きっかけは何気に見たyoutubeの映像でした。
オタク世代を自称する私ですが、(40才を過ぎてますが)
いわゆる「萌え」とか、「美少女キャラ」には感度が鈍く、
むしろアニメを差別させる要因として蔑視していました。
「ガンダム」は好きだけど、「マクロス」は嫌い・・・ってタイプ。
だから、事ある毎に検索に引っかかる「ハルヒ」を
単なるオタクアニメだと思って、疑いませんでした。
ある日、暇つぶしに見て・・・ビックリ。
始めは京都アニメーションの技術の高さに驚いただけでした。
だって、アニメシリーズは「朝比奈ミクルの冒険」から始まるじゃないですか。
これだけ見たら、「映像技術が突出したオタクアニメ」にしか見えません。
だから、何度か、はじめの5分くらいを見て、「・・・・何コレ?」って感じ。
問題は「涼宮ハルヒの憂鬱」を見た時起こりました。
冒頭、学校への坂道を登りながらの、キョンのモノローグで
既にかなりガッチリ心を掴まれた私は、
キライな美少女キャラのハルヒやミクルをどうにかクリアーして、
長門ユキで・・・あれ?ハマッテないか、オレ・・・。
長門のマンションでの電波話でツボに嵌り、
古泉のタクシーでの長話で、完全に堕ちました。
(見たり、読んだりしていない方はゴメンナサイ。
ここからはネタバレになります。)
これって、オタクアニメの皮を被った、ハードSFではないですか?
それも、認識論など、かなりニューウェーブの匂いがプンプンする・・・。
さらに、オタクキャラとハードSFの融合を、
高度なエンタテーメントとして実現している稀有な傑作ではないですか。
こうなると、原作が読んでみたい。
本屋に直行して8冊、大人買いです。
もう、夢中で一気読みです。
仕事が手に付かないくらいです。
断言します。
アニメはスゴイですが、谷川流の原作は、
ある意味の「奇跡」です。
40過ぎのイイ大人が、手放しでライトノベルなんぞを賞賛したら、
それこそ気でも狂ったかと思われますが、
(既に、妻にも実家の母にも思われていますが)
20年来の海外SF小説ファンで、
一通りの古典、現代小説も読んでいて、
アメリカの80年代ポストモダン小説好きの私が
ライトノベルごときにノックアウトされました。
いえ、「ライトノベルごとき」という考え方が、
そもそも、世の良識的な小説ファンに不幸をもたらしているのです。
ライトノベルだからこそ、こんなに破天荒な小説が世に出たというべきでしょう。
「涼宮ハルヒの憂鬱」はハードSFとしての傑作。
「涼宮ハルヒの消失」は、創作活動において、小説構造がフィードバックするという快作。
「涼宮ハルヒの分裂」は、小説が創作活動を支配するという問題作。
・・・多分、この後は未完で終わるのでは。
もう既に、作者自身が物語り世界の構造の断層に落ちている感じがします。
作者、谷川流は、多分、プロフィールから分かるように
SF小説好きの、多少文学指向のある我々と同世代のオヤジです。
多分、いろいろと文学賞にもノミネートしたのでしょうが、
今の文壇では、良いとこ取れてメフィスト賞くらいの実力では?
ただ、非常に論理的思考に優れている点が彼の才能かもしれません。
そして、適当にノミネートした「電撃大賞」で、
たまたま、ライトノベルに挑戦して、
奇跡的に「ハルヒ」が生み出されたといった所ではないでしょうか。
「美少女キャラ」や「萌え」は、ライトノベル的世界観を支えるための道具でしかなく、
作者本人も、そういった指向は無く、
結果、「萌え」を解体・再構築してしまったといった所でしょうか。
ウィリアム・ギブソンが「ニュー・ロマンサー」を書くに当たり
コンピューターを全く知らなかった事がむしろ幸いし、
従来のネットワークの先の世界を幻視してしまったように、
谷川流は、「萌え」的感性を持ち得なかった故に、
粘質な甘えの構造から抜け出る事のなかった「萌えキャラ」を、
硬質でスピード感溢れる世界に「開放」したとも言えるのでは。
これは、「萌え」の構造に世界が爆縮する、
「エヴァンゲリオン的世界」の対極にありそうです。
「ハルヒ」シリーズ自体が、脱構造的で、
音楽で例えるなら、ジョン・ゾーンの圧縮音楽に近い物では無いかと思います。
(ジョン・ゾーンはアメリカのサックス奏者であり現代音楽家。
何曲かの音楽をファイルカードに断片的に書き、それぞれを混ぜてシャッフルし、
カード順に演奏するという、ファイルカード・ミュージックや、
スポーツのルールにも似たルールとコンダクターによって即興的かつ組織的に
演奏が進行するゲームセオリー・ミュージックの創始者。
ネイキッド・シティーはその完成形ともいえるグループで、
近・現代音楽の破壊と再構築を圧倒的なスピードでこなしています。
スピードと密度こそが現代の本質である事を音楽によって示しています)
要は、インターネットの時代に、文学は説明義務を放棄して、
ひたすら、物語のスピードを追求できる事を、無自覚に実現しているのでは?
一人称や難解な名詞の羅列などSFやハードボイルドなど、
20世紀の文学の系統に属するこの作品は、
しかし、SF的な事象の説明や追及を初めから放棄しています。
「ハルヒの世界を構築する力」という、ある意味ムチャクチャな設定が、
「作者の物語を構築する力」という神性を、強力に補完しています。
ある意味、ぶっちゃけ、「なんでもあり」という逃げが最初から打たれている訳です。
ですから、雑多に理論や、断片的な推論は、全て投げっぱなしで、
後は、読者がインターネット等で補完して、
それぞれの解釈で作品世界のバリエーションを広げていくという、
あるいみ、インタラクティブな構造をも提示しています。
さらに、タイムトリップを扱う事によって生ずるパラドクスを
無理に収束するのではなく、さらなる開放に利用した事が、
物語世界が、創作世界の構造をジャックするという
とんでもない事態を招いてしまったのではないでしょうか?
要は、小説世界の創造において、本来、絶対的な創造者であった作者が、
物語の構造に取り込まれてしまって、作者本来の神性を喪失していきます。
「なんでもあり」という非常に自由に思えたルールが、
論理的思考を尊重する作者にとっては、
超え難い壁となって、フィードバックされてきています。
「涼宮ハルヒの分裂」において、とうとう作品世界は2つの流れに分裂します。
これは、作品を少年少女のエンタテーメントとして継続させたい出版社の意向と、
「なんでもあり」の世界を論理的に極めんとする
作者の指向の分裂でもあるように感じます。
次回作が遅れに遅れているのは、そんな軋轢で
作者が創作意欲を喪失したか、
あるいは、書き上がった作品が、完全に「良い子の少年少女」を振り切ってしまい、
出版社にダメ出しされたか・・・いろいろ邪推してします。
とにかく、ハルヒシリーズの「文学的破壊力」の前に、
「純文学」のなんと脆弱な事か・・。
高橋源一郎も一時期、文学の解体と脱ジャンルを志して面白かったけど、
ポップカルチャーを触媒としても
文学が文学を再構築するという、閉塞感からは逃れられませんでした。
「ハサミ男」の殊能将之も、「美濃牛」以降、
文学と読者の協調関係への破壊活動を止めてしまっています。
(ゲリラ的で、後ろ足で砂をかける程度の活動ですが)
そんな中、一人で文学を破壊して爆進していた、
谷川流・・・いや、「涼宮ハルヒとSOS団」がその活動を再開する日が待ち遠しい。
最後に一言、
「涼宮ハルヒ」シリーズ。
ガキドモには・・・・もったいない。
(そう言いながら、我が家の小6の娘とその仲間達、
中3の息子とその仲間達に浸透中!!)