■ 強風に乗って佐原にGO!! ■
強風予報の土曜日。強い西風の日は東に走るが吉。
そこで、幕張から花見川を遡上して印旛沼に向かいます。本日のお供はcannondaleのシングバイクCAPO君です。
追い風の時は大きなギアーを掛けられるギア付が有利ですが、花見川、新川、印旛沼と続くサイクリングロードはジョギングや犬の散歩の方も多いのでスピードは出せません。歩行者や犬の横は最徐行となるので、むしろトップスピードが制限されるMTBやシングルバイクの方がストレスが少ない。
追い風に乗ってあっと言う間に佐倉の「ふるさと広場」に到着。本日はオリンパスのコンパクトカメラを持参しているので、いつものiPhoneより写真がキレイ。売店で地元のソラマメを250円で買ってリュックに詰めます。これ、スーパーの半額で鮮度が良いので売り切れ必至。見つけたら即ゲットは常識?
佐倉から先の印旛沼サイクリングロードは人影も疎らで釣り人が突然草むらから飛び出して来る事も無いのでスピードに乗ります。途中、エアロロードを追走して37Km/hでペダルを回し続けます。ギアー比2.8のシングルギアーの35km/h以上の速度はケイデンスが高すぎて私のペダリングスキルではロスが増えます。ガッチガッチのアルミバイクで踏み過ぎるとどうなるか・・・・、追い風でも足が売り切れます・・・。利根川に到着した時には既に売り切れ状態でした。3週間自転車に乗れていないので、一度筋肉痛まで追い込みたかったのでむしろ好都合。ここから肉体をさらに痛めつけると体力が戻るはず・・・。
■ 江戸時代の穀倉地帯の香取一帯は醸造文化の宝庫 ■
利根川の土手の上のサイクリングロードは今日は追い風、さらに10m/sに近い強風。一度40Km/s近く加速してしまえば、あとはペダルを回さなくても30Km/h以上でしばらく惰性で走れます。これで足を温存して神崎(こうざき)町に昨年出来た「道の駅・発酵の里こうざき」に到着です。
水郷と呼ばれた北総・香取一帯は大穀倉地帯です。利根川という水運で江戸への輸送路が確保されているこの地で味噌や醤油、そして日本酒の生産が盛んだった事は当然と言えます。かつて神崎、佐原一帯には多くの酒蔵や味噌蔵、そして醤油蔵がありました。
「道の駅・発酵の里こうざき」には周辺の発酵食品や地酒を一同に会した「発酵市場」が在ります。
店内には神崎町の日本酒、味噌、醤油、さらに酵母ドリンクや様々な発酵食品が売られていて、さながら発酵博物館の様です。
■ 佐原は中国人観光客で賑わっていた ■
こうざき町から10km、佐原に到着します。ここが本日の目的地。浦安からは97km、4時間で到着です。
佐原は江戸時代に利根川水運で栄えた商業の街です。江戸への荷物、江戸からの荷物がここに集荷されました。街の中心部を小野川が流れていますが、その周辺はまさに時代劇のセットの様に古い建物が並んでいます。
かつては千葉県屈指の観光地でしたが、同じ「小江戸」というカテゴリーでは東京からの電車の便の良い川越に分が有ります。近年観光客も減っていましたが、最近は中国の方の観光スポットになっている様で、街に活気が戻っていました。しかし、中国の方々って養老渓谷や佐原など日本人もあまり知らない「穴場観光スポット」を良く知っていますよね。そして、醒めた日本の観光客と違い、すごく楽しんでいると言うか感動しているのが良く分かります。日本人も昭和40年代までは国内の観光地で同じ表情をしていた事を懐かしく思い出します。
小野川を川船で巡るコースは昔も今の人気です。大人1300円ですが、水辺から見る景色も格別なのでしょう。こちらも中国の方で大盛況。
■ ジャアジャア橋(樋橋) ■
観光川船の船着き場を見下ろす橋は「樋橋(とよ橋)」という橋ですが、別名「じゃあじゃあ橋」。何故そう呼ばれているかと言えば・・・
そう、橋の下側から水がジャアジャアと流れ落ちているのです。「マンマじゃねーか!!」と突っ込みの一つも入れたくなりますが、江戸時代に農業用水を小野川を跨いで通した今で言う所の水道橋。その上に人が歩く橋が掛っていたのですね。オリジナルの木造の橋は300ン年程使われ、その後コンクリート製に。
現在掛っている木造の橋は観光用に再建されたもので、流れ落ちる水も30分に一度デモンストレーションで放水されています。
■ 伊能忠敬旧家 ■
じゃあじゃあ橋の袂に在るのが「伊能忠敬の旧家」。青木昆陽と並び千葉県の偉人ランキングではトップクラスの伊能忠敬。冲方丁原作の『天地明察』によって近年脚光を浴びた江戸時代の「暦学者(天文学者)」です。おっと、そこのあたな、測量技師だと思っていましたね・・・。
伊能家は佐原の旧家。酒造を営んでいましたが、後継ぎが絶えていました。娘のミチが14才で婿養子を迎えますがしばらくして婿は他界します。ミチの再婚相手に母タミの兄が推薦したのが三次郎、後の伊能忠敬です。
小関村(現在の九十九里町小関)の名主の末っ子として生まれた三次郎ですが、あまり幸せでは無かったらしく、若い頃は各地を転々としています。佐原の普請工事の現場監督をしていた時に、その働きぶりがタミの兄の目に留まり、伊能家の婿に抜擢されます。
伊能家での忠敬は商才を発揮し、傾いていた家業を立て直すと同時に、人望も厚くやがて佐原村の名主に抜擢され、佐原の為に尽力します。
■ 暦学と全国測量 ■
仕事の傍ら、様々な学問に興味を持った忠敬でしたが、とりわけ「暦学(天文学)」に惹かれました。息子が成人すると地頭に隠居を申し出ますが、これは受け入れられず、家業を息子に譲って事実上隠居し、学問に没頭して行きます。
寛政6年(1794年)、齢50にして隠居がようやく認められ、忠敬は江戸に留学します。彼が支持したのは暦学者の高橋至時。「歴学」とは天文学の事ですが、歴学者が正確な暦を作る事は幕府にとって重要な役割でした。当時使われていた「宝暦暦」は度々日食や月食の日時を外すなど、精度に問題が在りました。幕府お抱えの暦学者がズレの原因を解明出来ない一方で、民間暦学者の麻田剛立一門は西洋天文学のケブラーの法則なども取り入れて幕府お抱えの暦学者よりも進んでいました。
そこで幕府は麻田門下の高橋至時らに「改暦」の作業に当らせます。伊能忠敬は江戸で先進の暦学を学ぶ為、至時に支持します。ある程度独学で暦学を習得していた忠敬はハイスピードでケブラーなどの西洋天文学をマスターして行きます。
無事「改暦」の作業を終えた至時でしたが、彼と忠敬は当時の子午線の制度に不満を持っていました。そこで彼らは正しい子午線を得る為に地球の大きさを正確に測ろうと思い立ちます。蝦夷から江戸の距離を正確に測れば、地球の大きさが類推できると考えたのです。
ちょうどその頃、幕府はロシアが度々出没する蝦夷地の正確な地図の作成を望んでいました。これに至時と忠敬は幕府に蝦夷地の測量を伺い立て、曲折を経てこれが認められます。時至は忠敬を測量隊の頭領としますが、これは彼の知識、統率力、そして財力を買っての事でした。
第一次測量隊として忠敬が江戸を出立したのは1800年4月19日。この時、忠敬は55才。その後、測量隊は第十次まで繰り返し続けられ、種子島などの離島まで測量します。
彼らの測量結果は詳しい地図にまとめられますが、この地図の完成を待たずして忠敬は弟子たちに見守られ1818年にこの世を去ります。未だ地図が完成していなかった事から彼の死は幕府には知らされず、1821年『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成しました。
現在『大日本沿海輿地全図』と測量道具など一式2345点は国宝に指定されています。
この後は明日に続きます。
明日は「醸造文化」の街、佐原、神崎の酒蔵を巡ります。
「日本一美味しい味醂」と「日本一まずい日本酒」を紹介します!!
お楽しみに。