本との出会いは、タイミングが重要だと思います。
例えば夏目漱石が良いからと言って、
中学生に「友情」が理解出来るかというと、退屈な本です。
太宰の「人間失格」なんて、教育に良いとはとても思えません。
やはり、子供は子供らしい本が良いですし、
ちょっと背伸びするにしても、古典ではなく、
現代小説を読んだほうが、興味を引かれるし、
楽しい読書が出来ます。
先日、アメリカ人の友人と話していたら、
彼は、今、エミール・ゾラに夢中だと言っていました。
何がって・・・当時の風俗や思想を克明に描写していて興味深いと・・。
「当時のフランスの上流階級と下層階級のモラルハザードはすさまじく、
本当に誰とでも寝るんだよ。」って。
学生時代は教養として、無理に読んでいた古典や近代の小説も
年齢を重ね、知識が増えると、
つまらなかったと思っていた本が、突然魅力的に感じたりします。
古典小説に限らず、流行小説でも同じ事が言えるかもしれません。
ベルハルト・シュリンクの「朗読者」も正にそういった一冊かもしれません。
もう十年近く前のベストセラーですから、今更な感はしますが、
10年前の私には理解出来なかったと思います。
何が?と言うと、歴史という物や、戦争への認識が当時の私は未熟でした。
15歳の主人公は20歳くらい年上の女性ハンナと肉体関係を持ちます。
年齢の差による抑制が、むしろ二人の関係は深めていきます。
ある意味、非常にインモラルでエロチックな関係ですが、
ヨーロッパ映画にも通じる、温度の低い湿り気、
彩度の低い色合いが、二人の関係を静かに描き出します。
ハンナは主人公に本の「朗読」をせがみます。
学校の教材、父親の本、種々の本を主人公は「朗読」し、
ハンナは率直で素朴な感想を述べて行きます。
そんな二人の関係がしばらく続き、
主人公にとってハンナがかけがえの無い存在となってきた時、
ハンナが突然、街から姿を消してしまします。
二人が再開するのは、主人公が法科の学生として傍聴する裁判所でした。
ハンナはナチスの看守として、被告人となっています。
告発された罪は、連合軍の爆撃の中、
ユダヤ人収容者達を教会に閉じ込めたまま死なせた罪。
警備の軍が逃亡し、女性看守だけでは収容者を統率出来ない状況での悲劇でした。
ハンナは認めるべき罪は率直に認め、主張すべき事は毅然と主張します。
しかし、裁判は彼女が不利な方向に進んで行きます。
同僚の看守達も、ハンナに罪を着せていきます。
さらに、ハンナは若く体の弱いユダヤ人収容者(女性)を傍らに置いていた・・・。
彼女達はある一定の期間が経つと、収容所に戻され、交代していた・・・。
そんな、看守の証言も彼女を不利な立場に追い込みます。
裁判が進むにつれて主人公はある違和感を覚えてきます。
ハンナが裁判の資料を読んでいないのでは?
原告が出版した告発的な本も読んでいないのでは?
若い頃、何故自分は「朗読」をさせられていたのか?
何故、彼女は街を去ったのか・・・何故、看守になったのか?
・・・ハンナは文字が読めないのだ・・・。
遂に、主人公は気づきます。
ユダヤ人の少女達にハンナは「朗読」をさせていたのだ・・・。
その事実が露呈する事を、ハンナがいかに恐れているかを・・・。
この本の一つの主題は、「文字が読める」という現代では当たり前な事が
いかに人間にとって大事な事なのか、
「読める」事による知識が現代人を現代人たらしめているというを事。
「読めない物」の劣等感と損失がいかに重大であるかという事。
文明の隙間に落ちた人間の苦悩を淡々と描いています。
しかし、「朗読者」の本質は「歴史認識」にあります。
作者自身、法学者である事からも、
この本は、ドイツの戦後の「戦犯」に対する裁判を
現代の法律認識から、再検討する事にこそこの本の主題があります。
日本でも昨今、「自虐史からの脱却」が試みられています。
航空自衛隊の幹部の論文が問題になっていますが、
戦勝国による一方的な歴史認識の押し付けと
周辺国の歴史捏造に対して、正しい歴史認識や
当時の正確な状況把握を試みる動きが活発化しています。
歴史というものは「不変」のような顔をしながら、
なんと「移ろい易い」のでしょうか。
勝者の歴史と、敗者の歴史はなんと乖離しているのでしょうか?
たかだか、60年前、写真も文字も、さらには「生き証人」のいる時代の歴史すら
時代とともに移ろってしまし、事実の確認すら困難な事の歯痒さを
多くの日本人が今感じています。
同じ歯痒さを、きっとドイツ人も感じているのでしょう。
ユダヤ人虐殺に関しては、ドイツは国際的には逃げも隠れもせず
堂々とその非を認め、ナチス戦犯を裁いてきました。
しかし、そんなドイツでも、
時代に翻弄された「戦犯」達の個人の尊厳を回復しようという動きがあるのでしょう。
ネオナチのような極端な反動活動ばかりが注目されますが、
正しい歴史認識を欠いた状態こそが、稚拙な反動活動を生み出す温床とも言えます。
日本にしても、学校で現代史をほとんど教えない現実。
教えても、左派系教師の偏狭な視野からの教育が多く、
メディアも左傾化の傾向が強い状況で、
どれだけの日本人が先の戦争の実態を正しく認識しているでしょうか。
戦争=殺人・・・これは確かに事実です。
ただ、個人の殺人と、国家の戦争はあきらかに異なるものです。
戦争は国家間の生存競争であり、
国家間の利害の最終調整は戦争で行う事が当たり前であった時代の
個人の戦争責任を問う事がいかに難しい事か・・・。
そういった事への想像力を欠いた国の将来に不安を覚えます。
「朗読者」の作者も同じ焦燥から、
この文学的にも素晴らしい本を書いたのではないでしょうか。
10代に「朗読者」を呼んでいたら、性的描写に興奮した事でしょう。
20代ではれば、文学的な構成と抑制の美学に感動したでしょう。
今、40代になって、歴史認識というあらたな視点で考えさせられる事の多い本です。
本との出合いはタイミングが重要だと、つくずく思わせる1冊です。