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静岡のお茶と清水港の歴史 その二十七 清水次郎長 (表紙は巴町公園のタチアオイとA3000)

2021-07-14 12:30:34 | 静岡の歴史、お茶、廃線

こんにちは  2021年7月14日の水曜日です。  

表紙撮影は6月中旬  静岡鉄道新清水駅近く、巴町公園片隅に咲くタチアオイ

電車と一緒に、苦労の構図です。

シェアサイクルはとても便利で楽チン。 あっという間に歴史ある清水町に到着。

次郎長通り入口、元気に営業中の精肉店前から。 蔵らしきものがあります。 奥が歴史ある港橋。

昨年秋にも貼ったか、清水次郎長生家   見学無料   今回初めてお邪魔しました。

清水次郎長(1820~1893) 本名は山本長五郎

訪問日はなんと次郎長さんの命日でして、お線香あげ次の目的地へ。

明治19年(1886) 次郎長が開業した船宿「末廣」(復元)へ   港橋渡ってすぐの所。

清水港の振興、富士山麓の開墾事業など、次郎長が地域のために奔走した晩年の姿を知ることができます。

15分ほどビデオを観てから散策。

(末廣展示 明治20年代の波止場)

明治8年、巴川の河口港を外海港にするため、慶喜の家臣白井音次郎の向島の土地三万坪を静岡県から払い下げを受ける

明治9年、蒸気船静岡丸、清水港~横浜港間に就航 静岡茶を横浜に運ぶ。

  次郎長は頻繁に横浜に行き神風楼に宿泊し横浜商人と清水港廻船問屋経営者を結びつける。

明治11年、波止場築造

明治13年、横浜の輸出商、静岡の茶商、清水港の廻船問屋の三者による共同出資による

  株式会社「静隆社」の設立に尽力。茶のみなと清水港の基礎を築く。  

明治19年、白井音次郎の所有地に船宿「末廣」を開業  (写真左上) 

 

大正時代の波止場と末廣

現在

石碑が置かれております。

48歳のときに明治維新となり、渡世人をやめて74才(明治26年)で亡くなるまで多くの事業に関わり

清水の発展に活躍しました。

「いいね!」ありがとうございます。

 


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