレンコのオペラ指揮は、ベルリナーフィルハーモニカー自身でもどのような成果になるかは分からなかったであろう。つまりどのような劇場空間を表出させるかである。それは会場で体験しないと分からないもので、舞台の上でも練習を繰り返しても分からない。座付き楽団の様に毎晩のように奈落で演奏していれば、それは総稽古でもある程度分かるのかもしれないが、フィルハーモニカーはアバド以来長く本物のオペラ公演からは遠ざかっていた。
#BerlinPhilTour | Mazeppa in Baden-Baden DE


そしてペトレンコのオペラ指揮は、アバドのそれとは大分違う。そのものスーパーであるからだが、今回も水曜日には一幕などでも若干ガタガタしておさまりが悪かったところが、演奏者自体の入り方も含めて、収まるようになって、フィナーレを待つまでもなく劇場空間が広がりだした。コンサート形式でそれを得ることは容易くないと思うのだが、情景やそのドラマに空想の翼が羽ばたき出すのである。まさしく、ペトレンコ指揮のオペラの特徴は、従来の劇場における劇性の空間ではなくて、あくまでも音楽的な空間である。交響楽などと異なるのは同じ形而上の理念を提出するにしてもアプローチが異なるということでしかない。

春に全て仕上げておきながら先週再び総稽古をしてという入念な準備の理由が知れた。評にはベルリンの倍以上の入場料金でリハーサルを払ったのかとかあったが、そんなものでは足りない。熱い篤志家と熱心な幅広い支援の賜物であって、それをどのように実らせるかでしかない。詳細をメモを辿りながら、読み解いていきたい。(続く)



参照:
スーパーオペラへの道程 2021-11-10 | 文化一般
ロマンティックな芸術の意 2021-11-08 | 文化一般
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初めてのコロナ検問

2021-11-12 | 生活
冬籠り部屋に移った。我慢して大きめのヒーターを点けっぱなしにして寒いよりも、小さな部屋で小さなヒーターで温まる方が燃料倹約して更に身体にもいい。我慢にも限界がある。来週ぐらいには年内最後の散髪もしておきたい。そろそろ混む頃である。予約を取らなければいけない。状況次第では散髪にも行き難くなるかもしれない。人よりも早めに動くことが必要だ。散髪は場合によればテストが必要になるかもしれないので、接種済みだけで仕上げておいた方がよい。

新しいノートブックを初めて上に持って行くことになった。心持小さくなった分小さな机の上にも置き安くなった。汚れないようにカヷ―をするとかに留意すればよい。キャスティングしてみて気が付くのは音質が上がっていることで、これは転送が5Gになっているからではないか。なんだかんだと、条件が悪くなっていても耳に新鮮なのでそれはそれで面白味がある。

コロナ関係では、欧州の一部では部分的にロックダウンが再導入された。それに関してか、バーデンバーデンからの帰りに初めてコロナ検問にあった。車の番号で其の儘通されるかと思ったら停止を命じられて、質問された。バーデンバーデンからワイン街道にトランジットということで御免になった。服装やら見れば分かるようなものだが、少々疲れ顔でも面倒なところからの帰宅の様には見えなかっただろう。

各地でも反対運動が激しく起きたようだが、ドイツの場合は接種への説明としてロックダウンをしないという政治的なステートメントが活きているので、ロックダウンをすれば諸刃の剣となって、誰も従わなくなるだけでなく、今後接種を新たにする人もいなくなる。だから政治的な敗北となって新政府がそこから始めるわけにはいかない。計算上はクリスマス前が厳しくなるようで昨年と同じである。

根詰めて、6月のオペルンフェストシュピーレからのオペラと演奏会への通う日程を全てこなせた。数はまだ数えていないけれど集中度は高く、余りそれ以外の音楽などに耳を傾ける時間すらなかった。年内はまだ四枚にティケットがあるが、無事開催されてもそれほど面倒ではないだろう。次のベルチャ四重奏団演奏会も電話があって上を閉めるので席替えをしてくれということだったが、其の儘広い場所でやらなければいけないような状況になってきている。11ユーロの券だからどちらでもいいが、ショスタコーヴィッチの14番Fisは勉強しておかないといけない。そのあとの「マスケラーデ」は復讐、翌日のモーツァルトのソナタ、エルガーの協奏曲の復習、ラフマニノフの交響曲三番。その次は復活祭である。

そして屋根裏部屋に篭ることになって、この二年間ほどのプログラム類をやっと片づけられるようになる。片づけるつもりがどうしても捗らなかった。篭るのを遅らせていたのはこのことがあったからかもしれない。そして大きなヤマを越えた。

来年のルツェルン音楽祭のプログラムが送られてきたが、昨年までの一週間ごとに先行予約はなくなったので、後回しになる。オープニングツアーのマーラー交響曲七番は、恐らく秋のアメリカツアーに持って行かれるのではなかろうか。するとアルテオパーでも聴けることになりそうだ。どちらにしても適当な席で一枚を購入するのは難しくない。裏プログラムのショスタコーヴィッチの10番は練習から聴いているのでもう一度、今度はシニトケのヴィオラ協奏曲と共に聴くことになる。それ以外には、フィラデルフィアがラフマニノフやシマノフスキ―の協奏曲などを演奏して、クリーヴランドがブルックナーとグレートを相前後して演奏するので、近辺でよりいいホールでよりいいプログラムを聴ける可能性がある。

バイロイト音楽祭もあり、どちらかというと今年の様にベルリナーフィルハーモニカーで複数回同プログラムを聴くというよりも来年は集中的に復活祭が中心になりそうで、それ以外にはミュンヘンに二三度ほど出かけるぐらいになるだろうか。



参照:
スーパーオペラへ熱い思い 2021-11-13 | 文化一般
人生における省察の日 2021-09-09 | 音
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牛刀割鶏にならない偉業

2021-11-11 | 
スーパーオペラ「マゼッパ」初日の印象。結論からすれば、ペトレンコ指揮の復活祭の行くへは見えた。今回は舞台がないばかりか奈落も使われなかったが、それでもバンダやローゲでの金管演奏など、今後この劇場での芸術活動の一貫を予期させた。

個人的な感想としては、フォンカラヤンのオペラ上演を知らない事からの歯がゆさがあったのだが、これでベルリナーフィルハーモニカーのスーパーオペラの一端が垣間見え、音響的にも溜飲が下がった。ラトル指揮時代のそれとの大きな違いはカペルマイスターの基礎があるとかどうとかの初歩的な職人技術のお話しではなくて、後ろを振り返り指揮した三幕冒頭の「1882」ファンファーレの音響だけでもその差異は大きかった。

ラトル指揮「トリスタン」で最もその交響的なサウンドが話題になっていたのだが、まさしくその反対の密な音響であり。これは録音などに聴かれるカラヤン指揮復活祭オペラとも甚だしく一線を画する。所謂牛刀割鶏以上のことは出来なかったことへの挑戦でもあり、来シーズンまでプログラムに載せるショスタコーヴィッチ交響曲十番と並んで、ラトルのレパートリーを悉く塗り替えたように、そのものカラヤンの業績のリセットでしかない。

それはミュンヘンにおいてあそこまで執拗に追い続けていた劇場らしからぬ座付き管弦楽団の演奏を更に高度な技術的な次元で追求した形になる。遥かに柔軟で、そして声に寄り添うということになる。テキストに関しては今回はロシア語でありどこまで明白であったかという判断はつかないのだが、少なくともその音楽的なイントネーションの千変万化の多彩性には疑問の余地がなかった。狙い通り翻訳独語のテクストを読む事は叶い、それの音楽的な表情については限られた時間でお勉強をして、二晩目に挑むしかない。

同時に初日は、その券の売れ行き以上に惨憺たる入場者数であり、千人どころか数百人しか入っていなかったであろう。そうした影響を受けないでも初日一幕においてはいつものようにもう一つすっきりしないのはミュンヘンの時と同様であったのだが、そのフィナーレから休憩を挟んで二幕へと熱が入って来て、三幕では人数比では驚くべき喝采を受けていた。印象からするとミュンヘンでのペトレンコを知っているようなオペラ通もいた様子で少数ながらとてもいい反応は感じた。これで来年への聴衆側の礎は出来つつあると直感した。金曜日の二晩目で再確認することになろう。当然一幕からよくなってくる筈なのだが、交響曲等においてもの出来がり方が共通しているのが面白い。

どこをとってもその音楽のヴェクトルが明白で、いい加減な指揮者が適当な色付けだけで進むところを明確な創作の意義を感じさせることになる。それは作曲家自体が意識下においても無意識化においても運ばせるそのペンの勢いのような創作の息吹のようなものを聴かせるに等しい。そうしたところがこの指揮者における天才性の発露だと思われる。(続く



参照:
スーパーオペラへの道程 2021-11-10 | 文化一般
ロマンティックな芸術の意 2021-11-08 | 文化一般
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スーパーオペラへの道程

2021-11-10 | 文化一般
月曜日の日没前に頂上往復をした。とても時間が掛かったが、運動量は十分である。ドライヴや座業だけであるとどうしても胃腸の調子が悪くなる。それも一走りすると正常化するのは早い。それでも夜は足の先まで冷えたので入浴して床に就いた。ぐっすり眠れたと思う。まだ暖房をつけていないので寒いのだが陽射しがあると気持ちがよい。ここしばらくは暖房費節約で窓掃除の時期などを同調させると冬籠りを遅らせることになっている。これぐらい陽射しが入ると衣服や膝掛でまだいけるのではないかと思うのだが、後頭部がジンジンするようになるとやばい。

水曜日初日の「マゼッパ」のお勉強が忙しい。新たにマリンスキー劇場での映像を流した。序奏から最後までの構造が分かるような曲作りになっていることに気が付いた。このことは今回のプログラム冊子にもマルタ・クラスティングの文章としても挙げられていて、その意味が解説されている。詳しくは音楽的に詳細を見直していかないと確信は持てないのだが、大雑把な印象をそこに書いてある作品の改定などの経過として認識した。

ドラマの背景にある運命は、まさに作曲家チャイコフスキーこそがプーシキンの詩に直接もどり、その感覚を必要としたことであり、それは「この作曲家の交響曲をも通じて一貫している自身の同性愛での運命だった」とキリル・ペトレンコが語っているらしい。

Мазепа. Семенчук, Сулимский, Трофимов

ペテルスブルクのマリエン劇場のヴィデオを二幕まで見た。指揮は、そこの主のゲルギーエフで、いつものように横着な仕事をしている。それでも、適格に効果的に音を鳴らす手腕は流石で、練習無しにでも押さえるところを押さえるのが持ち味だろう。改めてこのプーティン支援者として著名なこの人物のプロフィールを見ると、カラヤンコンクールからキーロフの劇場で指揮している。ローカルな劇場の雰囲気とコンクールのそれが混じっている感じはつよい。それはいいのだが、その横着さが今でも続いていて、職人では全くなく商売人になっているところが受け入れられないのである。

バーデンバーデンでの先週のマイクロフォンリハーサルを見る限り、矢張りとても編成が大きく。個人的にもマーラーの「千人の交響曲」以来の迫力ある音響を堪能できそうだ。そこにソロのマゼッパの音域の広いこと。そして大管弦楽団を今度は奈落からではなく同じ舞台の上でその前で声を通す必要がある。更に舞台裏のバンダ迄ととても大掛かりである。これをしてもバーデンバーデンにおけるオペラ上演が今後文字通りス―パーオペラのスペクタクルなものになるのは予想に容易い。

初日は先ずはテキストも読み取りたいと思っている。登場人物の音楽的な特徴付けとか、それ以前にリズムの当て方が言語の特徴を出していて、シンコペーションなどの与え方でチャイコフスキーになっている。そしてやはり楽団の規模も大きい。ヴァ―クナーも想像させるが、それ以上に表情記号がffffにまで伸びていて、交響曲のそれと変わらない。ゲルギーエフなどはデュナ―ミックも全て無視していて、都合の良いように振っている。出かける前に三幕も通しておいて、もう一度確認しておく箇所を点検する。

少し高かったがバーデンバーデン往復の燃料を入れた。水曜日に時間があればより安いバーデンバーデンでももう一往復分を給油しておく。更にエンジンオイルも出かける前に配達になれば、先に入れたものと混ぜて注油しておく。現時点では気温は問題ではないが、合成のよりハイテクなものを入れておくのも不都合は少ないだろうと思う。

帰宅は23時を過ぎるので昼食をしっかりとっておきたい。予定ではレヴァー団子をザウワークラウトに乗せて食そうかと思う。帰宅後の夜食も考えておくぐらいでそれ程の問題はない。



参照:
二枚目の招待券を確保 2021-10-18 | 文化一般
お仕事させられるご招待 2021-10-16 | 文化一般
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ムルク谷へと降りて行った

2021-11-09 | アウトドーア・環境
ベルリナーフィルハーモニカーのバーデンバーデン滞在の写真が出ている。驚いたことにフランクフルトから其の儘乗り込んで、木曜日には練習をしているようだ。四日木曜日には合唱団抜きでマイクリハーサルをしている。つまり水曜日からペトレンコ以下管弦楽団とソリスツ陣は来週の土曜日まで滞在することになるのか。フォンタナ財団が出しているのはあるが、通常の復活祭と比較してとってもではないが経済的には成立していない。少なくとも個人個人は券の分を寄付したりして、売れない分だけは補填していると思うのだが、これは少し驚いている。日曜日のコンサートと「マゼッパ」は収録されるが、オペラ上演ではないのでArteが買うようではなさそうで、ムーティ指揮「レクイエム」のような保存版となるのだろうか?

練習風景の写真を見ると舞台の上奥に合唱のひな壇を作っていて、コンツェルトマイスターはダイシンが受け持っている。パユがフルートなどトップメムバーが乗っていて、予想したポーランドのマイスターは弾いていない。今回は帯同していないようだ。それにしてもラトルの時はベルリンで練習した後はバーデンバーデンでは舞台稽古に続いて総稽古だけだったと認識している。それに比較して、今回は舞台がないのに収録だけでこんなに時間を使っている。更にその週末にはベルリンから中継がある。珍しい作品であるので少なくともいいものを残したい意思は分かるのだが、春に完璧に練習した後でもう一度となると可也完成度の高い演奏になる筈だ。

週末のバーデンバーデン行はほぼ計画通りに進んだ。車のエンジンオイルが切れかけて、継ぎ足すなどの不慮の事はあったのだが、大事には至らないでいる。前回のミュンヘン行の後で減り方が急激に増えたのは大分燃え尽きてしまうようになったのだと思う。燃料高騰の中でオイルまで消費することになる。シュヴァルツヴァルトの谷のスタンドでそこにある15W-40を購入したが、低温では固くなるので、いつもの5Wを更に継ぎ足す必要もありそうだ。不凍液も入れておかないといけない。

朝の練習が終わって車を出すと11時頃だったが、トンネルを超えて向こう側のムルク谷へと降りて行った。お目当てのクロアチア料理のある街について、場所を探してレストランに入ったのは45分頃だったと思う。だから予約なしでもカウンターに座れた。点数が良かったので来たのだがソースがニンニクと赤いのが二種類で肉も飽きが来たので評判程ではなかったが典型的なクロアチア人で、上手に商売をしていることはよくわかった。そのためニンニクソースが後まで残った。チップを入れてビール二杯で24ユーロ程だったから、まずまずで価値はあった。支払いを済まして1時過ぎに店を出た。

おかげで小雨が降ってきても寒さを感じなかった。そうなるとゆっくり車を止めて休めるところ探しである。少しだけ谷を上ると小さな川向こうの村を見つけた。感で入っていくと、山の奥にスポーツグラウンドと墓がある一車線の道が伸びて行ったので入っていった。幸い対向車はなかった。その奥のグラウンドの横の駐車場で3時過ぎまで、音を出して楽譜を見ながら、膝掛を被って意識を失っていた。今しがた練習で指揮者のペトレンコが指示していた練習番号で内容を辿って行った。人の気配も車の音も聞こえない、天気もあるが今時オーストリアやバイエルンの田舎でも殆どありえないような静けさを得ることだ出来た。

4時過ぎには出ようと思っていたが、エンジンオイルが足りないことを確認して、早めにスタンドを探した。結局復路の谷超えはシュヴァルツヴァルダーホッホシュトラーセから降りて行った。久しぶりにブラームスの家の近くも通って祝祭劇場へと戻っていった。



参照:
ロマンティックな芸術の意 2021-11-08 | 文化一般
乾いた汗の週末 2005-06-20 | アウトドーア・環境
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ロマンティックな芸術の意

2021-11-08 | 文化一般
山をも動かす、「秋の小復活祭」前半が終わった。奇しくも予定されていた東京公演の為のプログラムが完全な形で演奏された最初で最後の機会となった。キリル・ペトレンコが正式就任しての極東凱旋ツアーと同じく、バーデンバーデンでも過去三晩、就任後初めての指揮であった。よって前半最終日も初めて聴いた人も少なからずあったと思われる。マインツからの車もあって、近郊から初めて祝祭劇場を訪問するような好事家が集まったようだ。

取りを飾ったショスタコーヴィッチ交響曲10番はとても多くのことを語っていた。そして圧倒的な喝采を受けていた。それはどいうことか?先ずはプログラムの逐一に触れる前に同じような状況を祝祭劇場で経験したことがデジャヴの様に戻ってくる。前任者サイモン・ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカー演奏会だ。ああいう熱狂はそれしかない。日本などでもお馴染みの光景である。そして、まるで嫌がらせの様にペトレンコがラトルのプログラムの曲目をリピートしていた意味の回答もそこにある。

今回のプログラムの真意をペトレンコのアドヴァイザークラスティングがプログラム冊子に書いている。それによると、フランクフルトでの一晩の「ロマンティック」を超えて、二晩のショスタコーヴィッチのそれまでを其処に括っている。天空の星空の様に「掴みたくても掴めない」とアルフレードアインシュタインの言葉を引用する。

スターリン時代のそれ以前の「鼻」から死後の交響曲10番、ここに西欧における工業化、官僚主義化した社会と小市民ビーダマイヤー文化の中で失われたそのファンタジーはより大きな現実のとの断層になる。そこでより発展した形である筈のイデオロギーの独裁者の下でエリートであり続けた作曲家の見かけ上の創作とその表現の二重の意味、曖昧な「私」がまさにこの創作であった。その意味からマーラーにおけるそれを次ぐロマンティックの範疇に置かれている。

午前中の練習は、前半の曲「スコットランド」が予定されていて、入念にレクチャーも行われるために一時間以上早く出かけたのであるが、実際には楽員が勢揃いしだして、ショスタコーヴィッチが練習に掛かった。冒頭ペトレンコは急な変更を楽員に誤っていたようだが、力の抜けた聴衆もいたであろう。実際には友会を中心に集められていたので、夜の演奏会と掛け持ちで出かける人がそれほど多くはないように思われた。だから定員の70人は集まっていたのだが、前夜から続けて出かける人は少数派だったろう。そういう町の人たちにとっては編成が大きい方が面白かったかもしれない。

なぜ多くの団員が朝から出勤しなければいけないのに変更になったのか。収録の為にこちらをやらなければいけなかったその内容は、あくまでも丁寧に表情をつけていくこと、各楽器間の奏法などで合わせていくことで、例えば二楽章の弦での抒情的な弦楽部分で緊張感を保つことや終楽章のコーダへのファゴットのソロの表情など、録音などでもやるように表現の足りないところを楽譜に忠実に音楽をさせていくことでしかない。その成果は本番を聴いた限り半分は達成されていたと思うのだが、指揮者としての誠実さでもあろう。そしてそこにソヴィエトが描き出される。

そしてクラスティングは、ヒンデミートに関して若い人に音楽を提供するとしたらやはり世代によって受け取り方が違うということを示唆している。つまりこの交響曲の場合も典型的で、冷戦時代を生きていた我々にとってはスターリン時代は知らなくともその表層的なソヴィエトにおける表現の仕方はとても実感としてよく分かる。つまりそうした今日から見たその歴史的な距離感を感じられないことには芸術的な意味などは生じないということでもある。

ベルリナーフィルハーモニカーがキリル・ペトレンコをシェフとして極東特に東京で示そうとしたことはこれでしかない。ロマンティックな音楽芸術のその意味。(続く



参照:
バーデンバーデン初日前夜 2021-11-06 | 文化一般
「ありの侭の私」にスポット 2021-11-05 | マスメディア批評
赤い風船が飛んでいく高み 2021-10-29 | 文化一般
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バーデンバーデン初日前夜

2021-11-06 | 文化一般
デジタルコンサート一週間券の資を取る。先ずはメンデルスゾーンも流した。9月16日のフェストの収録をプライムシートで聴いていたが、矢張りその時に思った印象と同じで名演だった。メンデルスゾーンの指揮がこうだったかと思わせるところもあり、歴史的にはアムステルダムのメンゲルベルクぐらいがこうした指揮をしていたかと想像する。書きたいことは沢山あるのだが、日曜日の朝練と本番の両方を聴いての感想に活かしたい。ペトレンコがベルリンで指揮した中で交響曲舞曲に続いて圧倒的だと思う。

続いて同プログラムの後半ショスタコーヴィッチ交響曲10番を聴いた。プライムシートの時には若干辻褄もはっきりしなく、更に技術的な傷もあったので、まとまった印象は得られなかったが、こうして編集されてアーカイヴになるととても立派な演奏だ。ペトレンコ指揮ショスタコーヴィチはミュンヘンでの「マクベス婦人」をどうしても思い出してしまうのだが、後任者ユロウスキーが語るように、本格的なロシア交響曲の後継者であることも思い浮かべさせる。二重の意味なども出来る限り其の儘にしておいてというとても丁寧な解釈で ― ペトレンコのマーラー指揮のセマンティックな解釈とは対照的である ―、矢張りムラヴィンスキー指揮などに近いと思う。音楽的にはとても程度が高い。作曲家の腕がそこかしこに透けて見えるのが素晴らしい。ある意味メンデルスゾーン演奏実践での時とも似ている。

このスコットランド交響曲とショスタコーヴィッチ10番も可也日本で話題になったと思う。表のプログラムに恥じないのを日曜日に確認したい。ショスタコーヴィッチに関してはマーラーの交響曲の影響を印象させるのだが、そのマーラーの手本にもなっているのはチャイコフスキーでもあるので隔世遺伝は当然のことである。それによって大分この交響曲への認識も変わる。

さて土曜日のバーデンバーデン初日を前にして、火曜日のアルテオパーでの大ハ長調交響曲と比較することになる。特に終楽章の展開部における指の体操音型前のパウゼへのクレッシェンド・デクレッシェンドやアクセントのダイナミックスが、「喜びの歌」からの流れでとてもすんなりと収まるようになっている。ルツェルンでも効果はあったのだが、アルテオパーでは明らかに一楽章が良くなっていたので、土曜日はもう少し全体的なプロポーションがよくなるのではないかと思う。ペトレンコ指揮の演奏会の同一プログラムに重ねていくのは、出来不出来以上に、特にこうした曲において俄然よくなってくるからである。同様にスコットランドもスカンディナヴィアから中継してもらいたいと思う。

さて恒例のお出かけの準備。先ず衣装は冬着にする。コートを着ずにとなるとそれしか方法はない。寒い。日曜日は一日中同じものを着ているとすると朝練と本番を同じジャケットで済ますことになる。ラフな感じで身体は寛げる。どうせ安い席であるから、それが賢いようにも思える。襟巻でもすれば、タイも要らないかもしれない。するとそのままサウナには行かないでも午餐を済ませて、履物さえあればシュヴァルツヴァルトを散策するのも一つである、二時間ほどは直ぐに過ぎる。すると熱いお茶とおやつが欲しい。昼に軽く飲んでもいい。両晩とも16時30分には劇場に入っていたい。要するにそれ程時間が余らない。15時ぐらいまで降らなければ助かる。

つまり土曜日は遅くとも15時過ぎには出発して、フランスのスーパーにもよる時間もないだろう。おやつに何を持って行くかである。土曜日の帰宅は21時過ぎになって、食事をして23時にはベットに入りたい。翌日曜日の朝は7時過ぎに出発なので、遅くとも6時起床である。出かける準備も土曜日にしておかないと間に合わない。まるでスキーにでも出かけるようだ。



参照:
ロマンティックな再開 2021-11-03 | 音
悪騒ぎしないロマンティック 2021-11-04 | マスメディア批評
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「ありの侭の私」にスポット

2021-11-05 | マスメディア批評
承前)トビアス・クラッツァーの新制作「マスケラーデ」をどう観るか?一度だけではなかなかとらえられない情報量なので、二回目の観劇を楽しみにしている。しかし主たる批評も出ていて、更に劇場の出来のいいトレイラーも出来上がっているので、早めに紹介しておこう。
»MASKERADE« Carl Nielsen


批評で一番良かったのは、矢張り高級紙フランクフルターアルゲマイネ紙で、またプログラムのインタヴューで本人が賢く語っているというものが的を得ている。

つまり、このもともとの1724年の原作での啓蒙主義やその社会への目線以上に、舞台劇としてはジェネレーションギャップとして扱うことが普遍的であり、近くでは68年世代として扱えるというものだ。実際にそのような舞台となっているが、作曲の20世紀初めにおいても同様な意識でもっと原作が扱われたというのも分かりやすい。

そこに新聞で書かれるように、老若男女が仮装で以て入れ替わるという構造が活きてくる。勿論その表現効果は現在においても話題のジェンダーであったりそしてジェネレーションとなり当世の関心事であると同時に普遍性を帯びる。その普遍性は音楽劇場での舞台として、見かけや社会的な概念よりも、ヴィデオで主人公の歌手が語るように「ありの侭の私」にスポットがあたり、観衆もそれに覚醒して家路ということでしかない。

実は、一連のミュンヘンのセレブニコフ演出「鼻」においても主題は最終的に社会の中での自我の喪失へと向かうのであるが、なぜか観衆は同じような何かをそこに見出すのではなかろうか?まさにこちら側が同じようなことに敏感になっていて、それはマーラーの交響曲9番においてもそうであり、ロマン派からヒンデミートの表現、それらに全て危うい実存が描かれているのを今更ながらそこに見出すという心理構造がある。恐らくコロナ禍におけるそれは社会心理となっている。

トレイラーでも、プログラムでと同じようにこれまた指揮者のエンゲルがとても上手に音楽的な構造を語っている。つまり我々世界中の人々が音楽においても長短調のトニカ構造に馴染みがある中で、そこから想定を外すような形で音楽が進む。それだけでなく音楽的に18世紀舞踊音楽の影響を、後期のヴェルディスタイルのデュエットなどを正しく表現すると同時にリズム的な推進力を重視して、今日的な言葉への新訳と詩的な韻が繋がることを中心にあるとしている。音楽的にはということである。よって、デンマーク語のそれが十分に表現されなければ音楽的に間違いではないかと危惧されたのだ。

新聞は、エンゲルの指揮は、ブルレスクな遊びと気持ちのこもる響きのバランスを確実にそして明晰に嗅ぎ取っていた。そしてニールセンの管弦楽における鋼のような直線性の意思を以て、調性とそこからの構文的なカデンツァからの逸脱が幾つかの場違いのようなレトリックとなっているのを決して否定的におかしくは響かさなかった。特に一幕の愉楽が続く場面のディアローグにぴったりと合わせてきていたと、この劇の流れを同時に示している。

これは同時にこの作品への評価であると共に、この制作の価値ともなる。しかし、それだけでは終わらない。それは、少なくとも現時点ではどのような音楽劇場作品であってもまた演奏会であってもコロナ禍以前の様なエンターテインメントの要素どころかそのもの自体が成り立たなくなっているからだろう。だからどうしてもそうした芸術的な催し物の意味や価値を誰もが無意識のうちに吟味してしまうという状況が今日起きていて、コンサート会場や音楽劇場がそうした市場部分を埋められずに満席にならないという状況の原因にもなっている。(続く
Teaser: »Maskerade« von Carl Nielsen




参照:
Nun sind alle, alle gleich?, JAN BRACHMANN, FAZ vom 3.11.2021
長短調システムの精妙さ 2021-10-30 | 音
輝く時へと譲るべき大人 2019-07-28 | 文学・思想
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悪騒ぎしないロマンティック

2021-11-04 | マスメディア批評
週末の工程が明らかになった。信じられなかったベルリナーフィルハーモニカーの朝練の時刻である。練習は10時始まりである。しかし、見学者は8時30分集合で、9時から9時30分まで課題曲「スコットランド」のオリンエンテーション。通常よりも少し長めなので、まあまあの内容になるだろうか。

9時半頃からホールに入ってなので、10時前にはキリル・ペトレンコが出てきていて、時刻通りに始まるのだろう。終了は10時45分頃の予定。

当夜の本番は18時始まりなので、17時には再び戻っていなければいけない。帰宅時間が4時間しかないので無駄になる。食事をすると昼寝の時間がない。燃料費は200km余分に走るので、33ユーロぐらいを見積もらないといけない。それならば、それに近い価格で部屋を借りれないか?帰宅しなけれな6時間近く時間が余る。風呂に入っても3時間ぐらいしか潰れない。天気予報によれば快晴にはなりそうにない。

結構忙しいのだ。間に先月末にあったデジタルコンサートホールの映像を観た。プライムシートで聴いた時より、パユの代打で入ったフランクフルトのHR交響楽団のフルート奏者が吹いていたのが目立った。矢張り女性奏者で視覚的な影響も大きいと思った。しかし演奏はしっかりしていていてよい。今回フランクフルト公演で入った人はプログラムも違うが地味な感じであり、嘗てのオーレルニコレのような音の人だった。但し少し弱かった。

日曜日公演のプログラムがアーカイヴになった。これでハイレゾで聴いておける。メンデルスゾーンは素晴らしい演奏でとても期待が高まっているが、ショスタコーヴィッチの方はまだ把握していない。先日の火曜日のアルテオパー公演とも若干共通するところは、そこではヒンデミートにおける二重の意味と、ショスタコーヴィッチにおけるどちらでも取れる意味合いの表現となる。

先日「マスカラーデ」初日公演でもう一つ冴えない批評を書いていた人が、アルテオパーでは「オベロン」序曲をして踊りの熱狂に爆発させないとして、悪燥ぎしないロマンティックとしていた。これは事実ペトレンコ指揮演奏においてはパトスとならない配慮がいつも通奏低音となっている。これはどういう意味かと言えば、記録者がネオロマンティズムと些か紛らわしい表現で上記ヒンデミートが独ロマンティックをパロディックに扱っている「メタモルフォーゼン」の当夜プログラムにも言及された立ち位置でもある。

つまり、ナチが政治利用した誇大妄想のロマンティックは、ここでは嘲笑の対象になっているというものである。同じ記録者が書いた日曜日の「マスケラーデ」に出場する「マイスタジンガー」の夜警にも表れていて、当然のことながら先週の新制作「鼻」へと通じていく。そして日曜日のショスタコーヴィッチ交響曲10番。(続く)



参照:
In schneller Fließgeschwindigkeit, Bernhard Uske, Frankfuruter Rundschau vom 3.11.2021
ロマンティックな再開 2021-11-03 | 音
エンゲルが降りてきた 2021-11-01 | 音
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ロマンティックな再開

2021-11-03 | 
久しぶりに大管弦楽を平土間中盤で聴いた。アルテオパーの平土間に座ったことはあるのだが、三桁近く通っていると思うが、今回の位置で聴くのは初めてだった。結論からすると上階の上まで音の特徴はあまり変わらない。視覚的には最奥は余りにも遠い。上階最前列との差は視角でその方が音響の差よりも大きいかもしれない。平土間の後ろのブロックは巨大な屋根が掛かるのでやはり違う。天井から下りてくる感じはいいブロックにはない。残響も比較的長めで日本のサントリーなどに最も近いかもしれないと思うと、本当ならば日本公演がこうして行われていたらどうだったのかという気持ちで聴いていた。

シューベルトは、折からのパユの後任お試しに関係するのかどうか、どこかで見たブロンドの男性が吹いていたのだが、平土間の席との関係でも木管群の響きの特徴に気が付いた。一楽章のコーダなどの掛け合いなどは木管の音色でどうのこうのではない。今回気が付いたのはここで木管群は引っ込んでしまうというものだ。パユが吹いたからルツェルンでは気が付かなかったのかもしれないが、齧り付きでも木管は見えない。但し舞台上と同じように上からの反射はある。平土間中盤では上からの様に視角で補えない。そこで思い出すのは指揮者ズビン・メータが木管群を弦の前に出して演奏させるという変則編成である。更に終楽章でも同様に効果が期待されるところもあったので成程と思ったのだ。

全体の印象の差異は、なによりも再演ということで、力が上手に抜けていて、表現の可能性が広がっていた。同時に再演初日ということで、もう一つ抜け切れなかった印象は致し方がない。しかし、前回よりも調性の移り変わりのシューベルトの妙を楽しめた。土曜日は更に離れて上から聴くので異なるものが聴けると思う。此の侭なのか、もう一越えするのか。一楽章が改善されていたと思う。また四楽章のゲネラルパウゼへのデクレッシェンドなどへの入り方が妙で感心した。とてもここで構成感が変わってくる。確認したいところだ。

一曲目の「オベロン」序曲をロマンティックの音として全体のプログラムに言及したのがアルテオパーでの元ベルリナーフィルハーモニカーの芸術顧問をしていた支配人の言だった。勿論のことホルンにも注目する。ドールのホルンが先日のショスタコーヴィッチ中継でも不安定だと話題になっていたが、明らかに彼は挑戦しているようで、自身の専売特許をかなぐり捨てでもその音色から表現の幅を広げようとしていると見た。マウスピースを替えるとそうなるのかどうかは分からないが、明らかに音色を模索している。とても暖かい響きへとシャープさよりも音楽的な響きを求めているのがペトレンコ体制でのフィルハーモニカーになってきているのではなかろうか。それによって最も色合いが出るのが長短の和声の移り行きであり、まさしく長い期間ベルリナーフィルハーモニカーの音楽に手薄となっていた響きではなかったろうか。

今回はヴィオラにはソロのグロースが復帰していて、明らかにヴィオラ陣に芯のある響きが戻っていた。これは今回の再演での大きな特徴で第二ヴァイオリンとの合わせ方も変わってきていて、丁度オペラで配役が変わるほどの変化を生じている。甲乙の問題でなくて、如何に表現に近づくかだろう。

その点、ヒンデミートのフォンヴェーバーによる主題によるメタモルフォーゼンは今回初めてフルプログラムとして聴いたが、当夜のキエンツレ女史のプログラムの文章と共にとてもよく、喝采もあった。その文章の中に、マーチにおける、殆どハリウッド映画の様だともされる曲の主題が葬送の主題であり、ナチに新世界へと追われた作曲家が「ロマンの響き」にあっかんべーをしているというのだ。それは丁度オベロンのプックなどの悪戯がシューベルトの木管の響きであり、そしてここでもとなる ― 因みに夏のツアーではそこに裏プログラムでスークの妖精が登場していた。

そして今回のアルテオパーでのプロフラム単体でロマンティックを示したというもので、こうなるとバーデンバーデンも頑張って貰わないと、アルテオパーよりも知的に落ちてしまうことになりかねない。日本旅行にも準備していた秋のツアーのショスタコーヴィッチの表プログラムと裏表で一体何を表現しようとしていたか、これが週末には明らかになる。

支配人ファイン博士が語っていたように一年半の期間をおいてようやく2000人規模の演奏会をフィルハーモニカーで再開した。これで終わりではないが、杮落としがカラヤン指揮のベルリナーフィルハーモニーカー公演であったことなどを含めて、一堂に会した聴衆がスタンディングオヴェーションで祝福したのも当然であったろうか。



参照:
大河の流れのように 2021-09-05 | 音
「夏のメルヘン」の企画 2021-09-01 | マスメディア
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響きそうなアルテオパー

2021-11-02 | 
愈々佳境に入ってきました。今晩はフランクフルトのアルテオパーでベルリナーフィルハーモニカーを迎える。ルツェルンでは休憩の無い短縮プログラムで聴いたシューベルトで、ヒンデミートのヴェーバーの主題による変奏曲を初めて聴くことになる。ヴェーバーのオベロン序曲もルツェルンでよりも上手くいかないかと期待する。なによりも座席が平土間のいいところ辺りに席替えしたので、どのようなバランスで鳴るのかとても楽しみだ。

更に当日でもまだかなり席が空いている。倍に増やして売り出してから一月も経たないと千席などは簡単に売れないということである。これでより会場が響くことになった。少なくとも平土間の前半ではいいのではなかろうか。今後ともあまりこういう機会は無いと思う。

同じプログラムは再び土曜日に聴くことになっているので、先ずはヒンデミートだけでも押さえておきたい。同曲への馴染みは嘗てのフルトヴェングラー指揮の名盤でしかなかったので、生で聴いた覚えがない。ヒンデミートの鳴りは分かっているつもりなのだが、さてどうなるか。ザルツブルクなどでは評判になっていた。

これで兎に角、明日からは日曜日のショスタコーヴィッチとメンデルスゾーン、そして来週の「マゼッパ」とお勉強しないといけない。私のような人間には繰り返し出かけるとなると、そのお勉強のステップが一つづ上がっていって、ハードルが立ち塞がりアップアップになる。

「マゼッパ」で歌うオルガ・ペレチャトコがインタヴューに答えている。どうもペトレンコとの共演も今回が初めての様である。ペトレンコが現在望みうる最高の配役というからには余程知っているのかと思っていたが、どうも客席でしか見たことがなかったのか。それで春には復活祭で上演できるまでに練習をしたという。そこで、「練習で細かなところまで拘わるが、そこには意義があって、総譜から特定の箇所で、ある音色を引き出し、それで強いコントラストをつける。それを逐一楽団に説明するので、とても為になっている。」。

「二三カ月、春の仕上げから置いといて、新たに取り上げたので、演奏解釈的にももう一つ違う水準に達している」と語っている。

今日のフランクフルトは冷たい雨が降って寒そうであるが、夕刻には上がりそうで、車の運転でも視界は効いた方がよい。衣装は寒いので厚着にしようか、面倒なので其の儘とも思う。冬のコートを羽織る程ではないところが難しい。

日曜日に要らぬ時間の掛かったナヴィの調整をした。問題は、音のアナウンスで聴いていた音楽が止まってしまうようになったので、使えなくなったことである。それを元通りに戻すにはダウンデートするしかなかったので古い春の時点に戻した。それで元通り音が重なるように使えた。しかし知らないうちにアップデートされていたのだ。そこで再び元に戻して、同時に自動的にアップデートできないようにした。

アプリケーションと呼ばれるものの殆んどが定期的にアップデートの投資をしているのは、収益率を上げるためだけであるのは当然であろう。つまりユーザーに取っては強制的に何とかという不都合な結果でしかない。だから要らぬアップデートをしないように予め設定しておくしか方法はないのである。



参照:
二枚目の招待券を確保 2021-10-18 | 文化一般
いいところを突く 2021-09-07 | マスメディア批評
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