Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

時代遅れの安定成長感

2023-08-17 | 文化一般
ヴェルナー・ヘンツェ作「メデュサの筏」のヴィデオを流した。オランダでの上演の映像で、オラトリオでありながら演出をカステルッチが行っている。通常の奈落で演奏して、舞台の上の紗に映される映像とその奥での動き、そして主人公に、語り手、そして女性が登場人物である。

予想以上に漂流の場面が多くそのあとのカニヴァリズムなどはテキストで表されている。その音楽がやはり重要で、上の制作では音楽的な雄弁さはなかった。これが第一印象である。

音楽的ドラマに欠けるのは全て指揮者の責任で、主役のスコーフスは、昨年五月での「ブルートハウス」での活躍通りにここでも素晴らしい歌を披露していただけに残念だ。なによりも全体の繋がりやその位置づけが見えない演奏ではどうしようもない。指揮者のメッツマッハ―は、先日のザルツブルクでのマールターラー演出「ファルスタッフ」でも木偶の棒だったようなのだが、ヴィーナーフィルハーモニカーともマールターラーとも仕事をしているということでの適任だったのだろう。調べるとモルティエの下で音楽監督をしていたということもあるようだが、博士の遺稿集には一か所だけ数人の指揮者クレンツィスやヘンゲルブロックと並んで挙がっている。

つまり劇を展開する為の舞台の演出に対応して指揮が出来るということらしいが、今まで少し聴いた「アシジの聖フランシスコ」などの録音では信じがたい。そもそもフランクフルトのアンサムブルモデルンと称するその名の通りモダーンな音楽を奏でる専門団体から始めた指揮者であり、その楽団が当時の無機的な響きを求めた団体として一時期活躍したそのものの、音楽を、その老人化した団体同様にこの指揮者もそれを繰り返している。丁度演出で言えばコンヴィチニ―とかの仕事同様に冷戦末期の安定成長の趣きがあって、そのイデオロギーと共にとても時代遅れ感が甚だしい。

しかし同時に興味深いのは、まさしく68年時代のこの左翼作曲家の仕事とそれがどの様に今日受け取られるかということにとても関係しているということでもある。楽譜も何も見ずに、モニターのスピーカーで流しただけであるが、まだまだ読み込まれていないところがあったと感じた。要するに経過がないのである。

メッツマッハ―の指揮は、アンサムブルモデルン以外では一度フランクフルトで、ザルツブルクでの大成功から引き上げて来たマーラーの交響曲6番を老齢のギーレンに代わって指揮した時に聴いたが、その時の記憶と符合する面が浮かぶ。兎に角局面局面は明晰に音にするのだが、経過がないという時間がない芸術のような趣だ。なぜか若干カンブレランにも似ている。

上の場合はドイツ語歌唱であり、その点は流石に上手に抑えていると思ったのだが、言うなれば、それが劇的なドラマテュルギーになるような音楽作りが出来ていないのである。要するに楽譜から作品の全体像が音楽的に読み取れていないということに尽きる。



参照:
高度な音楽劇場の背景 2023-08-15 | 文化一般
純愛を習ったのは君から 2023-03-15 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安売りブランドで愛嬌

2023-08-16 | 生活
気温の変化が身体に堪える。目の下の隈も一進一退だ。よく分かるのは薄着をするようになると直ぐに腹具合が悪くなる。以前よりも敏感になったのはジーンズのサイズを落としたことでも分かる様に腹巻代わりに脂肪が少なくなっているからだろう。運動量は足りていて、心拍数も落として走れる様になっているので、糖尿や心臓への負担は少なくなっている筈だ。秋に入って来て、但し朝が少し時間が掛かるようになった。夕食も早めに終えるようになって、胃腸の調子はよくなる筈なのだが、それ程さっぱりはしない。寝室の窓を閉めて寝れるのはとても嬉しいが、夜中にうっすらと汗を掻いていた。

床屋に行く時期も考えておきたい。ルツェルンからザールに廻って、ベルリン行く前にもう一度短くしておくと11月の寒さの前にもう一度いけるかもしれない。冬の間は出来るだけ散髪に行かないようにしたいからだ。なによりも散髪に行く時の薄着が目立つようになるからだ。

ルツェルンに出かける前にエンジンオイルを発注しておいた。春に購入したものでは粘度が薄いので若干不安になってきたからだ。二本買ったのだがもう一本は冬に使えるかどうか。その序に買い物を見ると長袖パジャマが見つかった。毎年の様に購入しているかにみえるが、本当は夏用を購入するつもりだったが、それ程長くは要らないから来年用でよいかもしれない。

それに引き換え冬の長袖のものは、一度洗濯すると乾きも悪く、更に夏の様に何かを身に着けているというのだけでもない。下着では寒くて眠られないので、快適な長袖長ズボンが必要となる。そしてその分価格も張る。だからシーサーの新しいブランド名のものが30%オフで29ユーロであるとどうしても手が出る。大き目の54であるが、最大56まで使ったことがあり、現在はMの50も使っている。だから気にならない。下着でもXXLまでは使うのだが、パジャマの場合は裾と袖の絞りがあるかどうかが大きく、どんなに長くてもそこにゴムが入っていれば私より太い奴はそんなにいないので、最悪ピエロパジャマになって身体が楽になる。反面厳冬期には首周りの開きが大きく寒い思いをする。先ずは秋口に使いたい。

昨年の復活祭のハイレゾは音響的にも凄まじかった。全く異なる三カ所で四回の公演を観劇したのだが、特にフィルハーモニカーがあの公演でバスの出し方を掴んだというそれが劇場ではところどころ若干重かった。恐らく減衰が悪かったのだろう。しかしマイクに録られた音響はその影響のない直截なもので素晴らしいバランスで鳴っている。見事というほかない音響である。

週末にベットの上の子猫のことをチャットパートナーに書いた。「君のベットの上に座っている子猫はあの日眠たそうにしていたね。あそこは僕にも、気持ちいいに違いないよ。僕があんな風にスイートだって、君は信じていないかな?」と作文した。休み明けに、Yes :) とあったので、一先ずアピールが出来ただろうか。子褒めと同時に、自らの宣伝だ。



参照:
布団生地に惚れてしまう 2023-08-14 | 女
面倒は御免なやり方 2023-02-28 | 雑感
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高度な音楽劇場の背景

2023-08-15 | 文化一般
残り二週間程になった。準備を進めて行くしかない。レーガー作曲「モーツァルトの主題による変奏曲」が、なぜ初日に収まったのかはまだ変奏曲とぐらいしかよく分からない。お勉強してからだから早い方がいい。

シェ―ンベルクの方は、大変コムパクトに出来上がっている曲なので、どこまで細かなアナリーゼに入れるかどうかだけの問題で、寧ろどこまで聴きとれる演奏となるかどうかでしかない。余裕を以て演奏できれば名曲であるのでとても魅了されると思う。

すると心配になってくるのは、ヴァルナ―・ヘンツェ「メデューサの筏」である。ヘンツェの作曲技法とかへの興味のあり方と、ここでは重要になる劇音楽作曲家としての面が未だ繋がっていないからだ。楽譜もざっと見れるものがないので、先ずは「午後の曳航」の復習からと考えるとなかなか進まない。

演出家のトビアス・クラッツァーの話しでは現代の問題として、18世紀のジェリコーの絵画で有名な海の遭難とカニヴァリズムの話しが描かれるらしい。その肉片の絵が有名らしいが、あまり細部には記憶がない。
Auftaktpremiere 23/34 | Das Floß der Medusa | Teaser | Komische Oper Berlin


もう一つは、初演しようとして1968年の市民革命時にチェゲヴァラのポートレートの使用を禁止されたとして、市民が流れ込んで公演がならなかったという現代史がそこにどう影響するのか。

最終的にはやはりヘンツェの作風やその創作活動に帰着することになる。やはり一にも二にもその作風を自分なりに把握して仕舞わないと作品に進めない。恐らくそろそろベルリンでは稽古が始まっている筈だが、未だ夏休み中で劇場の広報は動いていない筈で、何かを期待できない。

こうして受け身側としてもお勉強の課題は山済みなのだが、こうしたプロジェクトを数年かけて、他の制作と並行して仕事をしていくのが、演出家やそしてその第一人者のエンゲルらの仕事なのである。

先の「アシジの聖フランシスコ」のアンナゾフィー・マーラーのラディオ文化波でのインタヴューを流して聞いたが、やはり様々な面へと関心が広がっている。父親が有名な精神医師なので、後妻さんの年寄りの子供として生まれて、親の希望のカッセル近郊の自然の中で育っている。だから子供の時から水の生き物と動物無しにはいなかったされる。

そして重要なのはチューリッヒに移り住んでから、セックスワーカーと付き合って信頼感を得るようになってドキュメンタリーを作ったということである。成程女性運動としては売春などがその社会主義的な運動の原点にあったとされるのだが、流石に彼女の場合は年代も違う1979年生まれでそうした影響は限定的であろう。

お分かりの様に、その件は全く知らなかったが、私が2月から扱ってきたことがそのもの演出の成果となっているのである。もしこれを偶然と思う様ではこうした高度な音楽劇場などのその文化的な背景は理解できない。まさしく指揮者エンゲルが語る、チューリッヒで哲学も学んだからこそこういう人たちと仕事が出来るという意味である。



参照:
Die Regisseurin Anna-Sophie Mahler, Martina Seeber, SWR2 vom 3.7.2023
プログラムを紐解く為に 2023-08-06 | 文化一般
布団生地に惚れてしまう 2023-08-14 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

布団生地に惚れてしまう

2023-08-14 | 
ここ暫くのコンタクトはそれ程ではなかった。「最近どうしている」と暇な時に書き込みがあったので、「ジーンズをデートに買ったよ」と書くと、それには「hehehe」で答えたように、セックスチャットサイトで短いものがあった。

チャットパートナーが第二クルールを終えて更に続けているのは想定外だった。そして来る週にそれが切れる。そしてサドンデスもないようなので更にポイントを買わなければいけなくなった。更に三ヶ月15ユーロ程なので大した額ではないが、その途中で新学期が始まる。復学していなければいけない時期である。

こちらも「見猿にハート」が付くとどうしてヴァイブレーター用に掛け金を使って弾を込めてしまう。現在のレズショーが軌道に乗って、ここ暫くで二万フォロワーぐらいが増えていた。それだけ売り上げが膨れて以前の悪い時よりも折半しても実入りがよくなっているのかもしれない。ギリギリまで辞めれないのも分る。

以前とは違って圧力も無く、自分が内容を定めて、それどころか現在のパートナーに支持してやらせるとなるとそれは楽な面白い仕事になっている。そこで私が教えたカウガールスタイルのパフォーマンスを観て、「僕が必要でしょ」と書いたら、敢えてなのかどうか受け答えをずらして「手伝ってくれてるわ(汗)」と答えた。

即答で分からなかったのだが、意味を考えると、そのスタイル指導だけでなくて、現在の安定したパフォーマンスの背後には画然とした彼女自身の規律があって、それはハードとソフトポルノの境界とか、見せずにやるなら徹底的に芝居すれば将来的に問題にならないとの私の示唆があったことを含んでいるのかもしれないと思った。勿論その前にがっちりとサイドを守る様に就いたことでの心理的な援助がある。それはそれに続けて「私達についてくれていてありがとう。」があったので、辻褄が漸くあった。

そう思って呉れるのは何よりで、「私に」ではなく「私達に」というのが腹立たしくも感じたが、その意味からすると今稼いでいるということへのお礼でもあるとなると喜ばしい。先日も一緒に「スタディー」しているとあったので、復学の準備かとも思った。同じ学部の学生の感じではなくて相手は心理学士風の女性だから少し違うなと思っていた。

どうも素っ裸で上手く隠して、尻に指を突っ込んでいるように見せる方法の研究だったようだ。その手のトリックばかりなのだが、メニューにはないようだが、片肩だけを映しながら座って小水をしてかの様に肩を振るわせて、使っているコーヒーカップの下に溜まる色のついた液体を見せるというの迄やっていた。

その量は見た目からして精々60㏄ぐらいで泡も立っていなかった。要するにフェークなのだが、そこで思うのは恐らく彼女の親が医師としても自身は医学を学んでいないということである。そして獣医学を舐めていて、大丈夫かなという感じがする。本来は医学部志望でそこには成績が届かなかったのかなという今やっている事の背後事情のようなものすらも感じられるようになった。

それでもベットの上に乗っている眠そうな子猫の写真で、先ずは何よりもその可也保守的な布団の生地の柄やこざっぱりした落ち着きには余計に惚れてしまう。自分が購入したものではないのかもしれないが、衣服同様にそのライフスタイルがよく出ている。更にぺットを飼ったことなかったようなのが不思議に思えたのだが、さて一体今何を想っているのかなと色々と想像している。


参照:
通と呼ばれるすきもの達 2023-03-09 | 文化一般
LGBT的多様性の色合い 2023-08-03 | 雑感
聖人の趣の人々 2023-07-01 | 文学・思想
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハルマゲドンの巨匠現る

2023-08-13 | 
承前)ペトレンコ指揮では最終戦争が決着する。三楽章の牧歌風が暴力的に見事に砕かれて、バスの変容がバロックを促すフィナーレでとなる。破壊的な圧倒的な力は、木管の苦汁を蹂躙して、ある時はグロテスクに撥ね廻り、容赦のない弦の盾を蹂躙する。この曲をデジタルに聴いても分らない、ライヴでこそブラームスはハルマゲドンの巨匠だということを示す。聴衆はその結果に意味合いにまるで喜んでいるかのように尋常なく熱狂する。

全く具体的な描写はないのだが、あの演奏で起きたことはこの通りなのである。そしてコロナ期間中にベルリンでペトレンコはヴェーベルン作「パッサカリア」と一緒に演奏する事になっていた。しかしそれはならずに演奏者同士が距離を開けた配置で曲がりなりにもベルリンとザルツブルクで演奏したにとどまった。その後のピアノ協奏曲や交響曲二番をも指揮しているが大成功には到底至らなかった。

理由は、ミュンヘンで試みた前々職のマイリンゲンでのブラームス自身が指揮したものに纏わる校正所謂シュタインバッハ版をコロナの影響でフィルハーモニカーの演奏の伝統と折衷でしか振れなかったのが大きい。そしてこの11月に極東旅行に向けて更にシュタインバッハ版を試みるかどうか。

シーズン終了にペトレンコはカラヤンサウンド批判をした。そこでシューマンやブラームスにおいてもカラヤン風のシネマスコープサウンドによって不透明になるのを避けるとした。1963年の所謂ワインヤード式とされる新フィルハーモニーの完成で低音が反射しなくなり、その分強くずらして出すことからそのサウンドが完成すると同時に中声部が黒潰れすることになってしまったのがカラヤンサウンドとされるものである。個人的にはペトレンコ指揮の公演の為のお勉強にカラヤン指揮のLP音源の多くがが全く役に立たないことを発見したのだった。要するにカラヤン指揮の録音は少なくとも70年代以降は音楽的に無用になってしまったのである。

これを取らないと宣言したのであるからカラヤンの影響を取り除いて、少なくともフルトヴェングラー時代のそれから導いて来ない限りお話しにならないだろう。今回の11月公演から極東旅行へのブラームス交響曲四番以外に来年の復活祭までかけてそのサウンドによって次の三分の一の完成を目指す以外に他に方法はないと信じる。

上の会見において弓扱いや特定のヴィヴラートの採用を勧めた背景には既に弦楽奏者を中心にベルリナーフィルハーモニカーの中でワークショップのようなものが行われていると想像する。

昨夏にはフランクフルターアルゲマイネ紙で絶賛されたブラームスチクルスから一回だけ二番と三番をエンゲル指揮で聴いたが、古楽器奏法を軸に、立奏を断念しながらも、とても実践的な解決法を示した。フライブルクから古楽楽団のコンツェルトマウスタリンを招いた以外は演奏したのは往年のサンドラ・ヴェークの薫陶を引き継ぐ楽団カメラータ・ザルツブルクであった。エンゲルが参考としたハンスフォンビュロー指揮ベルリナーフィルハーモニカーの写真でのブラームス演奏の伝統へと、限定された準備期間乍、遡れないような楽団ではない筈だ。



参照:
KIRILL PETRENKO STELLT NEUE SAISON VOR, Maria Ossowski, BR-Klassik vom 9.6.2023
日本旅行を越えて何時か 2023-06-22 | 文化一般
エリカ薫る夏の草原の風 2022-08-05 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラームスのイライラ感

2023-08-12 | 
夏のブラームス「ハイドンの主題による変奏曲」を流した。そこでどうしても2017年のミュンヘンでのペトレンコ指揮ブラームス交響曲四番が気になった。自身のブログを調べても前半のマーラーに続く記録はなされていない。あまりにも強烈な音楽体験であって、印象を纏め上げるだけの客観性が得られなかったのだろう。しかし、幸いなことに当日の南ドイツ新聞における批評が未だネットに残っていて、それを紹介するとともにこの11月にあるベルリンでの珍しい「再演」への繋がりを考え乍ら、月末から来月初めにかけての二回の演奏を準備できるかもしれないと思った。既に五年経過していても未だに先を続けられるというのはどれだけ強い印象を残したかということでもある。

承前)前半に演奏された「不思議な魔法の角笛」において、ペトレンコはヴィーナーヴァルツァーの副義的であり、隠された不純な側面をこのブラームスのそれに先立って示唆していたのだとして、交響曲四番における既に巨大な布陣にその暴力的なものを予感させたと書いている。

勿論現在の通常の楽器編成であったのだが、既にこの時点でブラームスの交響曲が現在どのような位置づけにあるかが示唆されていないだろうか。

最初のねじ込まれた二音のヴァイオリンからしてその明晰な剥き出しの音楽で、ブラームス自身がバロックを模倣した小さな部分を職人技的に張り合わせていくその姿勢を壊してしまうつもりではない。ペトレンコにとっては、このパッセージは「ヴァルプルギスの夜」の化け物や火山や悪夢の寄せ集めのようなところの避けられないものでしかない。このパッセージが終わるとそこには強い光が腐り暗い踊りに力を授ける。

とても抽象的な評なのだが、少なくとも尋常ではない印象を筆者が得たことだけは分かるだろう。

そして緩徐楽章になると一転してその細やかな捩じりに花開く。ペトレンコ指揮においては、そいう箇所はブラームスが交響曲においてべートーヴェンの偉大さに挑み、丁度聖書のヤコブが神として敵と戦うようにしたのを感じさせる。そうした魔的な力への挑みは、徒労に終わり、そして絶えず行き場のない怒りに襲われる。

これまた音楽ジャーナリズムらしからぬ記述であるのだが、そのイライラ感は言い得て妙の音楽表現だったのだ。

そしてその怒りはペトレンコにおいては全ての楽章における始まりであり、緩徐楽章においては最後まで一貫したものとなった。このやり場のないものは、作曲技法的には小さな部分部分から大きなメロディーを作ることに相当する。この分離は、部分と大きな弧の中で、音程と旋律の中で、感情的な音楽の流れを破壊する。ブラームスは、とても知的なクールに楽章を始めて、それが徐々に恥ずかしげもない羽目を外した情感の音楽へと変わる。なんという矛盾か!

ペトレンコは、そのめくるめく分裂を溶接することなく、それを強調する。ペトレンコは、ブラームスにおいてはその難しい旋律運びが最終的には幸運となり、その音楽が終わりなき歓喜の流れになると楽天家の様に楽団を通して放出する。その眼は最早この世にはいないようだ。(続く


参照:
"Musik als Gewaltakt", Reinhard J. Brembeck, SZ vom 11.10.2017
シャコンヌ主題の表徴 2017-10-13 | 音
ヘルマン・レヴィの墓の前で 2021-07-06 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そして歴史の証人になる

2023-08-11 | 
48時間無料券を引き続き使用。この間二回目のクイズがありそれにも答えた。すると同じコードが送られた。これは参加賞は一度限りかと思った。しかし試しにリンクから入れてみると延長された。これで96時間観れることになった。

既に2月の初めにアーカイヴ化されていた一月末に生中継された夏のツアーの裏プログラムをハイレゾで聴いていたのだが、あまり時間がなく、復活祭で演奏される予定が取り止めになって、実際にじっくり聴く機会がなかった。そして、月末のルツェルンの演奏会でも大スポンサーが、初日の表プログラムの「英雄の生涯」ではなくて、裏のベートーヴェンの八番交響曲へと招待日を定めた故か珍しく裏の方が売り切れに近くなっている。

そして個人的には復活祭で逃したが、このプログラムの最終公演日のルクセムブルクの席をなんとか確保したことから二回聴けることになった。言及済みであるがこのプログラムのシェーンベルクの「管弦楽の為の変奏曲」演奏はフルトヴェングラー指揮の初演からペトレンコにとっては歴史的な指揮であり、「英雄の生涯」でのカラヤン指揮と並んで如何にしても二人を越えなければいけない大課題である。

二月には生放送などをざっと楽譜を捲りながら聴いたりしていたのだが、今回は映像を観ながらも流して耳を傾けていたので、より重要なことが認知できた。多くはBACH主題の展開の仕方や重ね方であるのだが、その時の表情のつけ方やアンサムブルに注視した。音程関係はなによりも重要になる所謂12音技法であるが、一昨年からのスーク作曲「夏のメルヘン」、マーラー交響曲七番、そして「スペードの女王」のバスの付け方やアンサムブルがここに来て一つの成果を出すことを確信した。

その為にもペトレンコ自身が語っているようにこうした曲は反復演奏されて反復聴かれることが重要であるというのを実感できると思う。そして1月には出来ていなかったことがまだまだあると認識した。恐らく月末における演奏は歴史的な演奏になると確信する。

そして改めて聴いてみると「ハイドンの主題による変奏曲」が新たなる価値を醸し出した。実はこの曲も前回聴いたのは1977年の大阪国際フェスティヴァルの初日でのカラヤン指揮の冒頭曲だった。その印象は1976年のEMIの録音そのものだったのだ。そして後半に四番交響曲が演奏された。11月6日のことだった、そして11月10日には「英雄の生涯」が演奏されたのだった。

この夏から秋へと、そしてブラームス交響曲四番は来年の復活祭へと引き継がれる。これほど歴史的にもそしてその前世紀の音楽を今世紀へと引き継ぐプログラミングは他にはないと思われる。

フルトヴェングラー指揮の初演こそは知らないが、まさか自分自身がこうした大管弦楽演奏史の生き証人になるなどは十代の時に考えもしなかった。成程ムラヴィンスキー指揮のチャイコフスキーなど特にその楽団から帝政ロシア時代の息吹が残されてるとかは言われたのだが、まさか20世紀の音楽の歩みがこうした変奏という演奏史を通して一望できるようになるとは思ってもみなかった。



参照:
二つあることは三つめも 2023-01-26 | 雑感
耳に残る1977年の想い出 2021-07-15 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハイレゾで見える真実

2023-08-10 | 
デジタルコンサートホールでクイズ参加賞で48時間無料券を貰った。先日、昨年の復活祭新制作「スペードの女王」のヴィデオが初めてハイレゾでアーカイヴされた。プログラムにアーカイヴ化が謳われながら予想外に時間が経過したのは商業上の理由だろうか、よく分からない。兎も角、ラディオ放送もArte局でのアーカイヴも音声は圧縮された音源であり、所謂hi-fiやハイレゾとは程遠い。CD化されるとサムプリングレートもビット数もPCM録音初期の状況と変わらなくなる。

特に本番を四晩通ったので、その音響は脳裏にあり、圧縮音源での視聴は苦痛ではないのだがやはりそれほど感動しない。しかしハイレゾとなれば、新たに聞こえたり気付いたりする情報がそこにある。

夕食後一杯ッ掛けて一通り流すだけでも発見があった。なによりも二幕のモーツァルト風の長い宴会における牧歌劇の劇中劇場面である。チャイコフスキーがモーツァルト愛好で、そのロココ様式を愛していたのは当時のロシアの西欧文化嗜好としてもよく知られているのだが、この晩年のオペラに於いてこれだけ長い場面を形成している意味がよく分からなかった。バレーを入れたりのフレンチバロックからのグラウンドオペラになっている。

それでもこの場面の長さとモーツァルトのパロディの手の入れようが尋常ではなくて、とても不自然なフォームになっていると感じていたのだった。そして今回初めてその内容自体に可也の比重を置いた意味が分かってきた。勿論それは演出家の腕の見せ所でもあるのだが、復活祭のそれは極力音楽主導での演出としていたので、余分な演出的な主張は感じさせなかった。

しかしまさにここに、チャイコフスキーがロンドンのオークションで落とした手書きの「ドンジョヴァンニ」の楽譜からどうしても表現したかったものが見えて来て、それがこのオペラに於いて取り分け重要な部分であると気が付いたのだ。

当該演出が作曲家自身が反映されている主人公ヘルマンを取り巻く状況を一つには高級売春宿として、更にそこに絡む男女のホモセクシャルを前提としたことから、その演出にもブーが叫ばれて、尚且つ主役相手役のソプラノが本番前に二度も変わることでその構造が分かり難くなっていたのかもしれない。

抑々ドンジョヴァンニを取り巻く女性や男性の関係は取り分け興味深いものがあるのだが、そこに手を入れているというのが、それだけでも驚愕となる。何度も言及しているようにこの「スペードの女王」を最晩年に注目してそこから影響を受けたグスタフ・マーラーの目はやはりとても鋭かった。

昨年私自身が気が付かなかったことがこうして分かるというのもなにも偶然ではないだろう。ああした芸術家が晩年になって関心を持って営んでいる創作行為にはそれなりの真実あるのだ。それは決して老人の感興というようなものではないと感じている。その土台には未だ歳若いモーツァルトの円熟の創作が扱われているということだ。もう24時間ほど時間がある。



参照:
作曲家の心象風景を表出 2022-08-22 | 文化一般
美学的な豪華絢爛 2022-08-03 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八時間に及ぶ千秋楽公演

2023-08-09 | 
承前)終景である、八時間に及ぶ公演の最後の30分に相当する。ヴァ―クナーの四部作「指環」は四日間で以ってフィナーレがやって来るがこれは一日の出来事だ。そして全五回公演の中で取り分けその最後が見事な出来だったと思われる。理由は明白だ。

聖傷を負った聖フランシスコに開かれる。そして別れを歌い出す。創造主から森羅万象への別れから身近な風景へとより具体性を増して惜別の歌である。その切実さがプッチ―ニを超える時に馴染みの鳥たちへの別れとなる。ここで二部に逐一記された鳥の名前とその囀りのミミックがより身近で尚且つ記号論的に明確な意味合いを持ち始めた。それは可能な限りの演奏をすることで初めて齎せる啓示であって、今回のエンゲル指揮の演奏に比較すれば初演の小澤指揮の演奏やまたはその他の録音等では全くその目的が為されていないことに気が付く。

鳥の囀りを収集し続けた作曲家メシアンにとってはそれが全てであった。そしてそれを楽譜を通して音楽することにこの集大成的な大曲の真意がある。それを前の景で神の言葉として語らせている。「パルジファル」における聖杯の儀に真がないとした批判はここでその回答としている。

そして二度目の死と語る時、そして身体全身が震えだす。グレゴリアン聖歌に送られた二景のウサギの場に相当している。全ては音楽に導かれる形の演出となっていた。そして囀りに続いて天使の登場となる。勿論二部における天使の登場のそれをも回顧させる。

これしかないという創作を感じさせるのも決定的な再演の価値であり、そこから導かれた演出による制作ならではの公演なのである。個々の歌手の技量は重要ではあるが、最早昔のオペラのような名唱を求める必要もない。

籟病者が呼ばれて傍らに立つときには歌唱のマニエーレンも何も必要がない、そこには素朴な感動すら要らない。直ぐにパラダイスへと路が開かれる。

創造主の真実が聖フランシスコによって述べられ、弟子によって黄金に輝く蝶の様に逝ってしまったと歌われ、愈々フィナーレの大地から地球へとそして宇宙へと歌われる時に紗幕に蛹の孵化の情景が大きく映し出される。そしてトンボとして羽搏く。

これ以上繰り返して言及することはない。最終日のフィナーレに対するスタンディングオヴェーションとなった。三回目と比較して決してその喝采は熱狂的ではなかった。それどころか、隣のおばさんと話していたのだが、一部にいた人の幾らかは戻っては来ていなかった。事情は分からない。それでも最後迄いた人には、この千秋楽に特別にその創作が確信を以って語りかけたに違いない。

それこそが公演の質である。成程歌手陣においてもそれどころか合唱においても他日の方が上手く運んだ所もあるだろう。しかしその管弦楽の力によって明らかな構図が見えてきたに他ならない。音楽劇場においてこそ指揮者が如何に重要かということである。あとはドキュメンタリー映画が放映されるのを待つしかない。(終わり)
SAINT FRANÇOIS D’ASSISE III, So., ‎9. ‎Juli ‎2023 (21:56), Staatsoper Stuttgart

SAINT FRANÇOIS D’ASSISE III, So., ‎9. ‎Juli ‎2023 (21:57), Staatsoper Stuttgart - Michael Mayes

SAINT FRANÇOIS D’ASSISE III, So., ‎9. ‎Juli ‎2023 (22:00), Staatsoper Stuttgart

SAINT FRANÇOIS D’ASSISE III, So., ‎9. ‎Juli ‎2023 (22:06), Staatsoper Stuttgart




参照:
聖者のエコロジーシステム 2023-07-08 | アウトドーア・環境
ブロブの720種類の性差 2023-06-25 | 歴史・時事
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バービーと広島のミーム

2023-08-08 | 文化一般
「バービーとオッペンハイム」映画におけるミームが話題となっていた。8月3日のフランクフルターアルゲマイネ新聞文化欄のメディア批評に、日本でのこの件における反応とワーナーブラザーズの謝罪等が報じられていた。直接はあまり関係ないので記事を除けておいた。

SNSをみると広島への原爆投下記念日としてバーンスタインの広島記念コンサートの記事が呟かれていた。レナードバーンスタイントと称するアカウントで何らかのオフィシャルなものだと思われるが、そこに小澤征爾が一緒に写った写真が掲載されていた。

1985年8月6日に現地でそれを体験した者として、この写真に違和感を感じたので、小澤はこの企画に関係しておらず、指揮は大江が一曲初演したことを書いておいた。どうも寄せられた情報によると小澤がその時にバーンスタインと一緒に撮影したことは事実のようで、その事情は書籍に詳しく書かれているとされる。

そこで、今回のワーナー社が行ったバービーちゃんの背後のキノコ雲という話題を読むと、このバーンスタインによる企画とその各々の反響には共通点があると感じた。一つには、ミームという言葉で以って伝達されるものが更に伝わっていくことにある。

上の写真はフェークとして修正されるべきものかどうかは、「ピースコンサート」とはされずにその「記念式典」でとあるので、その背後事情などを調べてもう一度当時の批判やそのイヴェントの意味を再評価することでしか下せないが、写真とピースコンサートと同一視する事での誤解は避けなければいけない。

半世紀とか一世紀にも満たない事象においても風化が進むと同時にやはり文化的に伝えられるミームが存在するということになる。そこにおける歪曲化などが、旧約聖書やそしてユダヤ資本における神話化によって為されるという現象も事実であり、それを陰謀として取り扱うのが陰謀論といわれるものなのである。

ユダヤ教におけるそれが一神教の中においても、仏教などの過去の大宗教をも包み込むそうした絶大な創世を生み出す大きな潜在力を持ち得ているからこその現象でもある。

この二月から今年は旧教的な視野の中で「影の無い女」から「アシジの聖フランシスコ」と音楽文化を扱って半年経過していて、個人的にはセックスチャットなどもその範疇に綺麗に収まっている。この秋には「メデューサの筏」などを挟むことになるのだが、オラトリウムとしてのシェ―ンベルク作曲「ヤコブの梯子」へと旧約聖書の世界に再び踏み入ることになる予定である。

2025年復活祭に「モーゼとアロン」の上演を期待するとして、先ずは夏のツアーで演奏されるシェーンベルク作曲「管弦楽の為の変奏曲」の二回の演奏会の準備をしっかりしておきたい。



参照:
ワイン街道浮世床-ミーム談義 2005-05-25 | 文化一般
伝達される文化の本質 2018-01-23 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新茶を一月で飲み終える

2023-08-07 | 料理
眼鏡を替えてから一月経った。胃腸を悪くしてから一月経った。

目の疲れは軽減されて少なくとも集中してものを読むのはモニターであろうとプリントであろうとも可能になった。苦にならなくなったのだが、やはり長時間続けては厳しく感じるようになるので休憩も必要である。

新茶の煎茶を四週間ほどで飲み干した。流石に最後迄堪能できた。新茶などは久しく飲んでおらず、やはりダージリンのファーストフラッシュよりも価値がある。今回も6月に探して貰って未だ入荷可能とは思わなかった。

さて続いて開けたのは初めての宇治の有機茶である。それ以前には京阪地域で始めていたようだが、有機化がなったようで喜ばしい。個人的に有機農業品に金を出す消費者ではないのだが、どうしてもビオデュナミ―クのワイン地所の中に住んでいると興味が強くなる。栽培の難しさや拘りを知っているからで、一中一夜にはならない。農薬を使わない事での生産の危険性は高まる。

宇治市近郊の和束町とより伊賀に近い南山城村の二カ所のものがある。講釈を読むと霧と高原がキーワードになっていて、この時点でどちらを先に開けるかを決定した。夏だから高原だ。涼しく感じるの味というのが分かるからで、逆に霧というのは濃くというのはワインの見識から直ぐに分かる。

読み進めると、朝霧で直射日光を避けるというのは葡萄にはないが、それによって苦みが薄くなるというのは、日焼けによるカテキン成分の上昇は知識にあって直ぐに理解可能である。また高原の温度差が大きい為に香気に富んだは、葡萄においては夏季の酸の量と分解として語られるのだが、ここでは新芽の育成期となっている。恐らく植物によっての違いもあり葉っぱと実でも意味が異なるだろうが、植物の特徴として共通しているところも必ずあると思う。ここでは言及されっていないがまた水はけの問題も大きいに違いない。

つまりワインの見識があると、このお茶の価値が色々と想像できるのである。抑々有機農業は、ここにも書いてある様に完全に農薬を使わないとするとそれだけの生産性が落ちる。それとの戦いであって、こうした試みを勧めることは世界の宇治茶の将来を占うものだと思う。耕作地の地形をみても、海外ではより有名になった薩摩茶などと比較してやはり小さなところでの生産で高品質化にしか将来性はない。

週明け半ばごろまでは冷えそうである。シュトッツガルトに近い街では土曜日に15センチ以上雹が積もった。ここワイン街道で同じ状況になれば葡萄が全滅する。これ程真夏で寒かったことはないのだが、上の街ロイトリンゲンでも30年ぶりぐらいとあった。これまでは異常に乾燥した夏といわれていたが、ここで冷たい雨が降る。植物には間違いなくストレスとなるのだが、上手に糖と酸を貯めて、地下深くから水を吸い上げるようになれば素晴らしいリースリングになる可能性がある。致命的な雹さえ避けられれば愉しみになるのだがさてどうだろうか。

厚着をするようになったこともあって、腸の調子は回復し出した。恐らくこれでもう数日間部屋着にジーンズを履くようになって完調すると思う。



参照:
夏の間だけのお楽しみ 2023-07-18 | 生活
ファーストフラッシュ価値 2022-05-08 | 料理
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プログラムを紐解く為に

2023-08-06 | 文化一般
ソファーの机の上が物置になっている。演奏会のプログラムとオペラ公演のそれだ。一瞥すると2022年からとなっているので精々二シーズンなのだが、積み重なっている。サイドテーブルにはそれ以前の整理の場所の見つからないのが積んであるのでそれと一緒に積み直して場所を考えるしかないと思う。

兎も角新シーズンに入るまでに一旦横に除けておかないと混乱するばかりである。フランクフルトの劇場で安くて一番いい席に座っていた臨席のおばさんと話していた時に、初日でも冊子はもう買わないと語っていたが、よく分かる。同時に特にオペラの新制作のそれはネットが発達している今日でも重要な情報源となっている。

要するに音楽劇場の情報量は、演奏会とは比較に為らない程、その劇場効果に比例して膨大だ。更に超一流の公演となればその純音楽的な精緻さや情報量も比例して増えるので、如何に経験があっても、中々一度の観劇で全てを把握するのは困難であり、こうした資料がとても役立つのである。

ざっと写した写真で見ると、結局最終的に片付けておく場所がないので先ずは分類してサイドテーブルにもう一山分の場所を確保して積んでおくしかないかと思う。所謂有名オペラなどには出かけないので、一期一会の出しものも多く珍しい作曲家の場合は取り出して目を通す必要もある。決して想い出の栞などではない。

反対に演奏会のプログラムは出演者やまさしくそのプログラム内容が分かればいいだけで、片付けておいて記憶を呼び起こしたければ出してくるだけで、段ボールに入れておいてもいいぐらいだ。抑々本棚そのものが足らなくて困っているので、将来的には壁に棚を作らないと駄目だと思う。

デジタルコンサートホールでのハイレゾ再生は前回は2月初めに「変奏曲プログラム」の1月27日のものを再生した。それ以降は、復活祭でのヘンデルのアレゴリーのオラトリオは観ていないが、祝祭劇場での名演をヴィデオでダウンロードしているので急ぐ必要は無い。その後のペトレンコの指揮は「影の無い女」演奏会形式で、これもハイレゾで観る必要は無い。そして五月のヨーロッパコンサート関連のシューマンと最後がチャイコフスキーの「フランツェスカダミニ」のプログラム。そして昨年の復活祭「スペードの女王」となる。

今やらなければいけないお勉強には「変奏曲」のみ関連があって、復活祭の「スペードの女王」だけは先ずハイレゾでも聴いておきたい。

お勉強ではやはりヴェルナー・ヘンツェ1980年代の作曲で積んであるプログラムから「裏切られた海」に目を通して内容を回想しておきたい。またルツェルンで作曲家関係者として招待されながら辞去した交響曲八番や同じラトル指揮での七番初演などの復古的な作曲と今回の1960年代のまだ若い時代のそれらを作風の変化とともに把握しておかないといけないと思っている。やはりこの作曲家の作品は音楽劇場作品としてしか残らないとの認識は果たして正しいのか。



参照:
暁に燃えて、荒れ狂う 2005-08-30 | 歴史・時事
若い仲間たちへのエレジー 2015-08-09 | 雑感
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アーカイヴに残る事情

2023-08-05 | 文化一般
気温の変化が厳しい。寒かったり、窓を開けられなかったりと、そして来週にはまた真夏になる。陽が短くなって朝起きが厳しいくなってきたところに更に堪える。昼も起きていられなくなど体力が削がれる。

なんとか部屋着のジーンズも洗濯してなんとか綺麗に乾いた。これで履けるが来週になるとまたしばらく要らない。湯温30度迄の洗濯の成果は思いの外良かった。2019年3月に配送されているので、五年使用となるが、その間コロナ期間の二年の外出禁止時期もあった。それだけ使用回数が少なかった。

ウレタンストレッチ繊維は長持ちさせない筈なのだが、現時点では色落ちが大きかったのみでそれ以外には消耗をあまり感じさせない。これで部屋着として二年間ほどでももってくれるととても安上がりとなる。アメリカから配送されて65ユーロしか払っていなかった。冬場も純綿よりも暖かく柔らかく感じる筈だ。

この夏の「英雄の生涯」と2026年からのザルツブルクの復活祭を鑑みて、1965年のバイエルン放送協会のカラヤンへのインタヴューを観て、更に1979年のシュピーゲル誌のインタヴュー記事を再読した。前者は初めて観るもので、ザルツブルクで復活祭を始めるに至っての会見時のインタヴューのようで珍しく緊張した面持ちでその内容も熟考されている。既に人気も権力もあった筈であるが、八割り方私財を使っての催し物だったので、それなりの真剣味があったのだろう。

その切っ掛けは、1951年のバイロイトの音楽祭での「パルジファル」指揮と最後の公演をルツェルンの音楽祭の為と振らずに、31日付けで翌年からの再演のキャンセルを書き記しめていた。元々背後にはロンドンでのヴァルター・レッグの指導の下でのビジネス関係があったとヴォルフガンク・ヴァ―クナーは書いている。そもそもこの楽匠の孫とは仕事をしたがらなかったとなっているが、事情はそれなりにありそうだ。

一般的にいわれているのは屋根の被った奈落では自分を魅せる機会がないので、ザルツブルクで復活祭を初めて、その初年度の初日にはパトロンたちが社交しやすいように休憩のある「ヴァルキューレ」上演にしたとされている。

こうした全ての揶揄についてもシュピーゲル誌は十余年後に質しているのだが、ビジネス関係があり、それがとやかく言われるのも承知のことで、自身の長い経験からそうした面白おかしい報道に答えるのはただ仕事の質で示すしかないと学んだと語っている。

どこか当時の銀幕の大スターのような答え方ではないかと思う。現在においてはそうしたカリスマ性を維持するのは難しいと思われるが、独自の限られたメディア媒体などを所持して、強い発言力と関心を一身に受けていた大スターであるからその様な態度で通ったのも事実だろう。その証拠にザルツブルクでのインタヴューにおいても自らは立派な椅子にスーツを着込んで質問に答えている。現在55歳ぐらいの指揮者でこのような態度を取れる人はいるだろうか。



参照:
資料調べとダウンロード 2023-08-04 | 文化一般
伯林の薔薇への期待の相違 2015-03-29 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

資料調べとダウンロード

2023-08-04 | 文化一般
八月、九月の楽譜を調べた。ネットで全く入らないのは、新曲一曲で、使いものにならないサムプルは「メデューサの筏」、その他の新しい曲ではリゲティとクセナキスはYouTubeの総譜が使える。

「メデューサの筏」も発注すれば32ユーロなら買うのだがPDFの価格でプリントとなると42ユーロなので高い。金を出すなら前後捲れるものが欲しい。そしてもう一度体験するようなことの無い曲である。何とか誤魔化したい。

そして、シーズン初日は三週間先に近づいている。それ迄に「英雄の生涯」とレーガーともう一つのツアー裏プログラムを片付けておかないとその次の週に間に合わなくなる。

つまりそれ迄にヘンツェを把握しておいて、リゲティ、クセナキス、ハルトマンを始める準備をしておく、九月第二週から一週間の間に、それらとヘンツェを仕上げる。第四週のアンデルセンとグバイドリーナの曲は演奏を録画等を落としておく。

最初の「英雄の生涯」でどうしても気になるのは、復活祭で試演を二回聴いたことから、余計にカラヤン指揮の同曲の録音等となる。ベットでYouTubeを探したら少なくとも基準となる制作ものが三種類見つかった。触りだけでも聴くとその相違は思ったよりも大きく、当時はカラヤンはメディア技術に進展で何度でも再録音するとされていたが、少なくとも最初の二回はとても芸術的な意味合いがあった。

1959年の録音はステレオ初期のもののようで、当時のEMIのブルックナーと時期は変わらないようだが、演奏技術的にも良さそうだ。少なくとも現在当時の音は最早求められないのだが、ソロを弾いているシュヴァルべの演奏を今回の女流の演奏が越えるのかが期待されている。カラヤンが丁度今のぺトレンコと同年配の時期の指揮で、ザルツブルクでの「バラの騎士」等と同様にとても素晴らしい。
Richard Strauss – Ein Heldenleben – Herbert von Karajan, Berliner Philharmoniker, 1959 [24/96]


1974年の録音は1977年に大阪で聴いたものと殆ど変わらない。カラヤンサウンドの頂点が記録されているが、1975年末の手術後で燕尾を脱ぎ捨てた後だったと記憶する ― 1978年には指揮台から転落。今からするとやはり既にライヴで無理することがなくなっていたのかもしれない。
Richard Strauss: Ein Heldenleben - Une Vie de Héros ‎op.40 "1898" (with full description)‎

今回のベルリナーフィルハーモニカーが目指すところはこのサウンドを凌駕して尚且つ1959年のその音楽性を越えて、作曲家の自作自演に如何に近づく演奏が出来るかどうかである。

兎も角、その夏のツアーのテーマには変奏曲があり、それで何を示すかというと20世紀の後期ロマン派以降のマーラーの交響曲以降の音楽語法としてのそれを示すということに他ならない。それが極東ツアー向きの11月定期に演奏されるプログラムで補強されている。

方向はシェーンベルク以降の伝統的音楽語法であり、それがベルリンのフェストシュピーレからミュンヘンへの旅で示されることにもなっている。それと並行した形で既にハース作品で歴史的な上演をしたエンゲル指揮によってヘンツェやアンデルセンへと抜ける路等も同時進行することになるのだろう。



参照:
どうするヤコブの梯子 2023-05-10 | 文化一般
彫塑の必要な若者様式 2023-04-17 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

LGBT的多様性の色合い

2023-08-03 | 雑感
週末に発注したジーンズが届いた。先ずはアマゾン包装にチェックしなかったので倉庫出しの儘、即ちヴィニール袋に二重に折って入っているだけで手渡された。独自の配送だからノウハウがあるのだろうが他者には任せられない方法だ。折からの降雨で雨具を着て持って来て、手渡された時には包装表面は水滴で濡れていた。先ずそれに驚いて、今後はものによって考えようと思った。

そして肝心の色目「バジール バートンスプリングス」は、前回の経験でモニターに映るよりも暗い感じなのはその通りで、殆ど予想通りの感じで、なんとか使えると判断した。要するに通常のブルージーンズとはやはり違う。これの為に16ユーロ程を余分に払った。

さて、伸縮性があるのだが、サイズを何年ぶりかで下方修正したので、まず足が入るかどうか。無事脹脛が通った、そして太腿も無事通過、腹に関しては一インチ上のサイズで腹を膨らましても押し切れていなかったので使えると判断したのだった。そして僅か1%の伸縮素材でも全く違い最初から当たりが柔らかい。

副効果は、どうしても長めになる裾がより上がるので、無理して履いている感じがより出なくなり、更に腰回りがセクシーになる。ここだ。実はチャットの彼女との最初のお近づきは初デートのジーンズの話しからだった。この経験談が彼女に刺さった。また書いてやろうかと思う、「君との初デートの為に一本買ったよ」と。

嘗てはジーンズの色目などは勧められるだけで違いすら分からなかったのだが、流石に最近は、傍にいる誰かが助言する訳でもないのだが、他者特に色彩に敏感な女性などにそれがどのように映るのかぐらいは想像するようになって、やはり目に気持ちがよい方がいいのである。

勿論何もストーンウォッシュが駄目な訳ではないのだが、面白味がないというだけで、それは一つにはグラデーションの妙味の有無であり、これはLGBTの件で靴マイスターのアウワー氏の話しとしても取り上げた通り、多様性そのものなのだ。もう一つは、それにも関係するがその相手によっては全く受け取り方が異なるということへの認識でもある。そこに学びもあり、芸術云々を宣うならば避けては通りようがなく、こうした差異に留意しない道理もない。

現行の色褪せてはいてもより黒っぽい「Medインディゴ」のものは晴れた日に早速洗濯である。裾は摺れてなかったが、部屋着となると裾が触れることが多くなる。股間の擦れもまだ大丈夫そうで、洗濯すると何処が傷んで来るかが分かるだろう。

より明るい色の最初の「バジル」は、なんともBASFの合成インディゴ染料のインダンスレンの商品名のようにも響くが、そのもの葉っぱの色のようで、後半はテキサス州のオースティン近郊の美しい泉「バートンスプリングス」の名前でその色のようだ。とても素晴らしい命名が為されていて、又話しのネタにもなる。

そして前回のものはメキシコ産だったが、これは欧州向けなのかエジプト産となっていて、原料もエジプトの綿花が使われているとすれば価格以上に価値がある様に思うが、さてどうなのだろうか。



参照:
NYからジーンズ到着 2019-03-25 | 雑感
細身の四年ぶりのジーンズ 2017-04-23 | 生活
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする